今上の叔父として既に有名な彼は、領内の視察を好んで行う。
馬車は使うが、いつも途中で待たせて、街町へは徒歩でぶらりと入っていってしまう。
冠は正しているが、美服せず、地味な色の、粗い布の服をまといながら、
其の特徴的な巨きな耳を隠しもしない姿を、童らが真っ先に見つけて、
「あっ、皇叔じゃないのかな」
と、噂どおりの大耳に満足した好奇と尊敬の声が其処かしこで賑やかに挙がって、視察がはじまるというのが、お定まりである。
影のようにぴったりと、半歩うしろをくっついている黒黒とした装束の若い文官こそが、その皇叔が、掌中の珠玉としているあの軍師だとは、
誰も気がつかない。
もっと、年嵩に思われているためであろうか。
この日も、龍を従えて、和やかに視察を終え、馬車へ戻りながら
などと、言葉も飾らずに夕暮れを歩きながら、簡素ないでたちには少し不似合いな馬車に乗り込み、後から陪乗する龍へ、長い手を伸べた。
倣いとしては、車の外の侍者が、踏み台とともに手も貸してくれるのだが、
”これだけ長い腕を天が賜うたのを、使わずに何とする”
と、彼は、龍に限らず、陪乗者へは、必ず手を伸べる。
この型破りに、はじめは誰もが戸惑うのだが、其の手をとったが最後、彼の風に、皆たちまち馴染んでしまう。
天は、長い腕だけでなく、その腕の中にも、疑いなく何かを授けたに相違ない。
伸べられた手の表面だけそっと借りるようなよそよそしさで、隣に収まった龍を不審に思い、彼は、不意に、龍の額を、大きな掌で覆った。
「ぁ」
小さな聲が、龍の唇からこぼれて、それは、彼には
”お気づきになってしまいましたか”
に聞こえた。
「手が、いつになく熱いと思うたら」
諦めたような、抑えた口調で咎めると、
「……申し訳ございません」
隠しおおせなかったことを詫びるのか、龍は、目を伏せて、低頭しようとした。
それを、背から回した腕で制すると、
「馬鹿者。いつから我慢しておった」
叱りながらも、声音には心配の念を多く混ぜて、隠し立てされた心外に、軽く不満を鳴らしてから、
「儂の前で、取り繕うたり、するでないと、いうておろうが」
涼しい貌に、まんまと騙されて、龍の発熱を気付いてやれなかった
己への苛立ちを、苦く噛みながら繰り返す。
彼は、真の意味で、誰かに仕えたことがない。
臣が己が身の不調を、主に訴えるなど、あるまじきことだという道理を、
習慣として持ち合わせていない。
さすがに、頭の中では分別しているつもりなので、彼の言い分としては、
”いうておろうが”
ということになるらしい。
どこぞ痛むところはないか、気分は悪くないか 揺れがこたえぬか と、天運と仁徳と、そして強靭な肉体だけが取り得の彼は、遠い最近に引いた風邪の症状を思い出して、龍の苦痛を少しでも和らげる手がかりを得ようと、さまざま問いかけてから、
「いまは、こうしておれ」
と、詮無い舌打ちを呑みこむと、この上あえて不興を買うまいと、従順にしている龍を抱き寄せ、左肩に凭れ掛からせてから、昼間、使わなかった外套を、上から着せ掛けて、あれこれ思案した。
(そうじゃ、往路に、休息をとった寺廟があったのぅ)
彼はそう思いつくと、車内の壁を叩き、騎馬の者に牌を与えて、寺の和尚へ、再び立ち寄りたい旨の先触れを命じた。
弱弱しく、龍が異議を唱えるのを封じて、
「遅い。もう言うてしもうたわ」
綸言汗の如しと言うではないかと、龍を腕にしたまま、けろりと言ってやった。
朽ちの目立つ門前に、篝火だけはあかあかと、和尚はみずから門まで出て待っていた。
不意ではあったが、皇叔がふたたび立ち寄るとは、少しくたびれかけた寺に箔がつくのはもちろん、何より、彼の王風に、たちまち男惚れしてしまっている和尚であったので、歓迎はいうまでもない。
使者から、
「皇叔にわかなご不調のため」との口上を得て、寝台の用意ほか、こまごま整えさせて待っていた和尚であったが、車を降りた当の皇叔は、午まえに会ったままの、質実剛健ながら堂々たる姿をしていた。
違っていたのは、その腕に、若い文官の形をした、一条の黒黒とした龍を、横たえている、其の一点だけであった。
和尚は、何事かと驚いたが、王者の腕の力の前に、龍は緊張をほどかざるを得ず、まるで麻酔にでもかかったように、車内でいつの間にか、
