夜目にもおどろな雲行きは怪しく風雨の声は止むともみえぬが、明日の朝は嘘のように晴れるだろう、と夕方に彼の掌中の珠玉が翡翠の如く涼しく発した言葉を思い返せば、揺れる灯火にふと手を止めたことも忘れて畏れ多くも今上の叔父とも称されるこの人物は、書き物を続けた。
時さえ至らば雌雄を決する一戦をも辞さずと漢室復興の大義を謳いながらも流す血は一滴ですら少なくありたいと、領土すら持たないこの劣勢で嘯くこの傲慢を、彼の掌中の珠玉は何と感じているのだろうか。
その珠玉が、およそ多忙さを感じさせないほどに落ち着き払った整った文字で記した草稿を彼みずから親しく筆を執りて清書して一兵すらも動かさずして当座の大益を得る策に従順に従っている自分と、大それた傲慢を併せ持つ自分とが、彼は何となく可笑しかった。
「ちと、疲れたかの」
瑣末な文書とは異なり書き違えたからといって、文字を削るような不精はできず、一度書き損じた分を破棄して初めから全て書き直したためもあろうか、ようやく書き上げ閉じた双眸の目頭を分厚い指で圧しながら、あまりに専心して一人きりのつもりで独りごちたのを部屋の隅の侍従に聞かれ、書き損じを知っている侍従は其の声に顔を上げたものの何と答えたものかと困惑している。
「済まぬ、独り言なのだ、気にいたすな」
主たる彼のほうがその困惑顔を気遣って、部屋の隅へ歩み寄り、このような落ち着かぬ荒天の夕べの侍仕を労い、仕事が遅くなったことを詫びて、食事は済んだのか、今日はもう下がって茶でも一服せよ、等等、いったい上下の別という概念が彼の頭の中にあるのかどうか疑わしいような会話のあと、彼は公務に充てて居る広間を、ひとり後にした。
石敷きの廊も、風雨にひどく濡れている。
こんな夜は星も見えぬ。掌中の珠玉たる軍師は、まだ執務しているのだろうか。
先ほど認めた親書のなかの難読な一文字について冗談めかして文句を言うてやろうと、文句よりも、文句を言われたら、あれはどんな顔をして何と答えるだろう、と其れらのほうが楽しみで彼は暗闇の勝手知ったる廊を巡ってみた。
ちいさな中庭の、つよい雨脚に水面を乱す蓮池の向こうの、軍師が夜更かしをする房室の、遠目にもガラとして火の気もない沈黙に意表を衝かれて軽く落胆しながらも、彼の外見的特徴の最たる巨きな耳朶は
荒れ狂う風雨の中に、何かを知覚した。
ーーような気がした。
踵を返して迷うことなく脚が向かった先は日ごろ軍師をよく見かける北面の楼の上で、星すら見えぬ荒天の夜空に龍ならば何かが見えても不思議はないなどという屁理屈は後から浮かんだ理由で、この時は瞬時に襲われた名状し難い強固な確信によるのみだった。
やはり、見つけた。
そして、見てしまった。
楼にかかる途中の回廊に灯火も持たずに、今しも龍の正体を現して、雲の黒さも厭わずに乗らんとするかのように、然らずば、迎えの雲を拒絶し、まだ還らぬと高言するかのように、雨水を含んで重たげに黒みを増した衣の裾を嵐の為すがままにまかせ、千里の先を見極めるかのごとき眸をして微動だにせず佇んでいる、余の者であれば近づき難いほどの、軍師の姿を。
「お召しでございましたか」
孔明。
と呼ぶ前に、彼の龍は気づいて振り返り、淡く微笑んで見せたが
闇に浮かぶ白皙の貌は、常よりも陰翳を深く刻んでいるかのように
似つかわしくもなく不吉に見えた。
「そなたが、呼んだのだ」
ゆっくりと大股に近づくと、制止せんとか或いは縋ろうとか、徐に曖昧に挙げられた右掌に構わず龍の化身を両の腕に捕えていましがた心裡を過ぎった其の儘を囁きかけた。
