閨中君王想臥龍 (けいちゅうのくんしゅがりょうをおもう)

2010/01/15

うをとみづ3世紀SS

「政略上・・・必要と思うから・・・言うのだがな」

今上の叔父にして、今は江東とも縁戚となった彼に
散歩に誘われた途中の、朝靄のかかる小亭で、
珍しく言い淀む様を、龍は小首をかしげて覗きこんだ。

「あれには・・・手を、つけていないのだよ」
ぇっ
と、小さく驚く聲が、白い羽の扇の向こうから、
微かに聞こえた。

「奥の、ことだよ」
彼の、正夫人の話である。
「かなり甘やかされて我儘で、仔猫のようにかわいいことだがな、
男子でももうけたら、面倒であろう。 じゃじゃ馬な妹ができたとでも、思うことにした」

思いがけない話の内容に、少しうろたえたように淡く色づいた龍の表情に、
(孔明は、閨房の話の類は苦手であったな。)
まったく、妻帯しているくせに、分からぬ奴。と、
心の中で思ってから、軽く噴きだしてみせると
「ああ、この先、『政略上』頼れる要点として覚つかぬか。 そうじゃな、儂はそれほど好色なつもりもないが、 いつ踏み外すか分かったものではないな」

彼は、眉尻を下げて、困ったように笑い聲をたてる。

「しかし、それはそれで」
言いかける龍の、扇を持つ手を衣の上から軽く叩いて
「『ついてきた侍女どもには見破られておろう、  江東に告げ口されたら巧くない・・・』か? げにも。女は怖い」
悪戯げに、少し肩をすくめてから、
「そなただから言うがな。
初夜に、どう誤魔化してやったらよいかと頭を捻ったが、物語っているうちに、天の救いじゃ。 あれは、父御が好きでたまらぬのだ。
夜は、黄巾の頃の、昔話ばかりだよ。 江東の虎の話を、飽きもせず聞きたがる。
父御のことを問われるままに話してやっているうちに、あれは眠ってしまう。
寝言は決まっておる。『父上』じゃよ。『父上』」

初夜に、と聞いて、龍が、とうとう耳まで真っ赤にして、
ぱたぱたと、忙しく白い羽扇を煽ぐ様子を、
面白げに横目で偸みながら、見ていない振りをして、
「強がってみせても、やはり深窓の姫君ということだ。下世話なことは何も知らん。却って、良かったのかも知れん」
彼は、夫人が乙女であることを赤裸裸に明かす。

「だから、案ずるな」
何を案ずるなというのか、賢い龍は、幾通りにも考えた。

この仁君が、色に溺れて暗君になり果てること。
その結果によっては、お家騒動を招きかねないこと。
今回も江東を出し抜いたが、
今後の動静は予断を許さないこと。
新妻を迎えたというのに、帰ってみれば相変わらず、
毎晩のように表の私室で、龍と眠っていること。
いつか、新妻の方が、奇異な夫婦関係に疑念をいだくかも知れないこと。
そして・・・・・。

彼は、単純に、遠い将来、この龍の手を
公子殺しの血で穢す懸念を、未然に回避したいという思いが強い。

長子の母が仮に存命であっても、いまの正夫人の家柄に劣る。
もしもここで、男子の誕生でもあれば、
彼が老齢になったあと、必ずこれを担ぐ勢力の黒幕として、
江東が領土の拡張そして併合を狙うことは自明であろう。

歴史に鑑みなくとも、近くは先の荊州。
継嗣争いは亡国の元凶である。
臣は二分三分して、血を見ずには事態は収まらない。

龍は、必ず彼の長子をたてるだろう。
そして、龍に睨まれた者は、生きながらえることはないだろう。
あるいは、龍はそこまで覚悟した上で、
あの日、彼を江東へ送り出したのかもしれない。

これが大部分の理由ではあるが、
それをあからさまに言っては、龍のいうがままに妻を娶り、
その龍のために新妻と契りを交わさないという、
恩着せがましく聞こえそうなことが、不本意である。

そして、小さな理由としては、
この夢見る姫との縁談は、自然に発生したものではなく、
当代一の美男と謳われる、あの男の謀略に塗れたもので、
龍の力で禍を福に転じたとはいえ、彼はもともと、頼りない縁の薄さを感じていた。相次いで先立った、糟糠の妻たちとは、違いすぎる。
年齢も、かけ離れすぎている。

欺瞞も同然の、冷淡な処遇に見えもするが、
いまだに父への強すぎる憧憬に気付けないほどに
幼い面を持ち続けるこの「姫」には、
あるいは再縁という運命が待っているかもしれないという、
彼なりの推量と、優しさから発していることでもある。

「草莽の頃、あの御仁は、無位無官の儂など及びもつかぬ人物の ひとりであった訳だが、まさかこうして、義理の親子になろうとはな」

龍を得るまでの強運と、龍を得てから更に、
我ながら恐ろしいほどに増すばかりの盛運を思うと、
この一事だけでも、彼は感慨無量である。

「だから、あれに話してやれることは、本当は、そう多くはないのだよ」
気の毒だが、自然、奥で休むことが、
少し億劫になってしまってな、足が遠のく。と苦笑する。

「だが、このことが、誰かを傷つけておらんのか、儂にはわからない」
「我が君」
彼の龍が、右手に暖かく置かれたままの、彼の掌にそっと左手を添えて、堪えかねて、真剣に何かを言いかけたのを、温雅な双眸で制して、
「優しいと、言うてくれるな。身勝手な優しさが時に残酷なことぐらいは、
儂も知っておる」

後で、後悔するのだろうかな、と
呟きながら、彼はこの考えを変えるつもりはない。
それは、龍への優しさに他ならない。

彼について、この上なく鋭敏な龍は、
彼が、他でもない龍の心を痛めていまいか、
無自覚にしかし直感的に憂いているのを、重ねた手と手から感じ取ってしまった。

国益のことは言うに及ばず、
龍がその妻女の元で眠り、家族と団欒するのを、
彼が屡屡、結果的に妨げてばかりいることを、
詫びられているような気がしてならなかった。

彼の龍は、閨房のことには生来淡白で、
史書を紐解けば儚いばかりの世の栄枯盛衰を見るにつけ、
君王たる者はさておき、余の者は、
孝道の上では一子を得れば足ると考えている。
其れは養子でも、一向に差し支えない。
側女を欲しいと思ったこともない。
斯様な考えは、敢えて彼の耳に入れたことはなく、
龍は、王器を備える彼の傍らに臥して
必ず王たる彼を佐けている日々が、至上の幸福であることを、
告げるべきか、告げざるべきか、大いに迷ったが、
逡巡している間に、先に彼に言われてしまった。

「そなたと眠っておると、どうしたことか、冬は暖かく、夏は涼しい。常に、春宵のようじゃ。……余人を以って、替えられぬ」

儂の壽を延ばすと思って、諦めてくれるか、と
彼は、半ば本当のそれらを口実に、龍の侍寝を約しながら、
親しく其の手をひいて、朝粥に誘った。

さぞや、うららかに、端整なのであろう龍の膚を知っている筈の
其の妻女に対して、淡い羨望を覚えている己に、彼はまだ気付かない。

新妻をではなく、我が龍をこそ寵幸したいという禁断の想いは、
まるで靄に包まれたままのように、未だに彼の意識下で、音もなく増殖するばかりであった。