起居に充てている船に戻ると、
今上の叔父が掌中の珠玉としている一条の龍は、
朝もやの中、ゆっくりと愛用の名墨を磨っていた。
住み慣れて親しくなった、おそろしく南方訛りの、
江水の漁翁との、毎朝の世間話で、
近いうちに巽の風が吹くことは疑う余地もない。
その風は、勝機を生む追い風でもあるが、
主君の許へ戻るための瑞風でもあるのだ。
(悩める大都督への処方箋、さて何と書いてやろうか)
筆を選びながら、鼻先で嘲っている。
今上の叔父たる、あの主君と相見ぬこと久しく、
その歪みが、いま必要とされている薬にみせかけた毒に、
より多くの毒気を盛らしめようとする一種の嗜虐が
芽生えかけているのを、この龍は気づいていない。
欲破曹公
宜用火攻
萬事倶備
ここまで書いて、あの聲で
「これ、孔明、そなたらしくもない」
と、窘められた気がして、はたと手を止めた。
備
この龍を掌中の珠玉のように蔵する主君の名である。
ただ僅か十六文字しるそうとするだけの、
そのなかの一文字に、この文字を選ぼうとは。
先年の雪の日に、彼は、草深い草庵をまたしても訪ねてきた。
空模様を見て、その日の降雪を、この龍は知っており、
そして、下心があるにせよ、ないにせよ、
この雪を瑞兆とみて、雪を冒して彼がやってくることも、わかっていた。
雪が小降りのうちに、厚着をして、笠と蓑を深くかぶり、
美酒を少しと灯火を持って、出かけてしまった。
安穏な暮らしを妨げられるのが怖かったのか、
彼に会ったら最後、二度と後戻りできないことを恐れたのか、
あの雪の日の外出の動機は、まだ良くわからない。
試みるつもりははかった。
ただ、まだ、会えない気がした。
雪の朝に帰ってみると、三弟が、温かい朝餉を拵える湯気の中で、
「書斎に、お客人のお手紙がありますよ」
と、鶏が卵を産んだ程度の軽い口調で言ったのを思い出す。
いつの頃からか、隆中のあの家の次兄は、
人物ではあるが気難しい変わり者、と噂されて、
手紙を寄せる者など稀になった。
あの頃、書物以外に目にする文字といえば、
この江東に仕える長兄か、水鏡老師、いま曹軍に居らざるを得ぬ兄弟子、
思い出したように頓狂な謎々めいた詩を書き送ってくる鳳の雛など、
限られた人物の手ばかりであった。
読む気はなかった。
彼がどんな文字を書くのか、眺めてみようと思っただけだった。
書簡の主は、もう四十路と聞いていたが、
あまり達者とはいえない手で、しかし、
はっきりと肉太で大きめな文字に、
ここへ来るまでに、話すべきことを、繰り返し考えていたのであろうか、
急に書いた手紙にしては、意外に誤字もなく、
再訪の意思と熱意を固く示す、簡潔といえる内容であった。
手紙のなかに、繰り返し、
「備」
の文字が目立った。
謙譲を示すためか。画数が少なくはないこの文字を、
どれも他の文字と比較して、小さめに著したぶん、
漢室と同姓を名乗る末尾の署名は、堂々としていた。
彼は、どんな聲でこの名を名乗るのか、
ふと、聞いてみたいような、持ち前の好奇心が、頭を擡げた。
読むつもりのなかったはずの手紙で。
だのに、龍は城へ行かずに、待ってみた。
何度も雪が降り、やがて梅が咲いた。
果たして、桃の花が開く頃、彼は三たび、やってきた。
いまは、この何ということもない内容の、
しかし一つも嘘のない書簡を、
そっくり暗誦してしまっている。
呉侯も一代の英傑にして、能く国を保つ才に長け、
その信を得る群臣は、長兄をはじめ幾たりもおるが、
いま江水をへだてて、この龍の帰りを待ちわびている
あの、ゆくゆくは王たる彼ほど、
昼は春日のように、夜は望月のように、臣に
仕える喜びを惜しみなく与える王器を、ほかに知らない。
否、すでに、彼を知ってしまった。
とおくに鶏鳴を聞き、我に返って、
墨が乾ききった、書きかけの文字を見直すと、
”一刻も早く、其の主君の懐へ帰りたい”
偽らざる本心が、まざまざと踊っていた。
(危ないことだ)
龍は、油断を悟ると、其れを、暖をとっていた火に投じてしまい、
もう一度書き直すことにした。
ほんの僅かに、主君の、あの優しげな筆跡をまねて、
今度こそ、巧妙に本心を隠してしまった。
児戯にも等しいながらも、この謀の仕上げの狂言を舞って、
主君と約した船に、たしかに乗りおおせてしまうまでは
己すらも、むしろ己をこそ欺かなければならない。
書き上げた処方箋のなかの十二文字目に、
人の姿をしたこの龍は、黒々とした眸を凝らして、
緩みかけた、心の中の閂をかけなおす前に、
あの日、江水のほとりで、束の間まみえた主君の俤を、
朧に思い出すことを、しばし許した。
