滅多なことでは、絶海の孤島の天文台から出てこない師匠が偶然に招かれている、水鏡門下出身の数学者の受賞記念パーティに、彼に連れられて先生は珍しく外出してきていた。
”上人”と渾名される老齢の師と、今生の別れのような再会を果たして、
「あとは超新星の一つも見つければ、もう何も思い残すことはない」
と、まだまだ衰えぬ気骨を見せられ、嬉し涙にくれた師が、早々と引き上げてしまったあと、宴の人の波に酔ったために中座をして、磨いた石を水が静かに這うオブジェを窓の外にした、広々としたロビーで、先生は喧騒を離れて、軟らかなソファに掛けて休んでいた。
「お一人かな」
彼ではない聲がして振り返ると、臙脂のネクタイとポケットチーフを飾って、
派手な縞柄だが、仕立てのよい背広を着こなして、一種の愛嬌に似た雰囲気を纏った、小柄な中年の男が真横に居た。
「いえ、少し酔いまして」
今宵は、理数系の集まりであるし、孫家や周家とは、関連がなさそうだが、この男の如才ない眼光に、先生は本能的に警戒して、誰の連れとも明かさずに、曖昧に答えた。
「よくお似合いですな。 祖国で、墨客が好んで着る装束。 最近、見なくなった。見ても、老人ばかりだ。 予も、側近の若い者に、着せてみよう」
頭の上から、爪先まで、無遠慮に見渡される。
(誰なのだろうか)
「隣にかけても、よろしいかな」
「どうぞ」
『予』という一人称と、『側近』ということばに、この男の地位のほどが仄めかされている。不調法をして、彼に不利益が生じては良くない。
「存じておりますよ。 公叔お抱えの、天才ピアニスト。お会いできて光栄です」
自然に握手を求められたので、応じる以外にない。
「おや、意外にも、ご婚約か。新しい。 これでも情報通でしてな、とんとお聞きしていないが。お幸せなお相手は、どのようなお方かな」
儀礼的に応じただけの右手を使って、己の目敏さも、暗に誇示している。
しかも、指輪の贈り主を知っていると言いたげな口調だ。
「あの、そろそろ、戻りませぬと」
「よいではないか。あんな、余興も無い退屈な宴など。 話し相手になってくれぬか」
これは、難物だ。
先生は、神経を欹てて、この男を探りながら
「わたくしで、お宜しければ・・・お手を、お放しいただけますなら、喜んで」
「ああこれは、失礼」
この男の器量を試そうと、態と余計に一言多く答えると、割合にあっさりと、手は解放された。
「あ奴のところでは、貧乏暮らしであろう。どうだ、予のところへ来ぬか」
「御戯れを。いまお会いしたばかりです」
「ご高名は、かねがね聞いておる。周家との一件もな」
先生は表情を曇らせた。
「ああ、あの美男子はお嫌いとみえる。失敬失敬・・・こう見えて、予は芸術というものも愛好しておってな、 自慢ではないが、詩文など得意で、何度も受賞しておるのだよ」
この年恰好に、恐らく社会的地位が高く、耳が早く、文学的才能の持ち主。
そしてそれらを隠しもしないこの自信あふれる態度。
(噂をすれば影 の、あの方か)
先生は、この男を、政財界に顔が利くのはもちろん、筆も弁も立つ側近を幾たりも抱えて時には報道機関すらも思うがままに操るあの要人と悟り、この場を上手に切り抜けねばと、聡明な頭を捻った。
「あ奴は、あんなでかい耳をして、何を弾こうが 一向に分かっておらんだろう。
牛に琴の音、または豚に真珠だ。 悪いことは言わん。貧乏暮らしに引きこもっていることはない」
牛、豚、とは聞き捨てならないが、個人的感情を無視して、このまま、公叔には事後承諾で、連れて行かれてしまうのではないか。それができるだけの力を、この男は持っている。連れて行かれてしまった後では、事が拗れそうだ。
ここで断るのが上策に決まっているが、それをどう伝えれば、この男の機嫌を損ねず、彼の不利益も買わずにすむものか、判断の材料に乏しい。
