「ようこそ、ご光臨光栄です」
「ふん、貴公が呼びつけたのではないか」
出会い頭から、喧嘩腰である。
周家の御曹司は、屈強そうな護衛を伴って、
彼の小さな邸の応接間に入ってきた。
彼も、窓辺に、弟分ふたりの大男を、
仁王のように直立させて、無言で威圧している。
「御曹司、まあ、お座りください」
「用件を言え」
りりしい目は、彼の隣の孔明先生を睨んでいる。
「儂は、御曹司のように若くないのでな、勝手に座らせていただきますよ」
よっこらしょ、と、
独り言のように、少し爺むさく腰を下ろして、
暗に歴然とした年齢の差を、むしろ誇示するように、
「孫呉財閥は、最近は老舗家業の海運業だけでなく、 IT分野にも目覚しい進出ですなぁ、若いブレーンに 恵まれている証拠、左団扇ですな」
「ビジネスの話をしに来たつもりはない」
「おや、そうですかな」
そこへ、派遣で雇っているメイドが、茶を運んでくる。
わざと、紅茶を用意させて、中国茶を選ばなかった。
匙や、ミルクポット、シュガーポットなどの金属的雑音が、
この男の、おそらく神経質なまでの絶対音感を
刺激するに違いないと、計算して、しかも、わざわざ、
車輪の滑りを鈍く細工したワゴンで運ばせた。
耳障りであったのか、この雑音を表す譜を思いえがいたのか、
怒りながら立ち尽くすことに飽きたのか、
わからないが、周家の御曹司は、彼に対面して
ようやく座った。
「あいにくだが、孔明のこの手は」
彼は、隣で緊張して、人形のように息も忘れたように座っている
先生の冷たい手を両の手でゆっくりととると、
御曹司を挑発するように、さも愛おしそうに、撫で回して見せた。
「儂の許可なく、余所で演奏をできなくなりましてな」
「貴公が、生徒ではなく、パトロンになったということか」
「まあ、そう思っていただいて結構」
大富豪を前に、貧乏貴族の彼は、鷹揚に、答えてみせる。
「孔明、貴様、才能を金で売ったのか。買い戻してやる。幾らだ」
「孔明、答える必要はない」
彼はぎゅっと、先生の手を握った。
「儂が、金や権力に興味がない、おかしな男だということは、
ご存知のはずだ。買い戻せはしない」
契約書すら存在しないこの件について、自信たっぷりに嘯く。
俳優のような美男は、まるで憎まれ役を演じているような剣幕だ。
「これほどの才能を、私的に死蔵して許されると思っているのか」
「これほどの才能を、あわよくば踏み台にしようと目論む輩よりは
ましであろう、あなたがたの財力を以ってすれば、
審査員に賄賂をばら撒いて、名誉を買うことすら造作もない」
「・・・では、孔明をコンクールに出していただく見返りに、
なにをご希望か。国家機密か。軍事衛星か。・・・女か」
青い。
他愛もない。場数が違う。
「どれも悪くありませんな」
巨きな掌の中で、先生の手から血が引いたように感じて、
彼は分厚い拇指で宥めるように僅かに撫でながら、
「だが、見くびって貰っては困る。
ガセネタにも興味はないし、
逆スパイのリスクを自ら引き込むほど、愚かでもない」
彼は、あっさりと勝ちが見えたので笑みを洩らし、
「そうですな・・・強いてあげるならば、御曹司の、欠場」
王手だ。
これが噂に聞く、金も権力もない公叔の方程式か と、
このような落としどころがあろうかと、
御曹司は、顔面を蒼白にして、呆然としていた。
「これも、パトロンとしてのビジネスの一つと思って、
悪く思わないでいただきたい。
そうそう、付け加えるならば、・・・死蔵とは失敬な。
愛蔵と認識していただかねばならん」
決定的な一言は言わず、交渉の成立というよりも、
否と言わせぬ通告を受け取らせてしまうと、
彼は立ち上がって上着の釦をかけ直し、扉にむかいながら、
「孔明」
椅子に貼り付いたようになっていた先生を、
呼び捨てにして、声高に呼んだ。
本当は、あの男など、念頭にない。
これからが、彼の正念場なのだ。
「おいで」
長い腕を先生に伸べて、
