「先生こんにちは」
「こんにちは、姜くん」
学校が短縮授業だった日の夕暮れ時の公園のベンチで、先生と天水出身の秀才少年は、ばったり、否、少年の計画的に再会した。
先生の腰の辺りの高さから、珍しいキリン柄の大型犬も、ワンッ、と、自己主張をおこなう。
「ふふ・・。あなたも、こんにちは」
嬉しそうに、キュウキュウと喉を鳴らして、大型犬らしからぬ甘えたそぶりを見せる。
飼い主の少年の傍に、行儀よくお座りをしてはいるが、尻尾を勢いよく左右にぱたぱたと振って、先生に戯れかかるチャンスを窺っていることはあきらかで、
「ジラフィー、わかるけど、大人しくしてないと先生に嫌われちゃうぞ」
先生の、麻混のような涼しげな風合いの、伝統的な緩いスタンドカラーの、葡萄の蔓を象った水色の刺繍があしらわれた、袖口と裾のゆったりとした、象牙色に似た淡い装いにみとれながら少年が飼い犬に注意を促すと、大型犬はそれを聞くなり、耳をしょんぼりと萎れさせて、しおらしく俯いてみせる。
「よいのですよ、あなたに似て、賢い」
先生は白い手で、大型犬の変な模様の頭をそっと撫でた。
「……(ぼくに、似て?)」
少年の眼鏡の奥の目元が少し狼狽したような色を刷いたところを出し抜くかのように、ぐるぐると喉を鳴らして、先生の白い手を早速舐めにかかる大型犬であった。
「姜くーん、三角野球やらないー?」
公園の遊具の向こうの、簡易ネットが張られた向こうから、キャッチボールをしていた劉家の子息が大声で呼んで手を振った。
「いってらっしゃい。わたくしでよろしければ、ジラフィーと待っていますよ」
「えっ……。それじゃあ、お願いします。ありがとうございます」
少年は素直に、飼い犬のリードを先生に預けて駆けてゆく。
「おや、今日は何を読んでおるのだ」
背後から、おっとりと慕わしい聲が投げかけられたので、先生は本を持ったまま立ち上がり、
「公叔」
白皙の貌を輝かせて振り向いた。
仕事帰りの車内の信号待ちで、公園の入り口から先生の姿を見つけて、途中で降りてきたのだ。
朝、出かけた時と同じ、グレイの背広に、鮮やかな蒼色の細縞のシャツを着て、
ノーネクタイの軽い装いをしている。
「おかえりなさいませ」
「うん……『南総里見八犬伝』……か。知らんな。列伝か?」
「日本の物語なのです。水滸伝と比較すると面白うございます」
先生は、本を閉じて、彼に表紙を見せながら
「公叔」
嬉しそうな聲音で、彼を呼んだ。
「ん? なんじゃ」
彼は表紙を一瞥して、先生の微笑に相好を崩して応じながら、仕事の疲れがひといきに吹き飛ぶのを感じて、まぶしそうに先生を見つめた。
「古い版本なのです。ご覧ください、挿絵の刷り色も、保存状態がよく、こんなに残っております。先代のご愛蔵の棚から、拝借してしまいました」
「そうか、ではその本も、久々に日の目を見て嬉しかろう」
彼が、機嫌よく笑いながら、
かけてもよいかと視線で問うので、先生は双眸を甘く緩めて一歩横にずれて彼のためにベンチを広く譲って、ふわりと座った。
先生の動きにあわせて、大型犬も一度立ち上がり、
「ワン」
と一声鳴いて自己主張する。
「ジラフィー。公叔ですよ。禅さまの、お父上です」
先生の注意を惹いて満足したのか、大型犬はベンチの端にぴったりとついて、
興味少なく寡黙に座った。
「父うえーっ、おかえりなさーい」
三角野球の一団から、子息の声がする。
子供らも一斉に、大きな耳朶を左右にした彼の姿をみとめると、敬意を表して、一様に脱帽したり一礼したりするので、彼は長い腕を挙げて、それに応じる。
「大人しい犬だな、キリンの柄をしておる。面白い。……随分と懐かれておるようだが」
「禅さまの、お友達の飼い犬です」
「ほう、あそこで野球をやっておる……あの、眼鏡の子か」