熱の朦朧を許してしまっただけのことである。
和尚に、夜間の急訪の非礼を詫びて、口上と実際の相違については、
「我が頼みの軍師が不調と聞けば、付け込む輩も少なからぬゆえ・・・」
と濁して、略礼をつくしてから、供の者の半分と、空の馬車は、明後日にでも迎えに来るように言い含めて、城へ返してしまった。
留守のものの心配も、寺側の給仕の心配も、とりあえず半分にするためでもある。
両将軍へは何と、と、特に伝言を請う騎馬隊長の脳裏には、あの二人の髯面が浮かんだのであろう。
彼は彼で、
「儂が、食い過ぎて腹痛とでも言うておけ」
と、
普段は努めて自制しているつもりの、龍への過剰な庇護欲を、むらむらと掻き立てられるのを覚えながら苦笑して、磊落に下知しおえると、彼は和尚の案内を先に、龍を抱きかかえたまま、足早に寺の中へ消えた。
小さな客舎は古びて、床が軋みがちではあったが、寝台は白い布で整えられ、抹香じみているものの、清浄ではあった。
彼は、小坊主の助けを借りて、龍をそっと褥に横たえると、促されて衣を寛げにかかる。
私室で、彼の大きな衣に埋めて傍に臥せしめている日ごろと違い、手頸の青い脈も露に、息が苦しげに乱れるのが不憫で、帯の戒めを緩めてやろうとしているだけであるのに、なぜか、衣を剥ぐような後ろめたさに度度おそわれて、彼の手は屡屡ためらいを見せ、途中から、小坊主に急き突かれるような格好になってしまっていた。
ようやく龍を寝かしつけると、彼もほっとして、小坊主にあとを託し、
あらためて本殿の和尚へ、礼を述べに足を運んだ。
「思いがけぬ事とはいえ、再びの光臨、ありがたき幸せ」
先ほど、門前では互いに充分には尽くせなかった礼をかわし、彼は不意に滞在することになった人数、滞在は二三日であろうこと、そして、滞在中の糧秣は、後日、城から返還するであろうことを先に述べ、その後、勧められた膳に箸をつけながら、和尚に請われるまま、半刻ほど、世間話に興じた。
気を揉みながら、そっと客舎へもどってみると、彼の龍の臥する傍に、
小坊主が跪いて、あの形のよい手を、握り締めていた。
馬車は使うが、いつも途中で待たせて、街町へは徒歩でぶらりと入っていってしまう。
冠は正しているが、美服せず、地味な色の、粗い布の服をまといながら、
其の特徴的な巨きな耳を隠しもしない姿を、童らが真っ先に見つけて、
「あっ、皇叔じゃないのかな」
と、噂どおりの大耳に満足した好奇と尊敬の声が其処かしこで賑やかに挙がって、視察がはじまるというのが、お定まりである。
影のようにぴったりと、半歩うしろをくっついている黒黒とした装束の若い文官こそが、その皇叔が、掌中の珠玉としているあの軍師だとは、
誰も気がつかない。
もっと、年嵩に思われているためであろうか。
この日も、龍を従えて、和やかに視察を終え、馬車へ戻りながら
――儂が草鞋を売っていたのは悪口ではない。事実じゃ。はなはだ貧窮であった。あの頃のことも、ゆめ忘れてはならん
などと、言葉も飾らずに夕暮れを歩きながら、簡素ないでたちには少し不似合いな馬車に乗り込み、後から陪乗する龍へ、長い手を伸べた。
倣いとしては、車の外の侍者が、踏み台とともに手も貸してくれるのだが、
”これだけ長い腕を天が賜うたのを、使わずに何とする”
と、彼は、龍に限らず、陪乗者へは、必ず手を伸べる。
この型破りに、はじめは誰もが戸惑うのだが、其の手をとったが最後、彼の風に、皆たちまち馴染んでしまう。
天は、長い腕だけでなく、その腕の中にも、疑いなく何かを授けたに相違ない。
伸べられた手の表面だけそっと借りるようなよそよそしさで、隣に収まった龍を不審に思い、彼は、不意に、龍の額を、大きな掌で覆った。
「ぁ」
小さな聲が、龍の唇からこぼれて、それは、彼には
”お気づきになってしまいましたか”
に聞こえた。
「手が、いつになく熱いと思うたら」
諦めたような、抑えた口調で咎めると、
「……申し訳ございません」
隠しおおせなかったことを詫びるのか、龍は、目を伏せて、低頭しようとした。
それを、背から回した腕で制すると、
「馬鹿者。いつから我慢しておった」
叱りながらも、声音には心配の念を多く混ぜて、隠し立てされた心外に、軽く不満を鳴らしてから、
