「銘文を読んで参っても、よろしいでしょうか」

西欧圏の古都に多い、石敷きの広場に面したオープンカフェで茶菓を註文したあと、先生は思い切って、彼にそう申し出た。

広場の中央を占める、文化遺産の噴水の銘文が、気になるのだ。
「落ち着かぬのなら、見てきなさい。ああ、日傘を」
先生は、強い日差しに弱い。
こちらで、急遽購入した、パゴダ形に開く、UVカット加工の瀟洒な傘を持たせようとすると、
「いえ、すぐに戻りますので」
と、もしかしたら、今まで彼が差してくれていたので、大人しく傘の日陰に身を寄せていたのかもしれない、そんな甘い憶測を誘うような微笑で制されて、彼は先生の薄い背の行方を追っていた。

異郷で、黒い髪は目立つ。
しかも、あの顔立ちに、道行く幾人もが、先生を振り返る。
”どうじゃ、目が覚めるようであろう”
と、鼻高々の彼も、其の足の運びの品の良いこと、微風と歩みに揺れる裾の端にすら、眸が釘付けになる。
それとも、駆け出していって抱き上げて、くるくると回って、何を隠そう、儂の大事な想い人 と、広場の真ん中で絶叫してしまおうか、といような衝動にすら襲われた。

先生は、かがみ込んで、一部腐食した金属板の銘文に熱中する。
当然、中国語ではない。
ここは英語圏でもないのだが、併記されているのであろう英語を読んでいるのかもしれない。
あの天才のこと、多言語で書かれた、全ての語感を読み取って引き比べて楽しんでいるのかもしれない。
そこへ、若々しく洒落たタイトな服に身を包んで、遠目も8.5頭身の、モデルのように彫りの深い、金髪の男が、ゆっくりと近づき、銘文を読む先生に並んだ。
先生が、その男に注意を移したので、白い横顔が見え、
何か話しかけられた様子が見て取れた。
ふたこと、みこと、かわしてから、右手で握手して、金髪の男は、先生から離れながら、広場をぐるり見渡して、どこへともなく去っていった。

「意外に、復元の箇所が多いようでした」
言い寄られていたらしいことを、全く気付いていないように、知的好奇心を満足させて、先生は彼の隣に、無事に帰ってきた。
「そなたは、自分が人目を引くということを、 ちと、心得た方がよいぞ」
彼は、年甲斐もない嫉妬心のようなものに、寛い胸をちくちくと痛めながら、おっとりと窘めた。
え?と、先生は分からない顔をしてから、金髪の男をやっと思い出したように、
「東洋人が、物珍しいのでございましょう。 『読めますか』、と、ご親切に」
風に舞う花びらのように、無邪気に笑んだ。
彼は、大袈裟に舌打ちして、
「そういうのを、軟派というのではないか」
眉を顰めてみせる。
「まさか、そのような」
先生は、また不思議そうな顔をしてから一笑に附した。

くだんの金髪男が、いちど通り過ぎて、横丁の花屋の屋台で一輪の薔薇を買い、それを後ろ手にして戻ってきたのが、彼には丸見えだった。
男は、先生の右手の指輪を見つけて、辺りを見回して、もちろん、彼と目が合って、退却していったのだ。
それを先生は、知らない。

先生が、見知らぬ男にあっさりついていくことなど有り得ないと、頭では理解しているが、惚れた弱みか、あのような若々しい美男子を隣にしているのを見るとハラハラとする。
周家のあの男には、何も感じなかったというのに。
「いっそ、そなたを、目の中に入れてしまえればよいものを」
「そんなに子供ではございませんよ。 それに、困ります。お貌を見ることができなくな・・・」
虫除けのお守りが効いてよかった と言うかわりに、
彼は、先生の右の薬指に、そっと唇を押し当てていた。


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