臥龍一去今復翻 (がりょうひとたびさりていままたかえる)

2009/12/01

うをとみづ3世紀SS

俄かな巽の風は江の両岸を吹き荒れ、
世紀の一戦の大勢は決した。

いまだ、帝をお救い奉ることは叶わぬが、
叔父と敬われる彼は、生涯最大ともいえる危機を、
起死回生といえる勝ち戦で脱することを得た。

一帆、風のように舞い戻った、其の立役者の、
彼の掌中の珠玉たる龍は、疲れも見せずに、
翡翠のような聲を励し、追撃の下知を終えると、
あとは、どう転ぼうとも目論見の通りに事が落着する確信にか、
爛爛としていた双眸を緩めて、少し眠そうな表情をしていた。

股肱の将らを発して、帷幕の外に見送り、
士気のためだけに鎧うている甲冑の継ぎ目を鳴らして、
座のそば戻りながら、彼はすっかり人払いをしてしまうと、
「近う寄れ」
見返りながら、大きな右の掌をあげて、この龍を手招きした。

(我が君には、雲長の処遇について、なおご懸念が?)
主君の眉根に、依然として皺が寄っているのを
見逃さず、彼の龍は、白羽扇をゆっくりと繰りながら、
幔幕の隙間から忍び込む、生暖かい巽風に
黒い衣の裾を遊ばせて、足音も忍びやかに、近づいてくる。

其の品のよい足の運びを、内心もどかしく思いながら、
彼も歩み寄り、徐に、長大な腕を左右に拡げてみせると、
「二度と、ひとりで使いなど、するでないぞ」
そう言うが早いか、
懐深くしまいこむように、腕の中に攫って、
龍の聲をよく聴こうと、巨きな耳を、秀麗な額のすぐ傍に欹てた。

(これは、気づいておらんのか)
愈愈に深まる眉間の皺の理由は、
我が龍のことに他ならぬ。
龍の思考することは、人智を超えており、わからない。
然るに、龍の、人語にならない啼き聲を、聞き違えたことはない。

先ごろ、江のほとりで束の間の再会を得たおりに、
この、ほっそりと人の形をした中に、
衰弱しきった龍をありありと感じて、
彼は背筋が凍る思いだった。
おそらくあの日、其の身の衰弱を、龍は知らなかった。

白羽扇の一振りで、味方への慈雨を無尽蔵なほどに降らせておきながら、
わが身ひとつの、罅割れるほどの渇えを、
露ほども癒そうともしない。
無頓着なのだ。
王たらんとする者は、この献身を喜ぶべきかもしれぬが、
彼には、これが不憫でならなかった。

「よいな、二度と罷りならんぞ。儂の、身が持たん」
彼は、その王者の腕の、凄まじいまでの威力を、
全く無自覚なのだが、その身から発する眼に見えない何かが、
いうなれば龍の糧であるらしきことを、いまや勘で、察知している。

腕を、肘を、肩を項を、確かめるように押さえながら、
薄い背を撫でさする彼の所作は、
並外れた大きな掌のためか、
端下のなさを微塵も与えず、
心配の余りの労わりと慈しみに満ちて、
もうよかろう、さあ、降りて来るのだ、
心ゆくまで餌を食むがよい と、
先刻、この姿を見てから、叶えてやりたくて疼くようだった、
これらのことを、只管に念じて、彼は、ただ待っていた。

婉曲に「儂が」と言うて聞かせたが、
自惚れではなく、これでは互いに、身が持つまい。
もう二度と、これをどこへも遣ってはならぬ。
彼が護ってやらねば、この龍は夭折すらしかねない。

こう案じていると、隙間風に煽られて、いままで仄かであった、
龍が肌身から離さずに帯びている香嚢が、
懐のあたりから揺らぐように薫り立つのを覚え、
あの江水のほとりで別れを惜しんだ際は、
このたゆたいを聞く余裕すらなかった倉皇とした心持ちを較べあわせ、
既に、徒に気を揉む必要がない証に、
いまさら気付いて、眉の曇りを解くと、
朝夕に、風向きを見るために高所に登っては、
密やかに、繰り返しひとりごちていた言葉を、
安堵の溜息とともに、迂闊にも、微かに、彼は思わず口走ってしまった。

「……儂の、孔明」

途端に、耐え切れずに、龍が、細長く息を吐いて、
おずおずと、彼の両腕に蕩けてくるのを感じる。
足許の辺りに、軽く短い物音がした。
龍が、其の手から、愛用の品を落としたのであろう。

背後で、焦れるほどに躊躇っていた形のよい手が、
外套ごしに、救いを求めるように縋る感触を覚え、
鎧の厚みが、もどかしい。
幾重にもおろしていたのであろう、心の閂が
けたたましい金属音を立てて外れていくのが、
聞こえるようだった。

龍は懐で僅かに震え、我が君、と一声啼いて、
終に掌中に戻った。

つい先ほど、誇り高い次弟を手玉に取るが如く、
高慢とも思える態度であしらう様を見せたのは、
幻であったかと思うほどに、消え入るような聲で、
「……どうか、お許しを」
ひとりで使いしたことを詫びるのか、
其れ以上いうてくれるなという懇願なのか、
あるいは、好餌から離れ得ない餓えを羞じらうのか、
そこまでは解しかねたが、
それを聞くと、彼は、愉快げに喉奥で笑い、
態と、童をあやすように、柔らかに其の身を揺すって、
好し、好し と、皆まで言わせなかった。

いま、江の北岸は、この龍の仕業で、
戦火が天を焦がしているのだ。
その焦熱を知らぬ振りをして、底なしに深い仁愛の海に溺れることを、
彼の龍は、恐れたのだろうか。腕の中で、微かに身動ぎを見せた。

「これ、いま余所事を考えたであろう。許さんぞ」
いとも不満げに、しかしまるで菓子を与えるように、
わざと甘く咎めると、不意に、龍の耳朶を片手で抓って、
相見なかった日々を埋め合わせるかの如くに、
龍を捕らえて離さず、彼はしばし飽き足りることがなかった。

誰も知らない、危うい色を湛える千尋の淵のすぐそばに臨んで、
寄り添うように立ち竦んでいる事実を、彼ら二人は、まだ知らない。