日本の、東北地方の鄙びた古刹での、五月晴れの日。
彼にとっては、長い長い一日だった。
先生が、大書院へ赴いた後、客殿の縁側に座って、枯山水の庭を見るともなく見るばかりで、尻が痛くなると椅子に座って溜息を連発し、腰が痛くなると、庭へ出て、天を仰いで嘆息する。
次弟は、
「和尚への御恩返しに」
と、隣室で写経に励んでおり、末弟も渋々と付き合っている。
甘えん坊な末弟は、二人の兄と一緒でなければ、何事も興趣が半減なのである。たとえば、一人で造り酒屋などへ出かけても、面白くないのだ。
(一日千秋とは、よく言ったものだ)
ようやく日が南中して傾き始めると、昼餉もそこそこに、今か今かと、朝から繰り返している行動の循環が無意味に早くなる。
縁側、椅子、庭。
ぐるぐるとめぐり、居ても立ってもいられない。
その間、次弟は黙黙と写経を進めて、納経をしに本堂へ行ってしまい、とうに飽きた末弟は、ジャイアントパンダのように畳に伸びて、軽く鼾をかきながら
「うう、さすがの俺様も、もう呑めねぇ」
などと、むにゃむにゃと寝言を口走りながら、昼寝などをしていた。
晴れ晴れとした空に、白い月が浮かびはじめた頃に、
彼の巨きな耳は、鶯の鳴声に似た、木の軋む音が近づいてくるのを微かに認め、長い廊へ大きく踏み出して、向こうを窺った。
朝、会ったままの黒々とした出で立ちで、先生は帰ってきた。
先生がここへ至るのが待ちきれずに、彼も、走り出しそうな心を辛うじて抑え、
大股に、廊下を進んで、先生まで一歩半のところで、立ち止まった。
「ただいま戻りました」
にっこりと透明に笑んだその貌に、上首尾であったことが聞かずとも彼には分かった。
「委細はどうぞ、和尚にお聞きくださ・・・」
(眩暈、が?)
先生は、急に、酔うような違和感を覚えて、虚空に手を伸ばしかけると、その小さな異変を彼は見逃しもせず
「さすがの伏龍先生も、疲れたのであろう」
ふわりと、長い腕で僧体の先生を受け止めたその時、頑丈に組まれた、太い梁が軋む音を立て、襖や障子が軽い音に震え、寺全体が、揺れた。
「おお、地震か」
先生の眩暈は、初期微動であったのだ。
ひとしきり、寺は時化に揉まれる船のような様相を呈して、大地はようやく、揺れの収束をみせた。
「大きかったな。日本人はよくも、斯様に危険なところに 定住しておる」
覚えず、先生を庇うように、力を籠めて抱きしめていたことに気付いて、それが僧の姿であるので、彼は大変気まずく、そっと腕を解こうとすると、予想に反して、先生がぎゅっとしがみついていたことに驚いた。
「これが、地震でございますか」
知識として大地が揺れる仕組みを理解はしていても、先生は初めて体験したようだった。
「ハハ、儂も、初めは驚いた。いつのことだったかな」
おっとりと、言葉を継ぎながら、少し怯えたような先生を、公然と抱き締めていられる事由が去ったというのに、空とぼけて、そのままで居ながら、なぜ、いま定住しているところは地震がないのだ、と、甚だ不純で勝手なことを思い浮かべていた。
「初めての地震が、木造平屋建てで、ようございました」
「伏龍としたことが、怖かったか」
茶化した彼に、先生は少し淋しげな視線を注いだ。
「・・・才能を、無駄遣いさせてしまったか」
「いいえ、少しも」
「ではなぜ、そう曇った貌をする」
「生まれつきでございます」
拗ねたような言葉を続けながら、かといって、彼の腕の中から離れようとするわけでもなく、だが、余所余所しいような空気を纏っている。
彼は、まだ一度も先生の名を呼んで迎えていないという、最も重大かもしれない一事に、はっと気付いて、思ったそのままを、急いで口にした。
「孔明、儂は、そなたが本当はあの伏龍だと知ってしまったが、 今のお前が、いつものお前であることも、知っておるつもりだよ」