いささか困っていると、オブジェに面している夜の窓が、暗い鏡のように、遠くから歩み寄ってくる見慣れた人影を映し出した。
「・・・公叔!」
先生は、彼の聲を聞く前に、裾を翻して機敏に立ち上がり、おっとりと歩いてくる彼の懐に飛び込みたいような衝動を抑えて、其の背中の陰に半分隠れるように、小走りに寄り添った。
大樹の陰に難を避けるような、先生のこの行動から、あらましを悟った彼は、迎えて抱きとめながら
「何でも手に入ると思い込むのは、曹閣下の悪い癖。相変わらずですな」
と、かまをかけた。
「おぬしの勘の良さも、相変わらずだな」
「豚よりは大きな耳で、たいていは聞こえているつもりですよ。閣下ほどではないが」
「鈍いふりをして。狡いぞ、おぬし」
「あなたが、あまりに才気走っておられるから、そう見えるだけですよ。 儂は、鈍い男です」
もう少しで、隠し持つ権力を嵩に、天才を奪えたかもしれないと思っているような「閣下」は、苦苦しげに、鷹揚に立ち上がると、
「では、はっきり言わせてもらおうか、このピアニストを予に呉れ。音曲の分からんおぬしには、宝の持ち腐れだろう。 謝礼は、望みのまま取らせる。 これに、好きなだけ書いても構わんぞ」
胸ポケットから、小切手帳を無造作に取り出し、ガラスのローテーブルに投げ出した。
先生が、息を殺している。
彼を信じてはいるが、この男の計り知れない権力に僅かに怯えているようだ。
「それは構いませんが、条件が必要ですな」
掛け引きの都合で、一旦は吝かではないような様子を装うと、
「面倒くささも変わらんな。何だ、いうてみい」
この応酬に先生が動揺することを見越して、彼は、背後に隠した冷たい右手を、大きな掌で、そっと暖めてやりながら
「あなたは、手に入れた後が、いけないことが多い。その悪い癖が直ったなら、考えてもよい。儂の掌中の珠玉が、生涯幸せで居られるなら。
言っておくが、あなたの、独りよがりではなく」
「言いよるわ、ずけずけと」
「運と度胸だけですからな、儂は」
男は、しぶしぶと、小切手帳を懐に仕舞った。
「そうですな、『その悪い癖、完治』と、 天下一の名医の診断書でも持って、おととい来られよ。・・・それから、玩具でもあるいに、呉れだの呉れないだのは、不愉快千万ですな。 まして、金で売り買いなど」
彼は、先生を手放す気など毛頭ないことを、権力も財力も明らかに彼を凌ぐ男を前にして、敢然と言い放ってしまった。
(なんという、恐れを知らぬ御方)
先生は、彼の身が心配になった。
きっと、歯医者が怖いなど、真っ赤な嘘で、彼には怖いものなど一つも無いのかもしれないが、言い過ぎてはいないのだろうか。
「あれだけの錚々たる人材にお傍を取り巻かせて、 まだ不足とは、欲張りなお方だ。 お傍衆を、あまり泣かせてはいけませんな」
「おぬしに説教される筋合いはない。序に、惚気おって。こいつめ」
「閣下に説教など畏れ多い。お互いにもう若くも無いのです。 穏便なうちに、退散しましょう。 特に・・・お膝元の眼帯は、ちと物騒ですからな。歯でも折られたら難儀、難儀」
護衛のことを言っているのであろうか、言葉と裏腹に、彼は微塵も動じた様子も見せず、先生の知らない、この要人の苦い過去を皮肉る一言を混ぜる余裕さえ見せて、
「さあ、もう帰ろうか。人込みは、辛かったであろう」
「いいえ・・・」
権力者を、あっさりと袖にして、何事も無かったかのように、彼は、ゆったりと先生を連れ去ってしまった。
「食えない奴」
以前、彼の次弟であるスナイパーのヘッドハンティングを申し入れた時も、にべもなく断られたことを併せて思い出し、
「おぬしこそ、欲深いではないか」
男は、沸沸と、敵愾心を滾らせていた。