「儂の前で、取り繕うたり、するでないと、いうておろうが」
涼しい貌に、まんまと騙されて、龍の発熱を気付いてやれなかった
己への苛立ちを、苦く噛みながら繰り返す。
彼は、真の意味で、誰かに仕えたことがない。
臣が己が身の不調を、主に訴えるなど、あるまじきことだという道理を、
習慣として持ち合わせていない。
さすがに、頭の中では分別しているつもりなので、彼の言い分としては、
”いうておろうが”
ということになるらしい。
どこぞ痛むところはないか、気分は悪くないか 揺れがこたえぬか と、天運と仁徳と、そして強靭な肉体だけが取り得の彼は、遠い最近に引いた風邪の症状を思い出して、龍の苦痛を少しでも和らげる手がかりを得ようと、さまざま問いかけてから、
「いまは、こうしておれ」
と、詮無い舌打ちを呑みこむと、この上あえて不興を買うまいと、従順にしている龍を抱き寄せ、左肩に凭れ掛からせてから、昼間、使わなかった外套を、上から着せ掛けて、あれこれ思案した。
(そうじゃ、往路に、休息をとった寺廟があったのぅ)
彼はそう思いつくと、車内の壁を叩き、騎馬の者に牌を与えて、寺の和尚へ、再び立ち寄りたい旨の先触れを命じた。
弱弱しく、龍が異議を唱えるのを封じて、
「遅い。もう言うてしもうたわ」
綸言汗の如しと言うではないかと、龍を腕にしたまま、けろりと言ってやった。
朽ちの目立つ門前に、篝火だけはあかあかと、和尚はみずから門まで出て待っていた。
不意ではあったが、皇叔がふたたび立ち寄るとは、少しくたびれかけた寺に箔がつくのはもちろん、何より、彼の王風に、たちまち男惚れしてしまっている和尚であったので、歓迎はいうまでもない。
使者から、
「皇叔にわかなご不調のため」との口上を得て、寝台の用意ほか、こまごま整えさせて待っていた和尚であったが、車を降りた当の皇叔は、午まえに会ったままの、質実剛健ながら堂々たる姿をしていた。
違っていたのは、その腕に、若い文官の形をした、一条の黒黒とした龍を、横たえている、其の一点だけであった。
和尚は、何事かと驚いたが、王者の腕の力の前に、龍は緊張をほどかざるを得ず、まるで麻酔にでもかかったように、車内でいつの間にか、
熱の朦朧を許してしまっただけのことである。
和尚に、夜間の急訪の非礼を詫びて、口上と実際の相違については、
「我が頼みの軍師が不調と聞けば、付け込む輩も少なからぬゆえ・・・」
と濁して、略礼をつくしてから、供の者の半分と、空の馬車は、明後日にでも迎えに来るように言い含めて、城へ返してしまった。
留守のものの心配も、寺側の給仕の心配も、とりあえず半分にするためでもある。
両将軍へは何と、と、特に伝言を請う騎馬隊長の脳裏には、あの二人の髯面が浮かんだのであろう。
彼は彼で、
「儂が、食い過ぎて腹痛とでも言うておけ」
と、
普段は努めて自制しているつもりの、龍への過剰な庇護欲を、むらむらと掻き立てられるのを覚えながら苦笑して、磊落に下知しおえると、彼は和尚の案内を先に、龍を抱きかかえたまま、足早に寺の中へ消えた。
小さな客舎は古びて、床が軋みがちではあったが、寝台は白い布で整えられ、抹香じみているものの、清浄ではあった。
彼は、小坊主の助けを借りて、龍をそっと褥に横たえると、促されて衣を寛げにかかる。
私室で、彼の大きな衣に埋めて傍に臥せしめている日ごろと違い、手頸の青い脈も露に、息が苦しげに乱れるのが不憫で、帯の戒めを緩めてやろうとしているだけであるのに、なぜか、衣を剥ぐような後ろめたさに度度おそわれて、彼の手は屡屡ためらいを見せ、途中から、小坊主に急き突かれるような格好になってしまっていた。
ようやく龍を寝かしつけると、彼もほっとして、小坊主にあとを託し、
あらためて本殿の和尚へ、礼を述べに足を運んだ。
「思いがけぬ事とはいえ、再びの光臨、ありがたき幸せ」
先ほど、門前では互いに充分には尽くせなかった礼をかわし、彼は不意に滞在することになった人数、滞在は二三日であろうこと、そして、滞在中の糧秣は、後日、城から返還するであろうことを先に述べ、その後、勧められた膳に箸をつけながら、和尚に請われるまま、半刻ほど、世間話に興じた。
気を揉みながら、そっと客舎へもどってみると、彼の龍の臥する傍に、