「――言うてしまえ、『己こそが恐ろしい』と。」
時さえ至らば雌雄を決する一戦をも辞さずと漢室復興の大義を謳いながらも流す血は一滴ですら少なくありたいと、領土すら持たないこの劣勢で嘯くこの傲慢を、彼の掌中の珠玉は何と感じているのだろうか。
その珠玉が、およそ多忙さを感じさせないほどに落ち着き払った整った文字で記した草稿を彼みずから親しく筆を執りて清書して一兵すらも動かさずして当座の大益を得る策に従順に従っている自分と、大それた傲慢を併せ持つ自分とが、彼は何となく可笑しかった。
「ちと、疲れたかの」
瑣末な文書とは異なり書き違えたからといって、文字を削るような不精はできず、一度書き損じた分を破棄して初めから全て書き直したためもあろうか、ようやく書き上げ閉じた双眸の目頭を分厚い指で圧しながら、あまりに専心して一人きりのつもりで独りごちたのを部屋の隅の侍従に聞かれ、書き損じを知っている侍従は其の声に顔を上げたものの何と答えたものかと困惑している。
「済まぬ、独り言なのだ、気にいたすな」
主たる彼のほうがその困惑顔を気遣って、部屋の隅へ歩み寄り、このような落ち着かぬ荒天の夕べの侍仕を労い、仕事が遅くなったことを詫びて、食事は済んだのか、今日はもう下がって茶でも一服せよ、等等、いったい上下の別という概念が彼の頭の中にあるのかどうか疑わしいような会話のあと、彼は公務に充てて居る広間を、ひとり後にした。
石敷きの廊も、風雨にひどく濡れている。
こんな夜は星も見えぬ。掌中の珠玉たる軍師は、まだ執務しているのだろうか。
先ほど認めた親書のなかの難読な一文字について冗談めかして文句を言うてやろうと、文句よりも、文句を言われたら、あれはどんな顔をして何と答えるだろう、と其れらのほうが楽しみで彼は暗闇の勝手知ったる廊を巡ってみた。
ちいさな中庭の、つよい雨脚に水面を乱す蓮池の向こうの、軍師が夜更かしをする房室の、遠目にもガラとして火の気もない沈黙に意表を衝かれて軽く落胆しながらも、彼の外見的特徴の最たる巨きな耳朶は
荒れ狂う風雨の中に、何かを知覚した。
ーーような気がした。
踵を返して迷うことなく脚が向かった先は日ごろ軍師をよく見かける北面の楼の上で、星すら見えぬ荒天の夜空に龍ならば何かが見えても不思議はないなどという屁理屈は後から浮かんだ理由で、この時は瞬時に襲われた名状し難い強固な確信によるのみだった。
やはり、見つけた。
そして、見てしまった。
楼にかかる途中の回廊に灯火も持たずに、今しも龍の正体を現して、雲の黒さも厭わずに乗らんとするかのように、然らずば、迎えの雲を拒絶し、まだ還らぬと高言するかのように、雨水を含んで重たげに黒みを増した衣の裾を嵐の為すがままにまかせ、千里の先を見極めるかのごとき眸をして微動だにせず佇んでいる、余の者であれば近づき難いほどの、軍師の姿を。
「お召しでございましたか」
孔明。
と呼ぶ前に、彼の龍は気づいて振り返り、淡く微笑んで見せたが
闇に浮かぶ白皙の貌は、常よりも陰翳を深く刻んでいるかのように
似つかわしくもなく不吉に見えた。
「そなたが、呼んだのだ」
ゆっくりと大股に近づくと、制止せんとか或いは縋ろうとか、徐に曖昧に挙げられた右掌に構わず龍の化身を両の腕に捕えていましがた心裡を過ぎった其の儘を囁きかけた。
「――言うてしまえ、『己こそが恐ろしい』と。」
(「落雁の城」大炊さんのイラストにちなんで書いたおとぎばなしです)