「はい」
「ふむ」
彼は、子息と、常山の好漢と、見慣れた少年に混じって、新顔の、眼鏡の少年が野球に打ち興じている姿をしばし眺めながら
(どうも、気が散っては居ないか。あの子は)
取り損じや打ち損じは見えず、器用にこなしてはいるのだが、力八分目という様子で、どうも遊びに没頭しているように見えない。
微妙な距離感で先生と並んで腰掛け、野球の様子を観察していると、取り損ねたボールが球足も弱く飛んでくる。
塩化ビニール製の、おもちゃのバットなのだ。公園での野球の暗黙のマナーともいえる。打球は弱い。
迫りくる物体の気配に、ジラフィーの耳がピンと立つのと同時に、彼は徐に立ち上がり、素手で打球を捕らえてボールを掲げてみせると、脱帽して礼儀正しく一礼しする眼鏡の少年に投げ返した。
少年は、彼の返球を乾いた高音とともにグラブにおさめると、一瞬、先生にか、
それとも飼い犬になのか、曖昧な視線を注いでから塁に戻る。
先生は本を膝の上に置き、隣で大人しくしている大型犬の頸のあたりを撫でながら、三角野球を、優美な笑みを含んで眺めていた。
(なるほど、な)
彼は納得して、先ほどよりも先生に寄って座りなおすと、
「……のう、孔明」
先生の注意を野球から逸らすように話しかけた。
「はい」
「『将を得んと欲すれば』じゃが」
「はい」
「この場合は、まず、犬のようじゃな」
「え?」
不穏なものを感じて、大型犬が耳を立て、彼と先生が座る間に割って入ろうとする。
彼はそれも構わず、公園で遊ぶ者たちには背を斜に向けるようにして、先生のほそい肩を抱いて長い腕の中に攫うと、
「公しゅ……」
先生が言おうとする言葉の続きを口髭のあたりで遮ってしまう。
大型犬は、先生に何か良からぬことが起こったと察知して、この耳の大きな男の背の向こうで何が起きているのか確認しようと、彼を咎めるように膝の辺りを前足で登るように何度か挑んだが、先生が悲鳴をあげるでもない様子に、さすがに賢く空気を読んで、ワンと吠えて飼い主の注意を喚起することは憚った。
彼はといえば、先生の膝から書籍が滑り落ちようとするのを大きな手で受け止める余裕すら見せて、先生の唇の甜さを味わっている。
大型犬は、心配げにうろうろとして立ったり座ったりを所在無く繰り返してから、
がっくりと耳を垂れて、意気消沈しながらベンチの横に退却して座ってしばらく待った。
「あの……、公、叔」
先生は、呼吸困難を解消しようと、肩で息をつきながら、高潮した頬を白い両手で覆って、彼の真意をうかがう。
彼は、先生を解放しながらも、白い手をとって、
「こういうことはな、最初が肝腎じゃ。舐められてはいかん」
「……どういうことでございますか」
「犬でも、悪ガキでも、同じということじゃ」
「姜くんは、悪餓鬼ではございません。年少とはいえ……」
「それ見たことか。ませた悪ガキではないか」
彼は、眉間に皺を刻んでみせると、先生の右手の指輪に唇を寄せながら、
「虫除けが幾つあっても足りん」
独り言のように囁いてからスクと立ち上がり、
「ジラフィーとやら、そういうわけでな、これは、儂の大事な想い人じゃ。諦めよ」
彼はジラフィーに高らかに宣言してから、眼鏡の少年の姿に目を移した。
ジラフィーは、横目でチラと先生を未練がましく見てから、くうんと鼻を鳴らして、尻尾を垂れている。
「次は、将のほうじゃな」
腕の長い背広の上着を脱いで先生に羽織らせると、縞のシャツの袖を捲って、不敵に口元を歪めて笑んだ。
「まあ、見ておれ」
夏至も近いとはいえ、まもなく自動的に街灯が点灯しはじめようというのに、
彼は、どうやら大人げなくも、しばし三角野球に混ざる気であるらしかった。
<七曜七題 全8話>全話一気読みへのショートカットは → こちら
