5月のとある火曜日の夕方、「公孫花壇」へ、彼がしたためた礼状を届ける、
ちょっとしたお使いを引き受けた子息に付き添って、先生が連れ立って邸へ帰る道すがらのこと。

「それで、姜くんは頭がいいから、虫の通り道を推理して、ずーっとたどっていって、温室の隅の小さな出入り口をみつけてくれたんです。そこを塞いでから、また虫を避けたら、ちょっとの時間で、あっという間に虫が少なくなりました。だから、お花も、去年よりたくさんもらえました」
「そうだったのですか」
背後から、小さな軽快な足音と、何かを引き摺る音が、恐ろしい速さで近づいてくるので、先生と子息が振り返ると、視界一杯に、褐色めいた何かが迫ってきており、
「ジラフィーっ! ステイ! 止まれ、ステーイ!」
少年の声が追いすがるのと、先生が邸近くの公園の植え込みに押し倒されるのとが同時であった。

「わーっ! こら、先生を放せ!」
先生を押し倒した物体は、褐色の、キリンのような珍しい斑模様の大型犬で、
人を襲おうという意図はなかったようで、尻尾をさかんに振りながら、先生の白い頬を舐めている。
「ごめん、劉くん。君の母上? すみません。こら、ジラフィー、お座りッ」
少年がリードを拾い上げて引くと、くうん、と、大きな体に似合わず、しおらしい鳴き声で、飼い主の傍に行儀よく座った。
「すごい、賢いんだね」
「犬は、飼い主に似るといいます」
先生が普段どおりの物静かな口調で立ち上がろうと、右手の指先を植え込みの煉瓦に預けて、左手を虚空に伸ばした、その白い手を、小さな二つの手が握って助け起こそうとする。
「すいませんでした。お怪我はないですか。うちの犬、優しい感じの人が大好きで、見境なくて……あっ、お洋服を汚してしまいましたね、うちでお洗濯をさせてください」
大人のようによく気がつく子供である。
「よいのですよ、御覧なさい、木綿です。植え込みでしたし、ほんの少しです」
先生は、
(水鏡先生が噂なさっていた、天水の秀才とは、もしやこの子か)
と、さあらぬ風に、小さな眼鏡顔をみつめて思った。
「それでは母に叱られます」
先生は、気がつきすぎた自分の子供の頃をはっと思い出して重ね、いま口から出かかった月並みな言葉を飲み込んだ。
(こんな時、あなた様なら、なんと仰せですか)
咄嗟に、心の中一杯に彼のおもかげを思い浮かべると、胸の中の彼は、慈愛たっぷりな笑顔で、あの慕わしい温雅な聲で、先生の問いにおっとりと応じた。
「ではこういたしましょう。将来、お散歩中の誰かの犬が、あなたのお洋服を汚しても、笑ってお許しになること、……これでいかがですか。その者はそう言っていたと、お母様におっしゃい」
先生は莞爾として、心の中の彼が言ったそのままを少年に伝え、
(わたくしも、幼少の頃に、このように言われたことがあったなら)
傷ついてばかりだった、遠い少年の日のこまごまとしたことが、癒されるような心地で居た。

『子供のくせに、そんなことまで気にしない』
大人びた姜少年は、いつもこの類の言葉を聞き飽きていた。
母までもが、そのようなことを言うことすらある。
今、「劉くんの母上」と思しき人に、予想外なことを聞かされて、心が打たれたようになり、あらためて見上げると、なんとも品の良い白い美貌に、うっかり見蕩れそうになり、
「ありがとうございます……あっ、申し遅れました。僕、劉くんのクラスメイトの姜です。劉くんにいつも仲良くしていただいてます」
少年らしからぬ慇懃さで、慌てて名乗った。
「先生、仲良くしてもらってるの、僕のほうです」
(? 「先生」?)
小さな頭の中を疑問符で一杯にしながら、少年は話をつなぐ。
「そんなことないよ。先週も、花屋さんに誘ってくれてありがとう。……、僕、母の日にあんなに嬉しそうな母上、初めて見たよ。劉くんのおかげ」
「僕だって、3回もお手伝いに行ってるけど、あんなにたくさんもらえたの初めてだよ。姜くんと一緒だったからだよ」


先週の花屋にまつわることとは、この某都市の郊外にある「公孫花壇」での出来事である。
母の日の前週に、市内の小中学生を招いて、ナーセリーのバラ園の無料見学会と、そして、希望者には、オプションとして温室のバラの害虫駆除の小さな仕事を与えて、母の日の朝に、報酬として、出荷の規格から洩れた一抱えのカーネーションを頒けるという、なかなか巧い企画を、例年おこなっている。華僑紳士淑女の受けも、頗る良い。
社会見学もかねて、彼の子息は小学校に上がった年から、毎年この催しに参加しており、今年は、秀才の転校生・姜くんを誘ってやってきた。もちろん、子息のお目当ては、お手伝いをしたあとのカーネーションなのだ。母の墓前に「買ってもらった」のではなく、自分の力で得た花を供える喜びを知ってから、来年も、再来年もと、望んでいる。
「へええ、姜くんは、本当に母上おもいだなあ・・・。ガリ勉なだけの子だったら、いっぱいいるけど」
「そんなことない。母上が苦労なさっていることが僕にはわかるけど、今は何もして差し上げられない。僕が出来ることは、将来お役にたてるように勉学に励むということだけだから」
「今じゃなくて、将来のための努力っていうの、僕、すごく苦手。姜くんすごいよ」
「母上がよくおっしゃるんだ。目先のことにとらわれてはいけません、って。常に大所高所から物事を考えなさいって」
「母上がよく言ってたこと、か……。あ、虫みっけ」
世間話をしながら、父の日の出荷を待つ黄色いバラが育てられている一角に
寄ってこようとする虫を、目ざとく見つけて、ハーブが混入された忌避剤を霧吹きでスプレーしつつ話しながら業務に励んでいたら、先ほど、子息が先生に話していたようなことになり、日曜日、少年二人は大いに褒められたうえに、ボーナスとしてそれぞれ抱えきれないほどのカーネーションをゲットする快挙を果たしたのだった。

「わたくし、禅さまのピアノの教師をしております」
「僕と父上の、ピアノの先生。一緒に暮らしてるんだ」
「先生……?」
急に、少年はドキドキとするようなものを感じる。
文武両道、学問もスポーツも、二年も飛び級してきた秀才であるが、音楽には今ひとつ心得が薄く、未知の世界への憧れもあったのかもしれない。
(だけど、お月謝って、たぶん高いんだよな……。うち、オルガンもないし。いや、住み込みなら、劉家の人以外には教えないのか)
そんなことまで、くるくると考えている小さな頭の中までは、子息も先生も思い至らず、
「姜くん、また明日学校でね、バイバーイ」
長い影を帰り道に落として、互いに家路についた。
(母上じゃ、ないん、だ。……そういえば、母上みたいに左手に結婚指輪、してなかったもんな)

先生の右手の薬指にまでは、注意の行き届かなかった少年であった。


<七曜七題 全8話>全話一気読みへのショートカットは → こちら