「孔明、貴様が出ないコンクールに、何の意味がある」
いつもの時間に、玄関からすぐのレッスン室の防音扉を開けるなり、
聞きなれない、しかし、其のりりしい聲に似合わない
罵声が飛んでいた。
聲の主を見ると、愛憎入り混じったような、強烈な表情に
目を吊り上げながらも、俳優のように恐ろしく眉目秀麗な
横顔の若い男が、先生を睨んでいた。
「腕づくでも、出してみせる。覚えておけ」
捨て台詞を言って、先生から目をそらして、
扉のそばに立ち尽くす彼に気付いて、
男は
「あたら、こんな市井で、才能を無駄遣いしているのか」
彼を一瞥してから、先生を振り返り、男は皮肉を言った。
「この方には関係のないことです」
「『この方』だと?貴様に旦那芸ごときを習う、身の程知らずのただの生徒ではないか」
鼻を鳴らす男の言を聞きとがめ、先生は、
男を射殺そうとでもするような冷たい眼光で、
「わたくしが好きでしていること。 それに、あなたになど、一生、わからない。」
帰ってください と、聲を荒げた。
「・・・孔明先生、大丈夫ですか」
男が出て行った後、先生は、愛するピアノの蓋に縋るように、
力なく両手をついて身体を預けて、うなだれていた。
泣いているような背に、彼は、思わず巨きな掌を添えて、
気付いたら、さするようにしていた。
「すみません・・・あの者が、失礼なことを」
「儂のことはいいのだ」
涙聲に聞こえる。
泣いているのではないだろうか。
抱きしめてしまいたい。
あの男は何者なのか、
いま直接聞くべきなのか。
あとで水鏡先生に聞くべきなのか。
そんなつもりはなかったのだが、
高音部の側面の、グランドピアノ独特の凹んだ曲面と、
彼の長い腕の間に細い身体を閉じ込めて、
先生を背後から独占してしまったような格好である。
彼は内心うろたえたが、
そんな状況に、先生は気付いていない。
彼がこの扉を開ける前に、
あの男と何を言い争っていたのだろうか。
否、
あの男と、何か因縁めいた確執があるのであろうことは
短い応酬のなかに、明らかであった。
”腕づくでも”と、あの男は言った。穏やかではない。先生は、嫌がっていた。
いったい先生は、一人でここに居続けて、良いのであろうか。
「先生、差し出がましいかも知れぬが」
ほっそりとして少し冷たい先生の背に掌を添えたまま、
「しばらく、儂の家で暮らして、 稽古をつけてくださるというのはどうかな。 ほかのお弟子は、呼べばよい」
ピアノの蓋だけを見て、泣いているのか、
怒っているのか、わからなかった先生が、
ゆっくりと振り返って、彼が言った言葉の意味を、
ためらいながら確かめようとしている表情を、ようやく見せた。
没落してはおるが、客人の一人や二人を
賄うぐらいは、儂にもまだできるのだよ、と、
レッスンの間には見せたことのなかった、
おっとりとした、大人の男の余裕を目尻の皺に漂わせて、
彼は頷いて見せた。
<大人の情景 全13話> 全話一気読みのショートカットは → こちら
いつもの時間に、玄関からすぐのレッスン室の防音扉を開けるなり、
聞きなれない、しかし、其のりりしい聲に似合わない
罵声が飛んでいた。
聲の主を見ると、愛憎入り混じったような、強烈な表情に
目を吊り上げながらも、俳優のように恐ろしく眉目秀麗な
横顔の若い男が、先生を睨んでいた。
「腕づくでも、出してみせる。覚えておけ」
捨て台詞を言って、先生から目をそらして、
扉のそばに立ち尽くす彼に気付いて、
男は
「あたら、こんな市井で、才能を無駄遣いしているのか」
彼を一瞥してから、先生を振り返り、男は皮肉を言った。
「この方には関係のないことです」
「『この方』だと?貴様に旦那芸ごときを習う、身の程知らずのただの生徒ではないか」
鼻を鳴らす男の言を聞きとがめ、先生は、
男を射殺そうとでもするような冷たい眼光で、
「わたくしが好きでしていること。 それに、あなたになど、一生、わからない。」
帰ってください と、聲を荒げた。
「・・・孔明先生、大丈夫ですか」
男が出て行った後、先生は、愛するピアノの蓋に縋るように、
力なく両手をついて身体を預けて、うなだれていた。
泣いているような背に、彼は、思わず巨きな掌を添えて、
気付いたら、さするようにしていた。
「すみません・・・あの者が、失礼なことを」
「儂のことはいいのだ」
涙聲に聞こえる。
泣いているのではないだろうか。
抱きしめてしまいたい。
あの男は何者なのか、
いま直接聞くべきなのか。
あとで水鏡先生に聞くべきなのか。
そんなつもりはなかったのだが、
高音部の側面の、グランドピアノ独特の凹んだ曲面と、
彼の長い腕の間に細い身体を閉じ込めて、
先生を背後から独占してしまったような格好である。
彼は内心うろたえたが、
そんな状況に、先生は気付いていない。
彼がこの扉を開ける前に、
あの男と何を言い争っていたのだろうか。
否、
あの男と、何か因縁めいた確執があるのであろうことは
短い応酬のなかに、明らかであった。
”腕づくでも”と、あの男は言った。穏やかではない。先生は、嫌がっていた。
いったい先生は、一人でここに居続けて、良いのであろうか。
「先生、差し出がましいかも知れぬが」
ほっそりとして少し冷たい先生の背に掌を添えたまま、
「しばらく、儂の家で暮らして、 稽古をつけてくださるというのはどうかな。 ほかのお弟子は、呼べばよい」
ピアノの蓋だけを見て、泣いているのか、
怒っているのか、わからなかった先生が、
ゆっくりと振り返って、彼が言った言葉の意味を、
ためらいながら確かめようとしている表情を、ようやく見せた。
没落してはおるが、客人の一人や二人を
賄うぐらいは、儂にもまだできるのだよ、と、
レッスンの間には見せたことのなかった、
おっとりとした、大人の男の余裕を目尻の皺に漂わせて、
彼は頷いて見せた。
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