千里龍啼不遠春 (せんりりゅうないて はるとおからず)

2010/02/01

うをとみづ3世紀SS

国を挙げて喪に服する江東から再び還って以来、
今上の叔父たる彼が掌中の珠玉と遇する龍には、
僅かに曇りがかかったようであった。

うんざりするほどに弔問の上申をされては
再三に渡って却下し、とうとう彼が根負けして、押しきられ、
「一人では相成らん。子龍を連れて行くなら、差し許そう」

と、
苦虫を噛み潰したような心持ちで、
渡江を許したような格好であった。
然りながら、この沈んだ様子は、いかなることか。
此度の弔問が、龍の心の中に、何らかの翳を落としたことは
明らかだが、豪胆が鎧を着ているようなあの将に訊いても、
不穏な隣国の君臣一同を、まんまと丸め込んでしまった
見事な顛末には、何の手がかりも感じられない。

さらに、帰路に、あの、鳳雛と号する大人物との
邂逅があったとも耳にしたが、
その旧交を温めたことが重大事ならば、
もっと愉しげであって良さそうなものだ。

上首尾の復命を受けたのち、
以前とかわらぬように見える軍議や政務の様子を
幾日か見守りながら、
(あの男など、歯牙にもかけておらなかった筈ではないか)
(そなたが、弔問に行くと言い出したのではないか)
と、喉まで出かかるが、彼は言わない。

あの弔問は同盟上不可欠で、しかも主君たる彼すら
替わることができない奇妙で特殊な状況であったことを、
納得はできなかったが、理解はしていたからである。

彼だけにわかる其の曇りを見かねて、
夜の餐の前に、彼は、曇った龍を散歩に連れ出した。

まだ春は遠く、言葉すくなく、時おり龍を振り返りつつ、
斜めになる薄い日差しの中を、回廊をめぐり、橋を渡り、
彼が特に好む、ひっそりとした風情の桃の樹の傍まで、そぞろ歩く。

蕾すら兆していない時季に、この桃の樹を訪うのは、
彼が心に憂いをいだいている時が多い。
其の心理と行動の関連を、彼は気付いていないのだが、
道すがら、この木に向かっていることが
はっきりとするにつれて、
龍は、彼に匿し事などできないことを、
一歩一歩、確かめさせられているようなものであった。

彼は、見る人もない、寂しげな桃の樹の前で
立ち止まると、しばし仰ぎ見て、故人に思いを致してみた。

美周郎。

龍を間近に見ることに慣れ、彼は、この
隣国の故人の英才ぶりと、我が龍と比べるべくもなく、
實のところ、其の容姿はもとより、中身にすら、
どの程度の男だったのか、ほとんど興味がなかった。

彼の龍の恐ろしさを理解する男であった点だけは評価に値したが、
自慢の頭脳ではなく、力づくで彼や龍を害そうと企図する一面について、
穢いとまでは思わなかったが、危険だとは思っていた。

心の中を整えてから、ゆるやかに振り返り、
「お前に遠く及ばずとも、やはりあの者は、
 惜しむべき一代の英傑だったということか」
その早世を目の当たりにして、
哀惜の念が絶えず、憂鬱なのかと、ぽつりと問うた。

意外な言葉を聞いたように、龍は双眸を瞠ってから、
「あの者が生きていてすら、何も出来なかった以上、
 亡者となった今、恐れるものなど、ないはずでございました」
泣き聲すら立てずに、俄かに涙を溢れさせた。

白い羽の扇で其れを隠蔽する暇もなく、
まるで氷柱が春日に融解するように、頬を伝いはじめる。

彼は、極く稀にしか、そして彼のみにしか見せぬ
龍の涙に、殊更に弱い。
思い出すだに、恐ろしい何事かがあったのだろうか。
この涙を、今すぐに拭ってしまいたい。
だのに、眼に見えぬ何かに、阻まれたかのように、
其の天与の長い腕を、伸ばせないで居た。

「あの者の柩を見ても、涙一つ、湧かなかったのでございます。
 死してなお、あの者は国益をかけてわたくしの首を所望して、
 ”美辞麗句など聴く耳は無い、生きて再び主君にまみえたくば、
 代償に真実の涙を流してみせよ”と、
 柩の中の骸が、哄笑しながら脅迫するのです」
「しかし、泣いたというではないか。枯れ果てようかというほどに」

年甲斐もなく、一度会ったことがあるだけの故人の俤に、
嫉みに似たような鋭く痛む感情が胸を走り、
覚えず詰る口調になったのを内心狼狽しながらも、
それよりも彼は、では何ゆえに泣いているのか、
ぽろぽろと、龍の貌を滴る涙を、どうしたものかと思いながら、
ますます解せない顔をしてみせる。

「我が君が、いつぞや『桓公ではない』と仰せになったことを、 ……ご記憶ですか」
「あれは、気の毒をした。忘れよと言うた筈」
彼は、後ろ手にした袖の中で、掌が、
龍の涙を何とかしたいと焦れ始めて騒いでいるのを、
かろうじて抑えながら、努めて聴きに徹する。

「あれが……もしも我が君の、御柩であったならば如何に 
 と、 思うたら最後、まるで地が割れたようでございました。
 ……孔明が今これにあるのは、我が君の、いつぞやの仰せのお蔭でございます」

(だから、二度と使いなど、させとうなかったのだ)