短く、はっきりと、慈愛たっぷりに呼びかける。
先生が、音楽の鬼のようなあの男と、
芸術という修羅の一本道をゆくことを選ぶか、
彼の傍らで、誰にも妨げられずに、
摩訶不思議で天才的な発想を楽しむような
一見、平凡な暮らしに幸せを見出すことを選ぶか、
それは今、先生が選んでよいのだ。
彼には、あの男を言い包めていた時間よりも、
ずっと長い時間が流れたように思えた。
先生が、ゆるりと立ち上がり、すこし立ち尽くし、
そのあと、あの男に目も呉れずに、まっすぐに、
迷わずに、彼に縋るように小走りに寄って、
伸べた巨きな手にそっと、
手を預けてくれたことに双眸を細めると、
「一曲、聞かせてもらうとしよう」
ささやくように、しかし、満座に聞こえるように計算した
調子で話しかけてから、
「そうじゃ、孔明に何か良からぬことを企むでないぞ、
将来、儂の気が変わって、演奏活動を許可した時、
手負いの孔明に勝てたとしても、何の益もあるまい」
周家の御曹司と護衛に、
がっちりと、五寸はあろうかという釘を刺すことも
忘れなかった。
演奏を請うて、応接間をあとにしたはずの
彼は、廊下を曲がったところで急に立ち止まり、
ぱっと、手を離すと、縮むように俯いて、
「先生、その・・・先ほど、儂は、甚だ、いやらしかった」
巨きな耳まで真っ赤にして、
廊下の壁に「乃」の字を書き連ねそうなぐらいに、
彼は、心底、恥ずかしそうであった。
「だが、どうか、狒狒爺などと、嫌わないでいただけまいか」
先ほどの、まるで天をも恐れぬ集団の親玉のような
不敵で堂堂たる様子はどこへやら、
跪いて懇願するかのようである。
「公叔、どうかもう『先生』は、おやめください」
先生は、見たこともないように晴れやかに微笑んで、
廊下の壁に圧しつけられている、彼の分厚い指に、
そっと手を添えた。
彼にとって、この言葉こそ、
今日もっとも重大な出来事であった。
<大人の情景 全13話> 全話一気読みのショートカットは → こちら
「ふん、貴公が呼びつけたのではないか」
出会い頭から、喧嘩腰である。
周家の御曹司は、屈強そうな護衛を伴って、
彼の小さな邸の応接間に入ってきた。
彼も、窓辺に、弟分ふたりの大男を、
仁王のように直立させて、無言で威圧している。
「御曹司、まあ、お座りください」
「用件を言え」
りりしい目は、彼の隣の孔明先生を睨んでいる。
「儂は、御曹司のように若くないのでな、勝手に座らせていただきますよ」
よっこらしょ、と、
独り言のように、少し爺むさく腰を下ろして、
暗に歴然とした年齢の差を、むしろ誇示するように、
「孫呉財閥は、最近は老舗家業の海運業だけでなく、 IT分野にも目覚しい進出ですなぁ、若いブレーンに 恵まれている証拠、左団扇ですな」
「ビジネスの話をしに来たつもりはない」
「おや、そうですかな」
そこへ、派遣で雇っているメイドが、茶を運んでくる。
わざと、紅茶を用意させて、中国茶を選ばなかった。
匙や、ミルクポット、シュガーポットなどの金属的雑音が、
この男の、おそらく神経質なまでの絶対音感を
刺激するに違いないと、計算して、しかも、わざわざ、
車輪の滑りを鈍く細工したワゴンで運ばせた。
耳障りであったのか、この雑音を表す譜を思いえがいたのか、
怒りながら立ち尽くすことに飽きたのか、
わからないが、周家の御曹司は、彼に対面して
ようやく座った。
「あいにくだが、孔明のこの手は」
彼は、隣で緊張して、人形のように息も忘れたように座っている
先生の冷たい手を両の手でゆっくりととると、
御曹司を挑発するように、さも愛おしそうに、撫で回して見せた。
「儂の許可なく、余所で演奏をできなくなりましてな」
「貴公が、生徒ではなく、パトロンになったということか」
「まあ、そう思っていただいて結構」
大富豪を前に、貧乏貴族の彼は、鷹揚に、答えてみせる。
「孔明、貴様、才能を金で売ったのか。買い戻してやる。幾らだ」
「孔明、答える必要はない」