小坊主が跪いて、あの形のよい手を、握り締めていた。
否、龍が、小坊主の手を握っているとも見える按配である。
ちくりと、彼の寛き胸に、名もしらぬ痛みが走ったが、
”お側の小坊主は、看病の上手” と聞き知ったことを思い出して、
然あらぬ風に、
「脈を診ておるのか」
背後から穏やかに聲をかけると、身を寝台に向けたまま、小坊主は顔だけ振り返って、
「あの、お伺いいたしますが、皇叔さまは、お供に、”げん、とく、こう” という方を、お連れですか」
真剣な面持ちで、あらたまったような調子で尋ねられた。
「おるぞ」
皇叔の呼称と、同一人物の名が結びついていない、この小坊主の珍妙な言に、世俗との断絶を感じて場所柄に似つかわしい乖離を好ましく思っていると、
「そのかたを、お召しいただけませんでしょうか」
聞いた刹那、なぜか胸が、どきりと高鳴って、内心、彼はうろたえてしまった。
説明が足りないと思ったか、小坊主はさらに続けた。
「先ほどまで、ご主君をお呼びで、どなたのことかとお聞きしますと、
”げんとくこう”と言って、お放しになりません」
げんとくこう よりも、皇叔の方が偉いと思い込んでいる、しかし、ではなぜ其の皇叔と直に話をしているのか、全く思い及んでいない、つるりとした小さな頭をひと撫ですると、
「好し好し、儂が、其の、玄徳じゃ」
おっとりと、柔らかに笑んで、寝台に腰をおろしながら、そっと龍の手を奪い返すと、慣れた様子で握り締めて見せた。
其の手の温みと大きさを、横たわる者の指先が、力なく確かめたあとに、委ねるようにほぐれたのを認めて、皇叔こそが、求める人であった驚きよりも、其の人がすぐに見つかった安堵の色を浮かべて、小坊主は、水や布を替えに、機敏に部屋をあとにした。
遠ざかる、ぱたぱたとした軽い足音を追いつつ、
「これ。孔明」
仕えてからこのかた、その唇で我が字を呼ぶ気配など、一向に見せぬではないか。
この儂を差し置いて、一見の小僧には、易々と聞かせてしまうとは、どういうことじゃ。
けしからんぞ、と、胸のうちで詰問してから、
二人きりされたのを良いことに、白い額に、骨の厚い額を重ねて、
熱の具合を確かめながら、
”お側の小坊主は、看病の上手” と聞き知ったことを思い出して、
然あらぬ風に、
「脈を診ておるのか」
背後から穏やかに聲をかけると、身を寝台に向けたまま、小坊主は顔だけ振り返って、
「あの、お伺いいたしますが、皇叔さまは、お供に、”げん、とく、こう” という方を、お連れですか」
真剣な面持ちで、あらたまったような調子で尋ねられた。
「おるぞ」
皇叔の呼称と、同一人物の名が結びついていない、この小坊主の珍妙な言に、世俗との断絶を感じて場所柄に似つかわしい乖離を好ましく思っていると、
「そのかたを、お召しいただけませんでしょうか」
聞いた刹那、なぜか胸が、どきりと高鳴って、内心、彼はうろたえてしまった。
説明が足りないと思ったか、小坊主はさらに続けた。
「先ほどまで、ご主君をお呼びで、どなたのことかとお聞きしますと、
”げんとくこう”と言って、お放しになりません」
げんとくこう よりも、皇叔の方が偉いと思い込んでいる、しかし、ではなぜ其の皇叔と直に話をしているのか、全く思い及んでいない、つるりとした小さな頭をひと撫ですると、
「好し好し、儂が、其の、玄徳じゃ」
おっとりと、柔らかに笑んで、寝台に腰をおろしながら、そっと龍の手を奪い返すと、慣れた様子で握り締めて見せた。
其の手の温みと大きさを、横たわる者の指先が、力なく確かめたあとに、委ねるようにほぐれたのを認めて、皇叔こそが、求める人であった驚きよりも、其の人がすぐに見つかった安堵の色を浮かべて、小坊主は、水や布を替えに、機敏に部屋をあとにした。
遠ざかる、ぱたぱたとした軽い足音を追いつつ、
「これ。孔明」
仕えてからこのかた、その唇で我が字を呼ぶ気配など、一向に見せぬではないか。
この儂を差し置いて、一見の小僧には、易々と聞かせてしまうとは、どういうことじゃ。
けしからんぞ、と、胸のうちで詰問してから、
二人きりされたのを良いことに、白い額に、骨の厚い額を重ねて、
熱の具合を確かめながら、
「この隙に、いま一度、呼んでみよ」
彼は、未練がましく、そう囁きかけて、巨な耳を欹ててみた。