<五行アレンジで五題 全5話>全話一気読みへのショートカットは → こちら
”上人”と渾名される老齢の師と、今生の別れのような再会を果たして、
「あとは超新星の一つも見つければ、もう何も思い残すことはない」
と、まだまだ衰えぬ気骨を見せられ、嬉し涙にくれた師が、早々と引き上げてしまったあと、宴の人の波に酔ったために中座をして、磨いた石を水が静かに這うオブジェを窓の外にした、広々としたロビーで、先生は喧騒を離れて、軟らかなソファに掛けて休んでいた。
「お一人かな」
彼ではない聲がして振り返ると、臙脂のネクタイとポケットチーフを飾って、
派手な縞柄だが、仕立てのよい背広を着こなして、一種の愛嬌に似た雰囲気を纏った、小柄な中年の男が真横に居た。
「いえ、少し酔いまして」
今宵は、理数系の集まりであるし、孫家や周家とは、関連がなさそうだが、この男の如才ない眼光に、先生は本能的に警戒して、誰の連れとも明かさずに、曖昧に答えた。
「よくお似合いですな。 祖国で、墨客が好んで着る装束。 最近、見なくなった。見ても、老人ばかりだ。 予も、側近の若い者に、着せてみよう」
頭の上から、爪先まで、無遠慮に見渡される。
(誰なのだろうか)
「隣にかけても、よろしいかな」
「どうぞ」
『予』という一人称と、『側近』ということばに、この男の地位のほどが仄めかされている。不調法をして、彼に不利益が生じては良くない。
「存じておりますよ。 公叔お抱えの、天才ピアニスト。お会いできて光栄です」
自然に握手を求められたので、応じる以外にない。
「おや、意外にも、ご婚約か。新しい。 これでも情報通でしてな、とんとお聞きしていないが。お幸せなお相手は、どのようなお方かな」
儀礼的に応じただけの右手を使って、己の目敏さも、暗に誇示している。
しかも、指輪の贈り主を知っていると言いたげな口調だ。
「あの、そろそろ、戻りませぬと」
「よいではないか。あんな、余興も無い退屈な宴など。 話し相手になってくれぬか」
これは、難物だ。
先生は、神経を欹てて、この男を探りながら
「わたくしで、お宜しければ・・・お手を、お放しいただけますなら、喜んで」
「ああこれは、失礼」
この男の器量を試そうと、態と余計に一言多く答えると、割合にあっさりと、手は解放された。
「あ奴のところでは、貧乏暮らしであろう。どうだ、予のところへ来ぬか」
「御戯れを。いまお会いしたばかりです」
「ご高名は、かねがね聞いておる。周家との一件もな」
先生は表情を曇らせた。
「ああ、あの美男子はお嫌いとみえる。失敬失敬・・・こう見えて、予は芸術というものも愛好しておってな、 自慢ではないが、詩文など得意で、何度も受賞しておるのだよ」
この年恰好に、恐らく社会的地位が高く、耳が早く、文学的才能の持ち主。
そしてそれらを隠しもしないこの自信あふれる態度。
(噂をすれば影 の、あの方か)
先生は、この男を、政財界に顔が利くのはもちろん、筆も弁も立つ側近を幾たりも抱えて時には報道機関すらも思うがままに操るあの要人と悟り、この場を上手に切り抜けねばと、聡明な頭を捻った。
「あ奴は、あんなでかい耳をして、何を弾こうが 一向に分かっておらんだろう。
牛に琴の音、または豚に真珠だ。 悪いことは言わん。貧乏暮らしに引きこもっていることはない」
牛、豚、とは聞き捨てならないが、個人的感情を無視して、このまま、公叔には事後承諾で、連れて行かれてしまうのではないか。それができるだけの力を、この男は持っている。連れて行かれてしまった後では、事が拗れそうだ。
ここで断るのが上策に決まっているが、それをどう伝えれば、この男の機嫌を損ねず、彼の不利益も買わずにすむものか、判断の材料に乏しい。