彼はぎゅっと、先生の手を握った。
「儂が、金や権力に興味がない、おかしな男だということは、
ご存知のはずだ。買い戻せはしない」
契約書すら存在しないこの件について、自信たっぷりに嘯く。
俳優のような美男は、まるで憎まれ役を演じているような剣幕だ。
「これほどの才能を、私的に死蔵して許されると思っているのか」
「これほどの才能を、あわよくば踏み台にしようと目論む輩よりは
ましであろう、あなたがたの財力を以ってすれば、
審査員に賄賂をばら撒いて、名誉を買うことすら造作もない」
「・・・では、孔明をコンクールに出していただく見返りに、
なにをご希望か。国家機密か。軍事衛星か。・・・女か」
青い。
他愛もない。場数が違う。
「どれも悪くありませんな」
巨きな掌の中で、先生の手から血が引いたように感じて、
彼は分厚い拇指で宥めるように僅かに撫でながら、
「だが、見くびって貰っては困る。
ガセネタにも興味はないし、
逆スパイのリスクを自ら引き込むほど、愚かでもない」
彼は、あっさりと勝ちが見えたので笑みを洩らし、
「そうですな・・・強いてあげるならば、御曹司の、欠場」
王手だ。
これが噂に聞く、金も権力もない公叔の方程式か と、
このような落としどころがあろうかと、
御曹司は、顔面を蒼白にして、呆然としていた。
「これも、パトロンとしてのビジネスの一つと思って、
悪く思わないでいただきたい。
そうそう、付け加えるならば、・・・死蔵とは失敬な。
愛蔵と認識していただかねばならん」
決定的な一言は言わず、交渉の成立というよりも、
否と言わせぬ通告を受け取らせてしまうと、
彼は立ち上がって上着の釦をかけ直し、扉にむかいながら、
「孔明」
椅子に貼り付いたようになっていた先生を、
呼び捨てにして、声高に呼んだ。
本当は、あの男など、念頭にない。
これからが、彼の正念場なのだ。
「おいで」
長い腕を先生に伸べて、
短く、はっきりと、慈愛たっぷりに呼びかける。
先生が、音楽の鬼のようなあの男と、
芸術という修羅の一本道をゆくことを選ぶか、
彼の傍らで、誰にも妨げられずに、
摩訶不思議で天才的な発想を楽しむような
一見、平凡な暮らしに幸せを見出すことを選ぶか、
それは今、先生が選んでよいのだ。
彼には、あの男を言い包めていた時間よりも、
ずっと長い時間が流れたように思えた。
先生が、ゆるりと立ち上がり、すこし立ち尽くし、
そのあと、あの男に目も呉れずに、まっすぐに、
迷わずに、彼に縋るように小走りに寄って、
伸べた巨きな手にそっと、
手を預けてくれたことに双眸を細めると、
「一曲、聞かせてもらうとしよう」
ささやくように、しかし、満座に聞こえるように計算した
調子で話しかけてから、
「そうじゃ、孔明に何か良からぬことを企むでないぞ、
将来、儂の気が変わって、演奏活動を許可した時、
手負いの孔明に勝てたとしても、何の益もあるまい」
周家の御曹司と護衛に、
がっちりと、五寸はあろうかという釘を刺すことも
忘れなかった。
演奏を請うて、応接間をあとにしたはずの
彼は、廊下を曲がったところで急に立ち止まり、
ぱっと、手を離すと、縮むように俯いて、
「先生、その・・・先ほど、儂は、甚だ、いやらしかった」
巨きな耳まで真っ赤にして、
廊下の壁に「乃」の字を書き連ねそうなぐらいに、
彼は、心底、恥ずかしそうであった。
「だが、どうか、狒狒爺などと、嫌わないでいただけまいか」
先ほどの、まるで天をも恐れぬ集団の親玉のような
不敵で堂堂たる様子はどこへやら、
跪いて懇願するかのようである。
「公叔、どうかもう『先生』は、おやめください」
先生は、見たこともないように晴れやかに微笑んで、
廊下の壁に圧しつけられている、彼の分厚い指に、
そっと手を添えた。
彼にとって、この言葉こそ、
今日もっとも重大な出来事であった。
<大人の情景 全13話> 全話一気読みのショートカットは → こちら