「孔明先生、今週は不覚にも、上の段しかできておらんのじゃ」
上の段とは、右手のパートのことである。
華やかなレセプションなどで、
押し出しの良い体躯を、仕立ての良い洋服に包んで、
晴れやかに乾杯の挨拶などを行ったりする、あの彼が、
しゅんとして、もじもじと、
右隣に座る先生に、俯き加減で言いにくそうに打ち明けると、
水鏡先生から、暇そうに見えて実はめまぐるしい彼の日常を、
仄聞はしているのであろう、
「お忙しいのに、よく練習なさいましたね」
と、逆に優しげに微笑まれて、
ほっとすると同時に、どきどきとする。
手をとられて労われたりしたら、儂は何としよう、などと、
妄想までよぎりそうな、彼にとっては甘いまなざしである。
一度、通してみましょう、と、言われるがままに、
まるで小学生のようなたどたどしさで、
巨きな右手の指を運んで、練習の成果を、
ときどき躓きながらも、旋律だけを再現する。
右手に先生の視線を痛いほどに感じるのは、
意識しすぎていることと、緊張していることとの
両方に由来するにすぎず、先生に他意があるとは考えにくい。
「音は正しく見ておいでですよ、少しテンポを落として・・・」
先生が、右から消えたかと思うと、
スツールの椅子を、彼の左へ移動して腰かけなおし、
「わたくしが、左を弾きますので、
どんな感じになるのか、つかんでみましょう」
先生は右手を、彼の腰掛ける椅子の背に軽く回して斜めに座ると、
右胸を、彼の背の端に触れそうなぐらいに添って
左腕を伸べ、彼の左手が本来弾くべき鍵盤の上に、
ほっそりとした左手を置いて、促した。
困る。
先生は慣れておいでと思うが、
これは困る。
こんなに寄り添われては、なぜか全く身が入らん。
テンポを落としたにもかかわらず、
ミスがミスを呼ぶような、ぎくしゃくとした演奏をして、
先生の左手に、たびたび待ち呆けを食わせて、
一方が動けば一方が止まる、
だるまさんがころんだ
をしているような、噛みあわなさを露呈しながら、
今後は、絶対に、片手練習以上の成果を挙げて
レッスンに臨まねば、心の臓がもたん と、
右手をこわばらせつつ、血圧をばくばくと上げつつ、
左手の拳骨の中に汗を握りつつ、彼は固く誓ったのであった。
<大人の情景 全13話> 全話一気読みのショートカットは → こちら
上の段とは、右手のパートのことである。
華やかなレセプションなどで、
押し出しの良い体躯を、仕立ての良い洋服に包んで、
晴れやかに乾杯の挨拶などを行ったりする、あの彼が、
しゅんとして、もじもじと、
右隣に座る先生に、俯き加減で言いにくそうに打ち明けると、
水鏡先生から、暇そうに見えて実はめまぐるしい彼の日常を、
仄聞はしているのであろう、
「お忙しいのに、よく練習なさいましたね」
と、逆に優しげに微笑まれて、
ほっとすると同時に、どきどきとする。
手をとられて労われたりしたら、儂は何としよう、などと、
妄想までよぎりそうな、彼にとっては甘いまなざしである。
一度、通してみましょう、と、言われるがままに、
まるで小学生のようなたどたどしさで、
巨きな右手の指を運んで、練習の成果を、
ときどき躓きながらも、旋律だけを再現する。
右手に先生の視線を痛いほどに感じるのは、
意識しすぎていることと、緊張していることとの
両方に由来するにすぎず、先生に他意があるとは考えにくい。
「音は正しく見ておいでですよ、少しテンポを落として・・・」
先生が、右から消えたかと思うと、
スツールの椅子を、彼の左へ移動して腰かけなおし、
「わたくしが、左を弾きますので、
どんな感じになるのか、つかんでみましょう」
先生は右手を、彼の腰掛ける椅子の背に軽く回して斜めに座ると、
右胸を、彼の背の端に触れそうなぐらいに添って
左腕を伸べ、彼の左手が本来弾くべき鍵盤の上に、
ほっそりとした左手を置いて、促した。
困る。
先生は慣れておいでと思うが、
これは困る。
こんなに寄り添われては、なぜか全く身が入らん。
テンポを落としたにもかかわらず、
ミスがミスを呼ぶような、ぎくしゃくとした演奏をして、
先生の左手に、たびたび待ち呆けを食わせて、
一方が動けば一方が止まる、
だるまさんがころんだ
をしているような、噛みあわなさを露呈しながら、
今後は、絶対に、片手練習以上の成果を挙げて
レッスンに臨まねば、心の臓がもたん と、
右手をこわばらせつつ、血圧をばくばくと上げつつ、
左手の拳骨の中に汗を握りつつ、彼は固く誓ったのであった。
<大人の情景 全13話> 全話一気読みのショートカットは → こちら