いささか困っていると、オブジェに面している夜の窓が、暗い鏡のように、遠くから歩み寄ってくる見慣れた人影を映し出した。
「・・・公叔!」
先生は、彼の聲を聞く前に、裾を翻して機敏に立ち上がり、おっとりと歩いてくる彼の懐に飛び込みたいような衝動を抑えて、其の背中の陰に半分隠れるように、小走りに寄り添った。
大樹の陰に難を避けるような、先生のこの行動から、あらましを悟った彼は、迎えて抱きとめながら
「何でも手に入ると思い込むのは、曹閣下の悪い癖。相変わらずですな」
と、かまをかけた。
「おぬしの勘の良さも、相変わらずだな」
「豚よりは大きな耳で、たいていは聞こえているつもりですよ。閣下ほどではないが」
「鈍いふりをして。狡いぞ、おぬし」
「あなたが、あまりに才気走っておられるから、そう見えるだけですよ。 儂は、鈍い男です」
もう少しで、隠し持つ権力を嵩に、天才を奪えたかもしれないと思っているような「閣下」は、苦苦しげに、鷹揚に立ち上がると、
「では、はっきり言わせてもらおうか、このピアニストを予に呉れ。音曲の分からんおぬしには、宝の持ち腐れだろう。 謝礼は、望みのまま取らせる。 これに、好きなだけ書いても構わんぞ」
胸ポケットから、小切手帳を無造作に取り出し、ガラスのローテーブルに投げ出した。
先生が、息を殺している。
彼を信じてはいるが、この男の計り知れない権力に僅かに怯えているようだ。
「それは構いませんが、条件が必要ですな」
掛け引きの都合で、一旦は吝かではないような様子を装うと、
「面倒くささも変わらんな。何だ、いうてみい」
この応酬に先生が動揺することを見越して、彼は、背後に隠した冷たい右手を、大きな掌で、そっと暖めてやりながら
「あなたは、手に入れた後が、いけないことが多い。その悪い癖が直ったなら、考えてもよい。儂の掌中の珠玉が、生涯幸せで居られるなら。
言っておくが、あなたの、独りよがりではなく」
「言いよるわ、ずけずけと」
「運と度胸だけですからな、儂は」
男は、しぶしぶと、小切手帳を懐に仕舞った。
「そうですな、『その悪い癖、完治』と、 天下一の名医の診断書でも持って、おととい来られよ。・・・それから、玩具でもあるいに、呉れだの呉れないだのは、不愉快千万ですな。 まして、金で売り買いなど」
彼は、先生を手放す気など毛頭ないことを、権力も財力も明らかに彼を凌ぐ男を前にして、敢然と言い放ってしまった。
(なんという、恐れを知らぬ御方)
先生は、彼の身が心配になった。
きっと、歯医者が怖いなど、真っ赤な嘘で、彼には怖いものなど一つも無いのかもしれないが、言い過ぎてはいないのだろうか。
「あれだけの錚々たる人材にお傍を取り巻かせて、 まだ不足とは、欲張りなお方だ。 お傍衆を、あまり泣かせてはいけませんな」
「おぬしに説教される筋合いはない。序に、惚気おって。こいつめ」
「閣下に説教など畏れ多い。お互いにもう若くも無いのです。 穏便なうちに、退散しましょう。 特に・・・お膝元の眼帯は、ちと物騒ですからな。歯でも折られたら難儀、難儀」
護衛のことを言っているのであろうか、言葉と裏腹に、彼は微塵も動じた様子も見せず、先生の知らない、この要人の苦い過去を皮肉る一言を混ぜる余裕さえ見せて、
「さあ、もう帰ろうか。人込みは、辛かったであろう」
「いいえ・・・」
権力者を、あっさりと袖にして、何事も無かったかのように、彼は、ゆったりと先生を連れ去ってしまった。
「食えない奴」
以前、彼の次弟であるスナイパーのヘッドハンティングを申し入れた時も、にべもなく断られたことを併せて思い出し、
「おぬしこそ、欲深いではないか」
男は、沸沸と、敵愾心を滾らせていた。
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