「大人の情景」 夢

2008/11/13

21cパラレル(大人の情景 劉公叔の物語(21世紀)

秋は何かと催事が多く、仕事柄、たとえば挨拶や祝辞の
数分のために、一日のうちに何箇所もの箱物を
ぐるぐると巡ることが多い季節である。

ある日の午後、雨天順延の野外行事の開幕セレモニーが、
はっきりしない空模様で、急遽、彼の身体は珍しく空いた。
夜に招かれている、日本の古典芸能・能楽という、爆睡必至の会まで、
三時間ほど、ぽっかりと時間があいた。

「翼徳、そうじゃ、ちょっと、家に帰ろう」
平日の、日のあるうちに、我が家で茶の一杯も飲めたら、
幸福感と、お得感で、さぞや満たされよう。
(そして、それがもし、孔明と一緒ならば)

 そうっスね、
 今の時間だと、夜の能楽堂まで中途半端っスね。

 ああ、せめて、狂言でも入っておればな。
 能楽だぞ能楽オンリー。イヤホンガイドがあっても舟を漕ぐは必定じゃ。

 ふうん。そうなんスか。あそーだ、禅ちゃんついでにピックアップしまスか?

 いやいや、甘やかしてはいかん。一人で登下校できる年齢だ。

 でも公叔のご子息ですぜ。

 だからこそだよ。

などと、おしゃべりと余所見を多用しながら、
意外にも事故・違反・減点なしの強者に、
慎重かつ大胆なハンドル捌きをされる
彼の自家用車は、雲に隠れがちな日差しが斜めになった
ちいさな邸の車寄せに滑り込んだ。

「ただいま、孔明は」
玄関を開けるなり、嬉しそうに問う彼に、
「20分ほど前は、書庫においででした」
常山の好漢の明快な答えは、先生に取りつけた鈴のようである。

そうかそうかと、コートも脱がずに、
弾むような足取りで書庫へ向かう彼の背を見て、
「兄者っ、いつも帰ったら手洗いうがいって言ってるじゃねぇスか」
冷やかすように、末弟の笑い声が追いかけた。

書庫の扉を開けると、電気が点いていなかった。
秋の、今日のように頼りない夕日は、つるべ落としに落ちてゆく。

そう広くもない、薄暗くなっていく書庫を一周しかけて、
隅っこの長椅子に、うるわしく転寝する先生をみつけた。
(お昼寝中とは、起こすに忍びない)
貌を見ただけで良しとしよう、
寒そうなら、コートを着せ掛けようか と、
足音を忍ばせて近寄ってみると、
泣いていた。

正確には、乾いていない涙のあとが、
目元を濡らしていた。

彼は、ぐさりと、寛い胸を刺されたように感じた。
夢か。
夢を見ているのか。
何の夢なのか。
切ない思い出の夢ならまだしも、
いまこの白い額の中で、先生を泣かせている輩を
想像すると、誰であろうとも許しがたいような、
一種の狂おしい感情が湧き上るのを覚えた。

”白雪姫は、王子さまの口づけで目が覚める”
同時に、そんな、外国の童話が唐突に頭を掠めて、
王子というには、ちと、歳を食いすぎておろう、
と、自分に突っ込みを入れる冷静さは失っていない。

その年の功は、年甲斐もなく渦巻く激情をよく抑えて、
そっと傍に跪くと、投げ出されたような形の
白い片手をとって、その甲に、
笑い皺が癖になったような粗い頬を寄せてみた。

徐に、口髭を摺り寄せて、
ピアニストらしく、爪を切りそろえた指先を、
ほんのりと軽く、唇に含んでみた。
ややあって、短く、息を吸って目覚めかけた先生に、
「これ、風邪を引くではないか」
手をとった格好のまま、しかし素早く唇を離して、
彼はおっとりと言った。

平日の、この曖昧な時間帯の書庫に、
なぜ彼が居るのか、さすがの先生にも寝起きでは
よく分からないようであったが、
彼は、先生の庇護者である。
いつまでも彼を、跪かせておくわけにはいかないのに、
彼はそのまま、
「泣いておったであろう、孔明」
底抜けに優しく、頬の涙を拭うのであった。

先生が眠っている間にしかできないことを優先して、
起きていてもできることを後にした、
この行動の動機が、彼にはまだ分かっていない。
「泣いておりますね」
夢を覚えていない先生は、他人事のように呟いて、
ただ、庇護者たる彼の掌の優しさと、
夕暮れ時の持つ危うさの両方に、夢を見ている心地であった。


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