泪落知多少 (なみだおつることしるたしょう)

2009/07/26

うをとみづ3世紀SS

(「夜来臥龍聲」のつづき)

「どうじゃ、さほど、違うてはおるまい」

長い両の腕で、あたかも雨風から庇うようにとらえたままに、
儂ぁ、紛れもなく凡庸な男じゃが、そちの其の貌の訳を、見棄て置けようか、と、
万事に敏いこの軍師は、皆まで聞き終えるまでもなく其の言葉以上の真情を悟り、くわえて本心の一端を現したところを不用意に目撃された間の悪さか、
珍しく押し黙った。

この黒き装束の中の白い貌が、重い口を開くまで、彼の巨きな耳朶は、不揃いな遠雷の轟きを、三つ聞き流した。

「たとえば・・・でございますが」

凡人の理解の域を超えた心象を、なるべく咀嚼して伝えようと試みる徒労など、この天才は、とうの昔に棄て去ったのかもしれない。

伝えたところで、無用な反感を買う結果を招くこと多くして益少なく、初めは傷つき、そして既に飽いたであろうことも、想像に難くない。

然れども、そのあるじたる彼は、いま此の世で最も重大な問題に直面したかの如き貌をして、はぐらかされる可能性など露ほども思わず、全身で其の問いの答えを、じっと待っている。

「わが君の御為と称しながら」
「うム」

つづく言葉を励ますように、千年の智慧が凝縮している額から、頑丈な骨格の顎を僅かに離して斜めに覗き込もうとすると、この君臣の間を俄かに風が吹きぬけてゆき、こう一、二歩の間に親しく寄らねば知り得ぬ、孔明が懐中する香嚢の薫りが束の間、強くたゆたった。

「・・・わが君のお蔑みになる穢き諜略すらも」

彼の聴覚は、その聲の言う内容を注意深く理解しようと努めながら、嗅覚は、其の懐中の、どこか春の野の花のような薫りを追い、孔明みずから好んで調合するのか、或いは諸葛家が愛好する、なかば習慣の家伝なのか、いつも聞きそびれていたことだと、全く無関係なことを、同時に不明瞭に思い浮かべる、
そんな彼の思考は、散漫ではあるが強ち的外れともいえない、一種の才能ともいえる。

「むしろ、嬉嬉として、この頭の中で、巡らせておるのでございます」
彼の掌中の珠玉が、このように、抉じ開けるように苦衷に満ちた不協和音じみた曇った聲で物語ることがあろうとは、不意の雷鳴よりも、彼には驚きだった。

草庵から招き出して以来、影を形に添わせるが如く、文字通り片時も傍から離さずに今日に至りながら、つねに違わぬ道理を説く翡翠の如き聲に聴き惚れて、愛玩するかのように馴れつつあった己の愚に、心の裡で彼は舌打ちした。

「孔明・・・孔明よ」
全軍の命運を賭している、すこし痩せて冷たく感じる双肩を、せめて巨きな掌で支え、
「そちは、そちの恐ろしさに、蓋をしておくこともできたというに、の」

あるじを見る軍師の双眸は、あるじが何を言わんとしているのか、既に察した色を刷いたが、彼は、言うてやらずにはいられなかった。

「蓋を開けて謀れ、と冀うたのは、儂じゃ」
今更どう慰めようとも、生涯を御しおおせることができるかどうかわからぬほどの狂気じみた天賦の才は、愈愈われ知らず鋭利に研ぎ澄まされるのみ。
この恐るべき兇器が、持ち主を害することが無いなど、言いきれようか。
そして、研磨せしめているのは、他ならぬ彼自身に疑いない。

だんまりと俯く軍師が、そう考えているのかどうか、真には定かではなく、或いは常軌を逸した思案を秘め匿しているのかも知れぬが、理解を超越した混沌さえも、得体の知れぬままこの掌に掴みたいと、細い双肩を確りと掴んだままの両の五指に力を添えて、重ねて言い訊かせるように
「穢いぐらいが何じゃ、よいではないか」
態と、目尻に笑い皺を多く寄せて見せてやろうと、覗き込んだ白い片頬にみつけた僅かな水滴は、雨雫だったのか、泪だったのか。

「この儂が、差し許すというておるのだ」
それを、分厚い拇指で潰さぬように、張力を使うように拭うてやってみた。

軍師が驚いた顔を見たのは、二度目だ。
否、軍師として召してからは、初めて見た。

彼は、そうして時おり、ありふれた言葉ひとつとおよそ君主に有り得べからざる振る舞いひとつで、目の前の者の心を、不意に裸に剥いてしまう。

何も解決してはおらぬ。
おらぬが、例えば、暴風雨が止まなかったことなど、未だ嘗て有りはしなかった事実を、叡明に過ぎる頭脳が思い起こす程には、この際、充分であった。

唐突に、彼は軍師を柔らかく手放しながら、普段の温和な聲音からは程遠い、咆えるような嚏に身を振動させ、
「茶でも喫まぬか」
すまんが儂は風邪をひきそうじゃ、と、右掌を行き先の階下の方向へ伸べ、
左腕は軍師の薄い背を暖めるように囲み、誰も否とはいえぬ優しげな破顔と
初めてまみえたあの時と全く変わらぬ低い物腰を見せて、いざなった。

鳳凰の血には、不老不死の効用があると俗諺を聞くが、龍の泪には、果たして何が宿っているのであろうか。

彼は、彼の知らぬところで、千歳に一度の僥倖と引き換えに、今宵に限らず龍が聲を忍んで如何ほど泪するのかを思い遣るほどに、寛き胸は人知れずきりきりと痛んだ。

その泪の所以の全てを知る由もなく、このうえ詳しく質すつもりもないが、いかなる霊験が約束されていようとも、龍の泪までは私すまいそして二度と龍を独りで泣かすまいと、この嵐の宵に彼は心に固く誓うた。