名を呼ばれて、そして彼の心を確かめて、先生は安堵したのであろうか、こわばったような空気を、たちまちに散ずると、黒い衣を彼の寛い胸に埋めたまま、甘えるように呟いた。
「眠り龍で良い と、仰せ下さるのは、 この世で公叔お一人だけなのでございます」
一体、どれほどの引く手が、水鏡先生のところへ、
「伏龍を呉れ」
と、言い募ってきたことか、先生が、どんなにうんざりと、あるいは心を痛めたか、この一言だけで、彼は悟った。先生を、見もせずに、あまたの野心家たちが。
だのに、彼の発する唯だ一言如何で、この天才は、自在にも頑なにもなってしまう、野心家たちは誰も知らない、このような一面を、彼は知ってしまっている優越感のようなものを噛み締めつつ、それは秘して、先生を懐にしたまま、語らった。
「いずれまた、野暮用は抜きで、日本に来よう。春にな」
「なぜでございますか」
「明日帰るというのに、桜を碌に見ておらなんだ」
「どこへも、お出ましにならなかったのでございますか」
この好天に、と、先生は、目を丸くした。
「信じておることと、心配しないということは、 また別儀なのだよ」
蒼天に、海の模様までくっきりとしてきた白い月は、寄り添って囁きあう二人の異邦人を黙って見ていた。
*****余 話*****
「いや、伏龍先生も、お人の悪い。
あれほど日本語が流暢でいらっしゃるとは」
夕餉の普茶料理を囲んで勧めながら、普浄和尚は、懐かしい中国語で、賑やかに話し、笑い、かつ食う。やはり同胞である。
「何と、結局は日本語で議論したのか」
彼は驚いて、先生の白い貌を眩しげに顧みたが、先生は、功を誇るのは面映いように俯いて、突然に来客がある場合の用心に、黒い衣のまま、彼の隣で、静かに箸を上げ下ろしている。
「いやいや、かいつまんで申しますがな、 坊主どもが言うことを、拙僧が中国語で先生に申し上げましてな、 先生は一文字を書いて答える、そんな問答を繰り返したのですがな」
「ほう」
彼と次弟は興味津津に、箸が止まってしまったが、末弟は、話は半分だけ小耳に挟みながら、和尚の心づくしの「般若湯」の旨さに、舌鼓を打っていた。
「什生(そもさん)、説破(せっぱ)、力の差は歴然でしてな、 何を問われようとも、正鵠を射た一文字に、 一人、また一人と、だんまりになってゆきましてな、 圧勝といったところですな」
「引き分けにとの、ご存念ではなかったか」
和尚がご機嫌に話しているので、彼は訝しく思って問いかけると、
「そこが伏龍の伏龍たる所以ですな、 其の時は、何とまあ、完膚なきまでに、お叩きになるものかと、 冷や汗が止まりませんでしたが、皆が沈黙して、 もう誰も挑もうとしない、重苦しい空気のところでですな、
『さて、様々に議論を尽くして参りましたが、
わたくしの拙い一字の謂わんとするところを
お察し下さいましたのは、諸兄の賢に拠るところでございます。
わたくし一人の力では、到底続いたことではございません。
諸兄に敬意を表して、此度は引き分けというわけには、
参りませぬでしょうか、和尚』
と、ですな、何とも品の良い、流暢な日本語で、 拙僧を立てて、取り成しを乞うようになさいましてな、 再び坊主どもを黙らせておしまいになったのですよ。
いやはや、花を持たせていただき、大いに面目を施しました。
この策は、昨夜はお明かし下さいませんでしたので、 拙僧は、驚くやら嬉しいやら、 まさに、 敵を欺くには、先ず味方から。 先生は弁舌の才も並びなし、しかも兵法家でもいらしゃる。
公叔は、煙に巻くことでも有名なあの水鏡先生の秘蔵っ子を、一体どうやってお口説きになられましたのか、 是非にも、お伺いしたいものですな」
― Something 4 了―
※このおとぎ話は2010年5月に書き上げたものです。
とくにこの章については、あえて原文のまま掲載しています。