「こんにちは、姜くん」
学校が短縮授業だった日の夕暮れ時の公園のベンチで、先生と天水出身の秀才少年は、ばったり、否、少年の計画的に再会した。
先生の腰の辺りの高さから、珍しいキリン柄の大型犬も、ワンッ、と、自己主張をおこなう。
「ふふ・・。あなたも、こんにちは」
嬉しそうに、キュウキュウと喉を鳴らして、大型犬らしからぬ甘えたそぶりを見せる。
飼い主の少年の傍に、行儀よくお座りをしてはいるが、尻尾を勢いよく左右にぱたぱたと振って、先生に戯れかかるチャンスを窺っていることはあきらかで、
「ジラフィー、わかるけど、大人しくしてないと先生に嫌われちゃうぞ」
先生の、麻混のような涼しげな風合いの、伝統的な緩いスタンドカラーの、葡萄の蔓を象った水色の刺繍があしらわれた、袖口と裾のゆったりとした、象牙色に似た淡い装いにみとれながら少年が飼い犬に注意を促すと、大型犬はそれを聞くなり、耳をしょんぼりと萎れさせて、しおらしく俯いてみせる。
「よいのですよ、あなたに似て、賢い」
先生は白い手で、大型犬の変な模様の頭をそっと撫でた。
「……(ぼくに、似て?)」
少年の眼鏡の奥の目元が少し狼狽したような色を刷いたところを出し抜くかのように、ぐるぐると喉を鳴らして、先生の白い手を早速舐めにかかる大型犬であった。
「姜くーん、三角野球やらないー?」
公園の遊具の向こうの、簡易ネットが張られた向こうから、キャッチボールをしていた劉家の子息が大声で呼んで手を振った。
「いってらっしゃい。わたくしでよろしければ、ジラフィーと待っていますよ」
「えっ……。それじゃあ、お願いします。ありがとうございます」
少年は素直に、飼い犬のリードを先生に預けて駆けてゆく。
「おや、今日は何を読んでおるのだ」
背後から、おっとりと慕わしい聲が投げかけられたので、先生は本を持ったまま立ち上がり、
「公叔」
白皙の貌を輝かせて振り向いた。
仕事帰りの車内の信号待ちで、公園の入り口から先生の姿を見つけて、途中で降りてきたのだ。
朝、出かけた時と同じ、グレイの背広に、鮮やかな蒼色の細縞のシャツを着て、
ノーネクタイの軽い装いをしている。
「おかえりなさいませ」
「うん……『南総里見八犬伝』……か。知らんな。列伝か?」
「日本の物語なのです。水滸伝と比較すると面白うございます」
先生は、本を閉じて、彼に表紙を見せながら
「公叔」
嬉しそうな聲音で、彼を呼んだ。
「ん? なんじゃ」
彼は表紙を一瞥して、先生の微笑に相好を崩して応じながら、仕事の疲れがひといきに吹き飛ぶのを感じて、まぶしそうに先生を見つめた。
「古い版本なのです。ご覧ください、挿絵の刷り色も、保存状態がよく、こんなに残っております。先代のご愛蔵の棚から、拝借してしまいました」
「そうか、ではその本も、久々に日の目を見て嬉しかろう」
彼が、機嫌よく笑いながら、
かけてもよいかと視線で問うので、先生は双眸を甘く緩めて一歩横にずれて彼のためにベンチを広く譲って、ふわりと座った。
先生の動きにあわせて、大型犬も一度立ち上がり、
「ワン」
と一声鳴いて自己主張する。
「ジラフィー。公叔ですよ。禅さまの、お父上です」
先生の注意を惹いて満足したのか、大型犬はベンチの端にぴったりとついて、
興味少なく寡黙に座った。
「父うえーっ、おかえりなさーい」
三角野球の一団から、子息の声がする。
子供らも一斉に、大きな耳朶を左右にした彼の姿をみとめると、敬意を表して、一様に脱帽したり一礼したりするので、彼は長い腕を挙げて、それに応じる。
「大人しい犬だな、キリンの柄をしておる。面白い。……随分と懐かれておるようだが」
「禅さまの、お友達の飼い犬です」
「ほう、あそこで野球をやっておる……あの、眼鏡の子か」