彼は、また龍をひとりで泣かせてしまった。
弔問の場で、満座は哭礼で噎せ返るようであったであろうが、
彼の龍は、彼の目の届かないところで、ひとりで泣いていたと同じことだ。
そして、今も、目の前で、たったひとりで泣いている。

彼の龍は、国事以外に関して口数が多くないうえに、
案外に彼には嘘をつけないのだ。
そして、其の言う所は、ときにまるで童のように無垢で、
彼の巨きな耳は、ともすれば不吉な内容ですらも、
龍の真情を聞かされるやいなや、
今だに、ときめくような高揚を覚えずにはいられない。

掌を後ろ手にしたまま
「孔明、近う寄りなさい」
三歩と離れていない間合いで、彼は静かに言った。

其の至近の距離さえ、遠く感じたのは、
彼の、らしくもない曲解がゆえに他ならなかった。
龍が、其の王たる彼の為以外に、涙を流すことなど、
有り得ないというのに。

江東へ赴くたびに、凍てついて還ってくるかの如き
我が龍は、春風を待つまでも無く、
春の陽のような其の王を前にして愈愈、
氷が本来の水に戻らんとするかのように
睫を濡らすばかりの脆さを呈して、
言われるがままに、伏し目がちに、半歩進んだ。

「もっと寄りなさい」
その意味を解しかねて、
足が、膠で張り付いたように、立ち尽くす龍に
「ひとりで、泣くでない。せめて此処で泣いてくれぬか」
右掌を、その寛き胸に押し当てて見せてから、
我が龍が自ら足を踏み出して懐に甘えるのを待っている。

いつも、痺れを切らして、
彼は、龍が言いたいことを吐き出してしまう前に、
堪えかねて、このほっそりとした體を、
王者の腕の威力に物を言わせて擁してしまうのは、
時に、悪い癖である。
其れに慣れてしまっている龍は、もう半歩すらも踏み出せない。

何を恐れるのか、小さくかぶりを振る龍に、
「この世に恐ろしいものは、己のみではなかったのか」
寛き胸を差し出したまま、僅か二歩半のところで
臆したように立ち尽くす様を、励ますように続ける。
「そなたが望むなら、なるべく一日でも長生きしよう。
 白髪に、皺だらけになって、歯も抜けて、
 枯れ木のような、耄碌爺になっても、 そなたが望む限りは畢生、離しはせぬのだから、そう案ずるな」

廿も歳上の彼にしてみれば、いつの日か、
龍を遺して世を去るであろうことは
そうであって然る可きであり、このことに関して
龍がいだくほどの恐怖を覚えたことがない。

むしろ、万が一にも、この逆があってはならぬと、
不慮の事故の方が恐ろしい。

「……どうか天下萬民のために、ご長壽を」
湧き続ける涙をどうにもできないままの、龍らしからぬ、ぎこちなく掠れた言葉に、
「御託を、並べおって」
強がりを見抜いて、笑みを含んだ聲でそう言い被せてから、
彼はやはり、我慢は出来なかった。

天下萬民のために、千歳に唯だ一条の我が龍すら護れずして、
何ができるといえようか。
「お前の望みは、我が望みだと、まだ聴き飽かぬのか」
これ以上、目の前で泣かれては、それこそ壽が縮む。

大きく、長い袖の衣擦れの音をたてて、
龍の右手から白い羽の扇を奪い去ると同時に、
枯葉を踏む乾いた音を立てて二歩を詰め、
残る半歩は引き寄せて懐にし、
「……賢いくせに、斯様に簡単なことも分からぬのか、お前は」

小言のような其の内容とは裏腹に、彼はおっとりとした調子で、
白い耳に囁くと、掌中の珠玉の曇りを払おうと、
まるで絹布で拭うような柔らかさで、
片側の頬に、広い袖口をあてがってやりながら、
「困った奴め」
これ以上ないほどの慈愛をこめて、
何と名づけたら良いのか、今もって分からぬ、
募るばかりのいとおしさを、持て余しそうになって
寛き胸が潰れそうなほどの苦みと甘みを味わいながら、
素直に彼の為すがままに任せる、
無二の王のために研ぎ澄ました恐ろしい爪を隠し持つ、
脆い我が龍を覗き込んで言った。

「叶うことなら、いつもお前を温めて居りたいのだよ、儂は」
いささか照れながらも、そう言い添えると、
聲も立てずに、いつの日にか見舞われる不幸に怯えて
涙に暮れて頻りに震える我が龍の薄い背を、
彼は言葉に違わず、飽きもせずに確りと囲んでいた。

彼の龍には、この世が見えすぎて、聴こえすぎるきらいがある。
なにゆえに龍が、彼という天空に棲み、
王者の腕に安んじる必要があるかといえば、
龍は、時に応じて、この世から強力に遮蔽されて、
人としての均衡を取り戻す必要があるからかかも知れない。

理論的には唯だ其れだけに過ぎないとしても、
情感の上では、其れだけに留まらないことを、
朧に気付きながらも、彼は未だに、其の朧を顕にできないままに、
疑いも無く王者の腕の威力を我が龍に与えて惜しまない。

どうかすると、果てもなく湧き上がろうとする
独占慾をも存分に満足させながら、
桃の樹の陰が地に長く伸びきってしまう刻限に至っても猶、
彼は我が龍を手離せなかった。