彼にとっては、長い長い一日だった。
先生が、大書院へ赴いた後、客殿の縁側に座って、枯山水の庭を見るともなく見るばかりで、尻が痛くなると椅子に座って溜息を連発し、腰が痛くなると、庭へ出て、天を仰いで嘆息する。
次弟は、
「和尚への御恩返しに」
と、隣室で写経に励んでおり、末弟も渋々と付き合っている。
甘えん坊な末弟は、二人の兄と一緒でなければ、何事も興趣が半減なのである。たとえば、一人で造り酒屋などへ出かけても、面白くないのだ。
(一日千秋とは、よく言ったものだ)
ようやく日が南中して傾き始めると、昼餉もそこそこに、今か今かと、朝から繰り返している行動の循環が無意味に早くなる。
縁側、椅子、庭。
ぐるぐるとめぐり、居ても立ってもいられない。
その間、次弟は黙黙と写経を進めて、納経をしに本堂へ行ってしまい、とうに飽きた末弟は、ジャイアントパンダのように畳に伸びて、軽く鼾をかきながら
「うう、さすがの俺様も、もう呑めねぇ」
などと、むにゃむにゃと寝言を口走りながら、昼寝などをしていた。
晴れ晴れとした空に、白い月が浮かびはじめた頃に、
彼の巨きな耳は、鶯の鳴声に似た、木の軋む音が近づいてくるのを微かに認め、長い廊へ大きく踏み出して、向こうを窺った。
朝、会ったままの黒々とした出で立ちで、先生は帰ってきた。
先生がここへ至るのが待ちきれずに、彼も、走り出しそうな心を辛うじて抑え、
大股に、廊下を進んで、先生まで一歩半のところで、立ち止まった。
「ただいま戻りました」
にっこりと透明に笑んだその貌に、上首尾であったことが聞かずとも彼には分かった。
「委細はどうぞ、和尚にお聞きくださ・・・」
(眩暈、が?)
先生は、急に、酔うような違和感を覚えて、虚空に手を伸ばしかけると、その小さな異変を彼は見逃しもせず
「さすがの伏龍先生も、疲れたのであろう」
ふわりと、長い腕で僧体の先生を受け止めたその時、頑丈に組まれた、太い梁が軋む音を立て、襖や障子が軽い音に震え、寺全体が、揺れた。
「おお、地震か」
先生の眩暈は、初期微動であったのだ。
ひとしきり、寺は時化に揉まれる船のような様相を呈して、大地はようやく、揺れの収束をみせた。
「大きかったな。日本人はよくも、斯様に危険なところに 定住しておる」
覚えず、先生を庇うように、力を籠めて抱きしめていたことに気付いて、それが僧の姿であるので、彼は大変気まずく、そっと腕を解こうとすると、予想に反して、先生がぎゅっとしがみついていたことに驚いた。
「これが、地震でございますか」
知識として大地が揺れる仕組みを理解はしていても、先生は初めて体験したようだった。
「ハハ、儂も、初めは驚いた。いつのことだったかな」
おっとりと、言葉を継ぎながら、少し怯えたような先生を、公然と抱き締めていられる事由が去ったというのに、空とぼけて、そのままで居ながら、なぜ、いま定住しているところは地震がないのだ、と、甚だ不純で勝手なことを思い浮かべていた。
「初めての地震が、木造平屋建てで、ようございました」
「伏龍としたことが、怖かったか」
茶化した彼に、先生は少し淋しげな視線を注いだ。
「・・・才能を、無駄遣いさせてしまったか」
「いいえ、少しも」
「ではなぜ、そう曇った貌をする」
「生まれつきでございます」
拗ねたような言葉を続けながら、かといって、彼の腕の中から離れようとするわけでもなく、だが、余所余所しいような空気を纏っている。
彼は、まだ一度も先生の名を呼んで迎えていないという、最も重大かもしれない一事に、はっと気付いて、思ったそのままを、急いで口にした。
「孔明、儂は、そなたが本当はあの伏龍だと知ってしまったが、 今のお前が、いつものお前であることも、知っておるつもりだよ」
