夜半龍聲到旅船 (やはんのりゅうせいりょせんにいたる)

2009/09/09

うをとみづ3世紀SS

「兄者、夜風はお身体に障りまするぞ」
先の戦いで受けた矢瘡を労わってか、
それとも他にかけるべき言葉が見当たらなかったのか、
彼の義弟は、船足の速さに長髯を靡かせながら、
背後の高いところから、ぼそりと言った。

「ハハ、そう心配するな、見よ、月が美しいではないか。心が洗われる」
皓い歯を見せて、背の高い義弟を見上げて笑み交わすと、
今上の叔父たる彼は、其の視線を帆柱のあたりの天空に移して、
夜空へ誘うような振りをした。

(やれやれ、先ほどまでは、陸を見ておいでだったに)
甲板に点された灯火に映える長髯のなかで苦笑を噛み殺しながら、
ふと、夕刻に陸を離れるときに、この長兄は何と言ったのだろうかと、
あの光景が思い出された。

おそらく史書に残る天下分け目の一戦を前に、
俄かな同盟国の総指揮者からの、怪しい招きに、
いともかろく応じた彼は、少ない供回りを従えて、
命知らずにも、場合によっては帰り得ぬこの船に乗って、
世に周郎、と持て囃されている美丈夫と、にこやかに会談した。

留守居する、慎重派の意見を裏書するように、
其の席には、上客として滞在しているはずの、
彼の掌中の珠玉たる軍師の姿はなく、
供回りは愈愈に警戒を強めて、手に汗を握り締めたが、
彼はむしろ、落胆の色も露わに、座の緊迫を緩めて、
かえって無事に、危険この上ない外交を果たした。
足取りも鈍く、帰船しようとすると、江のひらける手前の潅木の陰から、
ひらひらと、さし招く者がある。

見慣れた、軍師の白羽扇であった。

其れを、一行の誰よりも早く認めるやいなや、
彼は駆け寄って、さし招くその両手をとり、満面に喜色をうかべて
「息災であったか」
何度も、確かめるように、黒尽くめに明るい色の衣をちらりと見せる軍師を
寛き懐にいだき直しては、
「ちと、痩せたのではないか」
心配でならぬという風情で、叡明を絵に描いたような軍師の貌を
覗き込んでいる。
実際には、痩せてはいない。

江東の群英錚錚たりといえども、
この龍の爪にかかれば嬰児の手を捻るも同然のことばかり、
何の気苦労もない。
君名さえ辱めず、主家の前途に支障を招かなければ、
どんな謀略を企もうとも、この敵地にては、
いわば計り捨ての気楽さがあり、むしろ肥えたにせよ、
痩せる道理がない。
彼にも、彼の龍が実際には痩せていないことが、
手応えですぐに判り、安堵しかけたが、
何かが、少し痩せ衰えたのではないかと、閃くように察した。

「本日、雲長どのが御供なさいませんでしたら、お命はお危のうございました」
主君の軽率な行動を咎めるよりも、
この危険な企てを察知できなかった不覚を詫びて、
同時に、供をした義弟の功と、留守の者たちの好判断を評価する。

久方ぶりに、少ない言葉に最大の効果を持たせる、
味方にとってはこの上なく心強く小気味よい、
翡翠のような聲音を聞き、
彼ら一行は、同盟国であるはずの地で、
はじめて大船に乗ったような安堵感を得た。
再会の喜びも束の間、此処は、我が君には虎口も同然、
一刻もお早く御発ちを、と急きたてられたが、彼の足取りは重かった。

何かが痩せている。
否、
龍の啜り泣きが聞こえる。
後ろ髪を引かれてならない。

ようよう、桟橋まで歩み、
必ず某月某日に、かしこに早舟を、と繰り返して約する軍師と彼を
江東の地から隠すように、彼の義弟は、船と陸の間に立ちふさがり、
安全を確認してから最後に乗船しようと、
桟橋を力なく進もうとした彼を見守った鳳眼を、瞠った。

長身を誇るこの義弟にも劣らないほどの、あの長い腕で、
思いもよらない距離から、陸に残る軍師の手を、
未練にも掴み寄せたかと思うと、
あっという間に数歩、桟橋に引き上げてしまうや、
傍目も厭わず、いかにも名残惜しげに、
軍師の骨が軋むのではないかというほどに、
王室を暗喩するともいえる、蒼みの多い衣の長い袖の中へ
覆い隠すが如くに、両の腕で、緊に縛め、
櫛目の整った黒髪の傍に貌を埋めるようにして、

「孔明、儂は、そなたを・・・・・」
その続きは、軍師の、白磁のような耳にだけ囁かれたようで、
周りには聞こえずとも、久しく見忘れていた、
この君臣ならではの親密さに、中てられるというよりも、
夏口の城の片隅で噂されている
  ”軍師は、行ったきり、江東に仕えてしまうのではないか”
という風聞は、ただの憶測と、たちまちにして消え去るのを覚え、、
一行は、このたびは無駄足ではなかったと、
かえって胸をなでおろしたのであった。

(もう、船をお降りになる頃だろうか)
この世に一条の龍は、暢気そうに夜釣りをしながら、
彼と同じ月を見上げていた。

己の才覚も、他人の才覚も、掌を見るが如くに分かり切って、
欠伸をしながら生きている。

然れど、今日、不意にまみえた主君に、
つね日ごろ自覚していない心の裡を、鏡に映したように悟られ、
閂を外されかけて、思い知った。

思うがままに策謀を運らせ、昼寝の限りを尽くし、
夏口で守りを固めるよりも安穏を貪って
享楽に暮らしているかに思えた己が、
心の一隅に、厳しく封印をして自ら禁じていたことに、
愚かにも、気づいていなかった。

他に何も望まず、いかほどに、
あるじに備わる、まばゆい徳の恩寵を蒙ることのみを渇望しているものか、
別れ際の、満身に沁み渡るような、痛いほどの
傍目も憚らぬ抱擁ひとつと、あの一言で、思い知らされた。

『そなたを、このまま連れ帰りとうてならん』
つい今しがた聞かされたばかりのように、
日ごろ温厚な主君の、苦しげな吐息交じりの、一語一句を噛み含めるような、
聞かされた方の胸が締め付けられるような聲が、耳元に鮮やかに蘇る。

あとは、幾度か絞るように名を呼ばれ、
あの頼もしい両の腕に籠った力に物を言わされた。

衣に淡く焚きこまれていた、主君が好む外出用の香木の薫りを、
懐かしく知覚したはずの理性は、江水の彼方に浚われたように、
脈搏が跳ね上がると、耳の辺りに血がのぼるのを律するべくもなく、
膝に震えが来て立たなくなり、
大人びて主君を受け止めたように繕いながら、
多年、数え切れない艱難を越えてきた厚みを醸す広い背に、
ただ縋った。

余の者が言うならば、むず痒くなりそうな、ともすれば女女しい、
言うても詮無いようなことも、偽りもなく臆面もなく囁いて、
測りかねる仁心の赴くまま、
君と臣などという隔てすらも、何ほどのこともなく乗り越えてしまう。

あの王者の風貌と聲を、温もりとともに思い出すと、
江東の者が見たなら驚くような、心からの微笑を零して、
ついに江のほとりでは言い出しかねた一言を、
彼の龍は、水面にひとり呟いていた。

「お傍を離れ得ぬのは、わたくしの方なのでございます」