今上の叔父が掌中の珠玉としている一条の龍は、
朝もやの中、ゆっくりと愛用の名墨を磨っていた。
住み慣れて親しくなった、おそろしく南方訛りの、
江水の漁翁との、毎朝の世間話で、
近いうちに巽の風が吹くことは疑う余地もない。
その風は、勝機を生む追い風でもあるが、
主君の許へ戻るための瑞風でもあるのだ。
(悩める大都督への処方箋、さて何と書いてやろうか)
筆を選びながら、鼻先で嘲っている。
今上の叔父たる、あの主君と相見ぬこと久しく、
その歪みが、いま必要とされている薬にみせかけた毒に、
より多くの毒気を盛らしめようとする一種の嗜虐が
芽生えかけているのを、この龍は気づいていない。
欲破曹公
宜用火攻
萬事倶備
ここまで書いて、あの聲で
「これ、孔明、そなたらしくもない」
と、窘められた気がして、はたと手を止めた。
備
この龍を掌中の珠玉のように蔵する主君の名である。
ただ僅か十六文字しるそうとするだけの、
そのなかの一文字に、この文字を選ぼうとは。
先年の雪の日に、彼は、草深い草庵をまたしても訪ねてきた。
空模様を見て、その日の降雪を、この龍は知っており、
そして、下心があるにせよ、ないにせよ、
この雪を瑞兆とみて、雪を冒して彼がやってくることも、わかっていた。
雪が小降りのうちに、厚着をして、笠と蓑を深くかぶり、
美酒を少しと灯火を持って、出かけてしまった。
安穏な暮らしを妨げられるのが怖かったのか、
彼に会ったら最後、二度と後戻りできないことを恐れたのか、
あの雪の日の外出の動機は、まだ良くわからない。
試みるつもりははかった。
ただ、まだ、会えない気がした。
雪の朝に帰ってみると、三弟が、温かい朝餉を拵える湯気の中で、
「書斎に、お客人のお手紙がありますよ」
と、鶏が卵を産んだ程度の軽い口調で言ったのを思い出す。
いつの頃からか、隆中のあの家の次兄は、
人物ではあるが気難しい変わり者、と噂されて、
手紙を寄せる者など稀になった。
あの頃、書物以外に目にする文字といえば、
この江東に仕える長兄か、水鏡老師、いま曹軍に居らざるを得ぬ兄弟子、
思い出したように頓狂な謎々めいた詩を書き送ってくる鳳の雛など、
限られた人物の手ばかりであった。
読む気はなかった。
彼がどんな文字を書くのか、眺めてみようと思っただけだった。
書簡の主は、もう四十路と聞いていたが、
あまり達者とはいえない手で、しかし、
はっきりと肉太で大きめな文字に、
ここへ来るまでに、話すべきことを、繰り返し考えていたのであろうか、
急に書いた手紙にしては、意外に誤字もなく、
再訪の意思と熱意を固く示す、簡潔といえる内容であった。
手紙のなかに、繰り返し、
「備」
の文字が目立った。
謙譲を示すためか。画数が少なくはないこの文字を、
どれも他の文字と比較して、小さめに著したぶん、
漢室と同姓を名乗る末尾の署名は、堂々としていた。
彼は、どんな聲でこの名を名乗るのか、
ふと、聞いてみたいような、持ち前の好奇心が、頭を擡げた。
読むつもりのなかったはずの手紙で。
だのに、龍は城へ行かずに、待ってみた。
何度も雪が降り、やがて梅が咲いた。
果たして、桃の花が開く頃、彼は三たび、やってきた。
いまは、この何ということもない内容の、
しかし一つも嘘のない書簡を、
そっくり暗誦してしまっている。
呉侯も一代の英傑にして、能く国を保つ才に長け、
その信を得る群臣は、長兄をはじめ幾たりもおるが、
いま江水をへだてて、この龍の帰りを待ちわびている
あの、ゆくゆくは王たる彼ほど、
昼は春日のように、夜は望月のように、臣に
仕える喜びを惜しみなく与える王器を、ほかに知らない。
否、すでに、彼を知ってしまった。
とおくに鶏鳴を聞き、我に返って、
墨が乾ききった、書きかけの文字を見直すと、
”一刻も早く、其の主君の懐へ帰りたい”
偽らざる本心が、まざまざと踊っていた。
(危ないことだ)
龍は、油断を悟ると、其れを、暖をとっていた火に投じてしまい、
もう一度書き直すことにした。
ほんの僅かに、主君の、あの優しげな筆跡をまねて、
今度こそ、巧妙に本心を隠してしまった。
児戯にも等しいながらも、この謀の仕上げの狂言を舞って、
主君と約した船に、たしかに乗りおおせてしまうまでは
己すらも、むしろ己をこそ欺かなければならない。
書き上げた処方箋のなかの十二文字目に、
人の姿をしたこの龍は、黒々とした眸を凝らして、
緩みかけた、心の中の閂をかけなおす前に、
あの日、江水のほとりで、束の間まみえた主君の俤を、
朧に思い出すことを、しばし許した。