名を呼ばれて、そして彼の心を確かめて、先生は安堵したのであろうか、こわばったような空気を、たちまちに散ずると、黒い衣を彼の寛い胸に埋めたまま、甘えるように呟いた。
「眠り龍で良い と、仰せ下さるのは、 この世で公叔お一人だけなのでございます」
一体、どれほどの引く手が、水鏡先生のところへ、
「伏龍を呉れ」
と、言い募ってきたことか、先生が、どんなにうんざりと、あるいは心を痛めたか、この一言だけで、彼は悟った。先生を、見もせずに、あまたの野心家たちが。
だのに、彼の発する唯だ一言如何で、この天才は、自在にも頑なにもなってしまう、野心家たちは誰も知らない、このような一面を、彼は知ってしまっている優越感のようなものを噛み締めつつ、それは秘して、先生を懐にしたまま、語らった。
「いずれまた、野暮用は抜きで、日本に来よう。春にな」
「なぜでございますか」
「明日帰るというのに、桜を碌に見ておらなんだ」
「どこへも、お出ましにならなかったのでございますか」
この好天に、と、先生は、目を丸くした。
「信じておることと、心配しないということは、 また別儀なのだよ」
蒼天に、海の模様までくっきりとしてきた白い月は、寄り添って囁きあう二人の異邦人を黙って見ていた。
*****余 話*****
「いや、伏龍先生も、お人の悪い。
あれほど日本語が流暢でいらっしゃるとは」
夕餉の普茶料理を囲んで勧めながら、普浄和尚は、懐かしい中国語で、賑やかに話し、笑い、かつ食う。やはり同胞である。
「何と、結局は日本語で議論したのか」
彼は驚いて、先生の白い貌を眩しげに顧みたが、先生は、功を誇るのは面映いように俯いて、突然に来客がある場合の用心に、黒い衣のまま、彼の隣で、静かに箸を上げ下ろしている。
「いやいや、かいつまんで申しますがな、 坊主どもが言うことを、拙僧が中国語で先生に申し上げましてな、 先生は一文字を書いて答える、そんな問答を繰り返したのですがな」
「ほう」
彼と次弟は興味津津に、箸が止まってしまったが、末弟は、話は半分だけ小耳に挟みながら、和尚の心づくしの「般若湯」の旨さに、舌鼓を打っていた。
「什生(そもさん)、説破(せっぱ)、力の差は歴然でしてな、 何を問われようとも、正鵠を射た一文字に、 一人、また一人と、だんまりになってゆきましてな、 圧勝といったところですな」
「引き分けにとの、ご存念ではなかったか」
和尚がご機嫌に話しているので、彼は訝しく思って問いかけると、
「そこが伏龍の伏龍たる所以ですな、 其の時は、何とまあ、完膚なきまでに、お叩きになるものかと、 冷や汗が止まりませんでしたが、皆が沈黙して、 もう誰も挑もうとしない、重苦しい空気のところでですな、
『さて、様々に議論を尽くして参りましたが、
わたくしの拙い一字の謂わんとするところを
お察し下さいましたのは、諸兄の賢に拠るところでございます。
わたくし一人の力では、到底続いたことではございません。
諸兄に敬意を表して、此度は引き分けというわけには、
参りませぬでしょうか、和尚』
と、ですな、何とも品の良い、流暢な日本語で、 拙僧を立てて、取り成しを乞うようになさいましてな、 再び坊主どもを黙らせておしまいになったのですよ。
いやはや、花を持たせていただき、大いに面目を施しました。
この策は、昨夜はお明かし下さいませんでしたので、 拙僧は、驚くやら嬉しいやら、 まさに、 敵を欺くには、先ず味方から。 先生は弁舌の才も並びなし、しかも兵法家でもいらしゃる。
公叔は、煙に巻くことでも有名なあの水鏡先生の秘蔵っ子を、一体どうやってお口説きになられましたのか、 是非にも、お伺いしたいものですな」
― Something 4 了―
※このおとぎ話は2010年5月に書き上げたものです。
とくにこの章については、あえて原文のまま掲載しています。