「はい」
「ふむ」
彼は、子息と、常山の好漢と、見慣れた少年に混じって、新顔の、眼鏡の少年が野球に打ち興じている姿をしばし眺めながら
(どうも、気が散っては居ないか。あの子は)
取り損じや打ち損じは見えず、器用にこなしてはいるのだが、力八分目という様子で、どうも遊びに没頭しているように見えない。
微妙な距離感で先生と並んで腰掛け、野球の様子を観察していると、取り損ねたボールが球足も弱く飛んでくる。
塩化ビニール製の、おもちゃのバットなのだ。公園での野球の暗黙のマナーともいえる。打球は弱い。
迫りくる物体の気配に、ジラフィーの耳がピンと立つのと同時に、彼は徐に立ち上がり、素手で打球を捕らえてボールを掲げてみせると、脱帽して礼儀正しく一礼しする眼鏡の少年に投げ返した。
少年は、彼の返球を乾いた高音とともにグラブにおさめると、一瞬、先生にか、
それとも飼い犬になのか、曖昧な視線を注いでから塁に戻る。
先生は本を膝の上に置き、隣で大人しくしている大型犬の頸のあたりを撫でながら、三角野球を、優美な笑みを含んで眺めていた。
(なるほど、な)
彼は納得して、先ほどよりも先生に寄って座りなおすと、
「……のう、孔明」
先生の注意を野球から逸らすように話しかけた。
「はい」
「『将を得んと欲すれば』じゃが」
「はい」
「この場合は、まず、犬のようじゃな」
「え?」
不穏なものを感じて、大型犬が耳を立て、彼と先生が座る間に割って入ろうとする。
彼はそれも構わず、公園で遊ぶ者たちには背を斜に向けるようにして、先生のほそい肩を抱いて長い腕の中に攫うと、
「公しゅ……」
先生が言おうとする言葉の続きを口髭のあたりで遮ってしまう。
大型犬は、先生に何か良からぬことが起こったと察知して、この耳の大きな男の背の向こうで何が起きているのか確認しようと、彼を咎めるように膝の辺りを前足で登るように何度か挑んだが、先生が悲鳴をあげるでもない様子に、さすがに賢く空気を読んで、ワンと吠えて飼い主の注意を喚起することは憚った。
彼はといえば、先生の膝から書籍が滑り落ちようとするのを大きな手で受け止める余裕すら見せて、先生の唇の甜さを味わっている。
大型犬は、心配げにうろうろとして立ったり座ったりを所在無く繰り返してから、
がっくりと耳を垂れて、意気消沈しながらベンチの横に退却して座ってしばらく待った。
「あの……、公、叔」
先生は、呼吸困難を解消しようと、肩で息をつきながら、高潮した頬を白い両手で覆って、彼の真意をうかがう。
彼は、先生を解放しながらも、白い手をとって、
「こういうことはな、最初が肝腎じゃ。舐められてはいかん」
「……どういうことでございますか」
「犬でも、悪ガキでも、同じということじゃ」
「姜くんは、悪餓鬼ではございません。年少とはいえ……」
「それ見たことか。ませた悪ガキではないか」
彼は、眉間に皺を刻んでみせると、先生の右手の指輪に唇を寄せながら、
「虫除けが幾つあっても足りん」
独り言のように囁いてからスクと立ち上がり、
「ジラフィーとやら、そういうわけでな、これは、儂の大事な想い人じゃ。諦めよ」
彼はジラフィーに高らかに宣言してから、眼鏡の少年の姿に目を移した。
ジラフィーは、横目でチラと先生を未練がましく見てから、くうんと鼻を鳴らして、尻尾を垂れている。
「次は、将のほうじゃな」
腕の長い背広の上着を脱いで先生に羽織らせると、縞のシャツの袖を捲って、不敵に口元を歪めて笑んだ。
「まあ、見ておれ」
夏至も近いとはいえ、まもなく自動的に街灯が点灯しはじめようというのに、
彼は、どうやら大人げなくも、しばし三角野球に混ざる気であるらしかった。
<七曜七題 全8話>全話一気読みへのショートカットは → こちら