高眠不覚暁 (こうみんしてあかつきをおぼえず)

2009/09/01

うをとみづ3世紀SS

今上の叔父 を意味する高貴な称号を持つ彼は、
一条の龍を傍に、うつら、うつら、としていた。

夢の中から、うつつの世界にもどりかける意識の中で、
「・・・ぅ、む、そうであったな」
なかば寝言のように、ちいさく低く呟いて、
かりに龍の耳に聞こえていても構わぬように、続く言葉は呑みこんだ。

(そうであった。孔明は、殊のほかに頭が重いのであったな)
下賜した彼の大きな衣の中に埋もれるように、
櫛目のとおった、結い上げた黒髪の乱れも僅かに、
横たわる白皙の貌は近くにすぎて、
まだ暗い中の眠い目では、たやすく焦点があわない。

よく見えないままに、彼は無事な右の掌の指を挙げ、
無意識にしかし注意深く、まるで蝶が止まるように、
眠る龍の頸に添わせてから、そっと離した。

龍の寝相はすこぶる良く、呼吸すらわからぬことがあり、
彼は幾夜、その細長い頸へ、頑丈な造りの指を添えて、
そっと脈と温もりを確かめたことか、数え切れず、
これは今や、なかば彼の癖のひとつになってしまっている。

寝台に横たわって話し込むのは、よくあることだ。
然りながら、眠りに落ちる前に腕枕してやるなど、
まるで、奥で夫人と休むような扱いに及んだ例しもない。覚えもない。

而るに、いかなる寝相の加減か、彼の長い腕は、よく、
彷徨の若きころは、大柄な義兄弟たちに枕され、
ときおりの招宴の泥酔の夜には、意気投合した者の頭に敷かれ、
どこから入ってきて知ったのか、城のどこかで飼われている猫に懐かれ、
そして今は、この世に一条しか存在しない彼の龍に独占されている。
枕にされている左腕は痺れきって、指先は血の巡りを強く要求している。

これがために目が覚めかけたのかも知れぬというのに、
彼はその、ざわざわとする己の左腕を救おうともせず、痺れたままに、
すこし傾いで、足のほうを彼から隅へ遠ざけるように斜めに、
だのに千年の智謀を秘めた頭部を、当然のように主君の腕に与えて眠る、
彼の掌中の珠玉たる龍の寝顔を、
眠たい双眸を薄く開いて、薄明かりに見るともなく見ていた。

草庵から召しだした日から、この稀代の天才との話は尽きず、
どこをどう押しても時が足りずに、眠りながらでも話し続けようと
すぐに思いついたのは、彼らしい考えかただった。
ごく自然に私室へ伴い、さまざま論じさせてから、
ともに臥すがよい と、飾らずに誘ったものだが、
はじめは、丁重に断られたことを思い出した。

あれは、義弟たちが、年甲斐もなく悋気に似たような感情を
この年若い軍師にいだいていたに加え、曹軍南下という
内憂外患な時期でもあったが、
然りながら、この天才にとっては恐らく些細なこれらのことを理由にの
謝絶とも思われなかった。

いま思い返せば、
寵用に狎れる気持ちのないこと、
臣としての矩を越えるつもりのないこと 
などの、無言の宣誓であったのかも知れない。

頑として、
君前で、袖の広い折り目正しい黒き装束を解いて、楽に寛ごうとはしなかった。
語り尽くせぬというのに、ちいさな房室へ帰っていく
軍師が、拱手して扉を閉めて辞去していく微かな足音を、
其の巨きな耳で追っては、大きく、青い溜息をついたものだった。

緒戦の大勝利のあと、
いまや、義兄弟はじめ古参の文官武官一同、
あたらしい軍師に心従して、士気もたかく、
いまだ国土に恵まれないながらも、充実と結束に
彼は、毎朝の目覚めが待ち遠しいほどの気概が、
満身に盈ちるのを嬉嬉と感じながらも、
得たはずの龍を理解する努力を怠っているかの如き己を、ひとり羞じていた。

龍は、儂を理解しておる。
だが、
儂は、龍を理解しておるのか。

ある晴天の日、箭弓に励む義弟たちに居合わせ、
おのおの、右手に諸矢を手挟みながら、明朗に射を競う二人を見ていて、
彼は、不意に、思いついた。

ふたたび轟然と迫る曹軍の報に、
眉ひとつ動かさず、むしろ涼しげな微笑さえたえている軍師の策を
私室で聞きながら、侍従が灯火の油を加えに入ってきたのを機に、
彼は更衣に立った。

残した軍師と、侍従は、一体どんな遣り取りをしたのだろうか。
渋々であったか、それとも、割合に素直だったのか、
主であり皇叔たる己の衣を与えて、必ず軍師も更衣させよと、
侍従に下しておいた厳命は、果たされていた。

彼の衣は、痩せ気味の軍師には、ちと大きく、人並み外れた裄の長さは、
典雅な作法も、雄弁の演出も似合う、見飽きぬ形のよい白い両の手を
すっかりと蔽い隠してしまい、舞踊の衣装のようであったが、
あとはもう眠りながら話すだけなのだ。構うまい。

冠をとり、己が衣を、そのように纏った軍師の姿を認めて、
ふむ、と、彼は笑んでみせ、わざと、発言の暇を与えたつもりであったが、
軍師の結んだ唇は、特に抗議を唱えなかった。

彼は、いまだ王ではないが、徳は言うに及ばず、健康と、
判で捺したような規則正しい生活習慣を身につけることも
王者たるものの備えるべき条件である。早く寝に就き、早く起床する。

これらを枉げずに、理解など到底できないかもしれぬ我が龍を、
理解しようと努めるための寸暇を、ようやく得て、彼は安堵を覚え、
「儂は、夜が早いのでな、続きは其処で聞かせてくれぬか」
と、寝台に向かいながら、
物怖じなどしないはずが、戸惑いを覚えているように見える軍師の薄い手を、
袖の中から探し出して、ゆっくりと後ろ手に引きながら、歩みを促し、
招かれるまま、従う気配に、名状しがたい一種の幸福感が溢れ出して止まなかった。

龍はおそらく、人に狎れない。
手懐けようとするつもりもない。

ただこうして、龍の寝姿を無防備に許されるというならば、
辛くも、この身は君主に足るとの証なのかもしれぬ と、
いまだ国土を持たないながらに、動かざる確信が強まる。

鳥が鳴くには早い薄暗がりに、彼の巨きな耳朶は、
すぐそばに、妙なる短い音色を聞いた。
翡翠を転がすようであった。

夢うつつに聞こえた其の音色を追って、
忘れぬうちに手繰るようにして、いま一度思い起した、其れは。

わがきみ

其の音色の意味が、眠気に霞んだ頭のなかで確かに結ばれると、
彼は、我知らず口元を綻ばせ、思わず応じた。

「孔明」
痺れた左手を救うことよりも、
我が龍の眠りを妨げることのほうが惜しく、
誰も見ていないほの昏い中で、限りなく慈しむような貌を向けて、
いますこし、龍の高眠に添い寝しようと、彼は温雅な双眸をとじた。