「大人の情景」 眠る子供

2008/11/13

21cパラレル(大人の情景 劉公叔の物語(21世紀)

吉平先生は、劉家のホームドクターである。
いま、公叔の大きな寝台に横たわっている患者を見るなり、
(ううむ、ぬかったわい)
と、思っていた。

公叔はまだ、初老なのだ。驚くには値しない。
お客人が病気と、往診を請われ、
それが大人か子供かを電話口で聞いたまでは良かった。
(この邸が、長らく男所帯だったことに、慣れてしまっていたわい)

婦人科系の用意は、往診鞄の中に、ない。
たとえば、妊娠検査用のキットなど。

しかし、憚りながら内科の腕前は折り紙つきの名医、
脈診だけでも中華で一、二を争う漢方医である。

重篤な疾患ならば、いずれにしても精密検査が
必要になるのだから、予診だと思い直して、
まず、体温計を取り出した。

「ああ、寝たままどうぞお楽に、こちらのお邸のドクターです。
 失礼、お熱を測らせていただきますよ」

つとめて優しく慇懃に言うと、
患者は黙って頷いて体温計を受け取り、
自分で脇の下に挟んで、大人しくしている。

往診鞄からマスクや手袋、聴診器など、
さまざま取り出し、聴診器の金属の部分を両手で温めながら、
体温計の電子音が鳴るのを待つ。
37.2度。
(ふむ。微熱)

「胸の音を聞きましょう、ああ、そのままで結構ですよ」
気を使って、着衣の下から聴診器を滑り込ませて、
ひとしきり胸の音を聞きながら、
(・・・あっ)
騙された。
この容貌と、シチュエイションに。
あるはずだと想定した、なだらかさというか、膨らみが、ない。

(なんだ、婦人かと思ったら)
平静を装いながら、先ほどの猫なで声が
自分でもいやらしく感じ、かといって急にぶっきら棒なのも
更にいやらしいので、やはり同じような調子で、
「背中も聞かせていただきましょう。寝返り、打てますかな?」

少し眉を曇らせて、嫌そうというよりは、
大儀そうに、この患者は裏返った。
「ちょっと、お寝巻きを失礼」
吉平先生は、患者が婦人ではないことに安心して、
背後から無造作に、寝巻きをガバと捲った。
何事もないように、つるつると丸い金属面を、
薄い背中の何箇所かに押し当てている。

(・・・まったく、公叔というおかたは)
という本音は胸にたたんで、
型どおりに、喉を見たり、瞼をひっぱったり、
脈を診たり、血圧を測ったりして、
「お疲れが出た、という程度でしょう。ご安心なさい。
念のため3日分ぐらい、熱さましを置いてゆきましょう。
2~3日は、安静ですよ。安静」

寝巻きを直して、患者が眠るのを扶けてから、
吉平先生は、部屋を出た。


廊下では、公叔が、おろおろ、うろうろ、行ったりきたりしていた。
「ああ、先生、孔明は、孔明は」
「落ち着かれよ、公叔」
それで、どうなのじゃ、大丈夫なのかと、
急き込んで詰め寄る彼を制して、
少し声を潜めて
「公叔。恋の病は、保険の適用外ですぞ」
「えっ」
「お隠しあるな。お可愛がりが過ぎたということです。見ましたぞ。背中」
「・・・あっ」

ゆうべ、あのあと結局は想いを遂げてしまったことを見抜かれて、
急に、もじもじとする、いい歳をした、紳士のはずの彼が、
(いや、あれは背も弱いとみえて、この掌でちょっと撫でるだけで
 しきりに震えて泣き乱れるものだから、つい)
と、でれでれと緩みそうな頬を我慢して黙り込んだのを、
吉平先生は、こころもち、生暖かいような横目で見て、
「しばらくは、ご辛抱なさい。意味はお分かりですな。
 それから、もしも出血のようなことがあったなら、これ」
白い紙袋に入れた、塗り薬を手渡すと、
「後日、カルテ作りに改めてまいるとしましょう」
と、ホームドクターらしい顔になって、飄然と去っていった。


(まったく、公叔というおかたは)
吉平先生は、白髪頭に帽子を載せ、往診鞄をぶらさげて、
枯れ葉が舞う帰路を、早足に歩いていた。

医者は仕事柄、患者の個人的秘密を知ってしまう。
もっと驚くような事例は、他に山ほどあるし、
人体の構造・精神の構造いずれも
「正常の範囲内」の境界線など、
あってないようなものだと思っている。

公叔が、誰と寝ようが、別に好奇も嫌悪も湧かない。
少し、「家系」や「遺伝」、「個体差」という事項について、
また謎が深まっただけである。

あの、薄い背中の、背骨の傍のあたりの、
あの生生しい吸い痕は、なんじゃ一体全く、朝っぱらから。
どなたに似られたか。

ああいうのを、むっつり助平というのだ。
そして、一時の戯れではないらしいことも、明白ではないか。

よく、際どく見えそうなところに、情事の痕跡を残して
牽制か、誇示かわからんが、半ば公然と、
いわば所有欲丸出しのマーキングをする者は多いが、
ああいう箇所は、仕出かした本人にしか、見えない。
自分だけの秘密という種類のものだ。
それを思い出し笑いしたりする、そういう性格のものだ。
そして、見えないことをいいことに、そこを、
人前で、服の上から平然と執拗に触ったりするためのものだ。
友人の天才外科医と、酒を飲んだとき、そんな話をしたことがあった。

(すると、おめでたということは、ご子息の代まで、ないかもしれん)
吉平先生は、歴代の劉家の、眠る赤子の顔を、
ふと思い浮かべて、なかでも生まれながらに
明らかに異相だった、巨きな耳の彼の子供時代を思い出していた。 


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