鳳凰酔言君莫笑 (ほうおうのすいげん きみわろうなかれ)

2009/08/23

3世紀被害譚SS

三代の栄耀を誇る江東の大人物と、
むかし交友した天下の奇才が、
それぞれ別々にしたためた、押しも押されぬ二通の推薦状を懐中して、
わたしは荊州にやって来、いま、たいへんに君恩を蒙っておる。

劉豫州というこの御方のご高名は、かねがね聞き及んではいたが、
他人の人物評など、あてにはならぬ。
わたしは、ご無礼にも自分でご主君を試み、
その美点も欠点も凡そ弁えたうえで、仕官する気になった。

ご主君の性向を見抜いた自信はあるし、
同僚たる孔明という人間も、おおむね把握している。
そして、こういう事は慣れの問題だと認識しているつもりだが、
わたしも人の子、実際に目の当たりにするとなると、
まだまだ驚かされることばかりだ。

ご主君と孔明が、同じ視界に入らない日など、
まず、ほとんど無いといってよい。

当然か? わたしも同じか? そうかな。しかしだな。

ご主君はご主君で、あの温厚な眼差しのほとんどを、
孔明に注ぐことに費やしなさり、
ふた言目には、御慈愛たっぷりに孔明の名をお呼びになる。

孔明は孔明で、あの端正な貌で、涼しい声を、
我が君我が君と、なにやら慕わしげに発しておる。
すこし偏屈な所のある男と思っておったが、ずいぶんと円くなったものだ。

ご主君が座せば、視線を通わせ、
ご主君が立てば、あい寄り添い、
ご主君が歩めば、手を取り合わんばかりに、
否、実際に、取り合うて、歩いておるわ。

酒好きの誼で、よく三番目の将軍と痛飲するが、
折をみて聞いてみた。

あれは昔からなのか、
義弟たる貴方様は、どのくらいで、あれに慣れたのか。

酒が入って滑らかになった将軍の舌は、
巷間ひろく伝わっている、いわゆる三顧の礼から、
自身の武勲の燦たる長坂の戦いまで、
こまごまと物語って、酔いつぶれた。

酔いの勢いで、ややもすると要領を得ない話の中から
掬い上げた、事実らしき手がかりは、
どうやら、三顧といわず、臥龍の名を聞いた刹那から、
ご主君のほうが、熱をお上げになりっぱなしの御様子であり、
孔明も、取り澄ました貌をして、憎からず思うておるらしい。

傍目はといえば、慣れよりも、諦めに似た感覚で、
受け入れて眩しく見守ろうにも、未だに、
余りの親密さに時おり、目の遣り場に困っておるらしい。

わたしとは、大違いじゃな。
だが嫉妬ではないぞ。
驚いておるだけじゃ。

だいたい、屡屡ご主君と寝食まで共にするなど、鬱陶しいではないか。
独座して酒を喰らい、気儘に転寝したほうが妙計も出ようというものだ。

孔明、おぬしはそうは思わぬのか。飽きんのか。よくぞ素面でできるものじゃ。


と、ある日、出仕して廊を巡っておると、
孔明が、つくねんと立って庭を眺めておる後ろ姿を認め、
わたしは珍しいものを見たように、
自分の目しか信じないこのわたしが、思わず目を疑ってしもうた。

やはり時には解放されたかろう、
ちょっと揶揄ってやろうかと、歩み寄ろうとして、やめた。

忙しい足音と、帯飾りの玉が揺れる乾いた音が、
近づいて来たからだ。

ご主君だ。
侍従もお連れにならず、庭を隔てた向こうの廊に、お一人で現れた
ご主君は、孔明をご覧になると、一度、おみ足をお止めになり、
ぎゅっと口を引き結んで、はっとするほど男らしい顔立ちをなさったかと思うと、
意を決したように、まっすぐ孔明に大股に走り寄られ、

「孔明、儂が言い過ぎた。許せ」
白羽扇を繰る孔明の両手を、あの大きな掌でお掴みになると、
あろうことか、この歳若い臣に縋りつくように、
ためらいも見せずに、跪いておしまいになったのだ。

孔明も徐に膝を折り、
「いいえ我が君、孔明こそ悪うございました」
などと、時には遠慮会釈もなく、古参の側近たちへはいうに及ばず、
ご主君すらも圧倒するような厳しい声を発するはずの、
あの孔明が、悄然としおらしく、絶え入るように、申し上げておる。

額づかんばかりに礼を尽くしあって、たちまち和解するや、
ご主君は、あの長い御腕で、寛き御胸に孔明を擁して、其の頬に、
御自身の口髯をすり寄せなさらんばかりに、
目の中に入れても痛くないといった風情で、相好を崩しておいでだ。

まさか何らかの計略でもあるまいに、
この、酔いを覚えるような、こそばゆいほどの濃密さは、
どうしたことなのだ。

鳳の雛よと、世人が勝手に讃えるわたしだが、
このような一連の光景には、いささか当惑しておる。

もう、七十五日ほどは、経ったのだがな。

言っておくがな、二日酔いではないぞ。