しん と、音が聞こえたようで、否、無音であることを怪しみ、
(雪、か)
と、寝に就く前の空模様を思い出し、
これ以外に原因が思い当たらないないこの静けさと、
似つかわしくない暖かさに、眠れる龍は双眸を細く開こうとして、其れをやめた。
降雪の夜は、厚い布団に包まっていても、
隙間から、しんしんと冷気が無遠慮に忍び込むものだ。
だのに。
(繭の中の蚕とは、あるいは此のようなものか)
と、夢心地のままに、蚕になった龍は、まどろみに身を任せていた。
訝しいことに、とくに暖かいのは、
夜の帳が下りている束の間だけ、思考を休める白い額であった。
なぜ暖かいのか、双眸を閉じたまま、眠気に霞む頭脳の片隅だけを使って探ると、
今上の叔父たる、龍の主君の膚のどこかに、ぴたりと額が
触れている為らしいと知れた。
また、例の、埒もない夢を見てしまっているか と、諦めかけて、
俄かに鮮やかに、意識がうつつに戻ってくる。
額に、ひたと寄る口髭の確かな感触、唇が伝える温もり、暖かに湿潤する呼気。
ありありと眸に見えるようで、静寂を破るように脈が上がり、
まさか其のような
と、聲を上げそうになるのを辛くも制して、
今のこの有様を確かめるべく、ようやく、そっと瞼を持ち上げる。
仄暗いなかに、おおむね予想のとおりに、
主君の喉仏のあたりと、やや寝乱れた襟元を、間近に見た。
寝返りを打って逃れることは、できそうにない。
温かい重みは、主君の長い腕だった。
右の腕に我が龍の背を囲んで、左の二の腕には、
智慧をぎっしりと詰めて重たげな其の頭を乗せて、
額に唇まで寄せて、背を海老のように丸めて安眠している。
知らないうちに、寝心地のよい腕枕をされていたことは幾度もあったが、
今宵のように、抱き込まれるようにされたことは初めてで、
龍は、鼓動を跳ね上げながら、どうしたものかと、甚だ当惑していた。
(何かに、書いてありはしなかったか、このような場合、臣は……)
暖かいというよりも、熱を帯びてきたたような頭脳を稼動して、
慣れ親しんできた典籍の名と、其の中に羅列されていた字面の印象を、
まるで、疾走する馬車の車輪の如くに巡らせてみたが、
これといった記述は、見当たらない。
(誰ぞ一人ぐらい、何ぞ書き遺しておいてくれさえすればよかったものを)
心は騒いだまま、その記憶の海の中で、史上、稀なる寵栄を蒙ったと伝えられる
王佐の人物の名を、幾人か思い浮かべながら、落胆の溜息を呑む。
ここ数日来、近年稀に見る冷え込みであったので、
無意識に寒さを和らげようと、隣の人肌を引き寄せたのであろうか。
あるいは、寝呆けて、先の大戦で喪った夫人と、
間違えているのであろうか。
主君の貌は見えないのだが、いずれにしても
身動げば、泰平の眠りを妨げてしまうのであろうことを理由にして、
この温もりの中に、龍は黙って眠りに落ちてしまおうとしたが、
暖かい額ばかりが、愈愈、意識を明瞭にしてしまう。
本当は、僅かでも身動けば、願っても再びいつ叶うとも知れぬ
この温もりを解かれてしまうのではないかと、
其れ惜しさであることを、賢い龍が気付いていないはずはない。
龍は、我が王の為ならば、己さえも、いとも容易く欺こうとするのだ。
房室の外気に晒されているのは、僅かに髷の辺りだけ、という程に、
寒気を遮断されながら、己を騙しきれないまま、
憂悶して寝付けないというのに、微動だにせずに臥していると、
額の上で、暖かい唇が、ゆるりと、龍の名を呼んだ。
「……寒うはないか、孔明」
おっとりと紡がれた言葉によって、両唇が蠢く一字一句を額に覚え、
びくりと震えてしまったこの音が、すぐ傍の巨きな耳に、
聴こえなかったであろうか。
ただ血潮が巡る音だけが、耳の奥で激流を聴くように響く、
ことり という物音ひとつしない、おそらく降雪の深更に、
まるで、今この世でただ二人きりのような情況の中、
これほど近くに、横たわった状態で不意に聴かされた聲に、
否応なく脈が早くなる。
睡眠に落ちる前に、四方山話をしていた時の聲音と、
何が違うというのか。
”我が君”と、応えようか、だが、其のあと何と続けようか、
貌をあげて、主君が起きているのかどうかを見定めようか、
それともこのまま、眠ったふりを装っていようか、
明晰な頭脳に似つかわしくもなく迷っていると、
主君は唇を龍の額にぴたりと添えたまま、
深い呼吸とも軽い鼾ともつかない、規則正しい音をひとしきり鳴らして、
それきり、何の問い掛けも発さなかった。
我が身ひとつの暖をとる為でもなく、
帰らぬ人と間違えたわけでも更になく、
確かに、夢寐にも我が龍を寒さから庇おうとする主君の振る舞いに、
龍は、つい先ごろ君前で迂闊に気を緩め、ひどく涙した折、
限りなく優しく慕わしい聲音で言い聴かされたことと、
ただの寝言かもしれなかった、今しがたの言葉を、しばし照らし合わた。
”御唇をも賜って、寒かろうはずが御座いませぬ”
漸く浮かんだ、問いの答えを念じながら、
其のかわりに、眠る主君の広い襟元へ、音もなく指先だけで縋り、
襟から覗く、一度たりとも触れたとのない寛き胸の素膚に、
ほっそりとした指の、王の為だけに研ぎ澄ましている恐るべき匕首のような、
しかし王の前には花弁のように脆い、ほんの爪の先だけを、
おずおずと伸ばし、
(成る程、書き遺せるべくもない)
と、得心して双眸を閉じ、龍はまた、蚕になってしまった。
(どうやら儂の狸寝入りのほうが一枚上、かの)
襟に、ほんのりと緩く掛かった重みと、
意外なところに、硬質な爪の感触を極く薄く感じて、
彼が唇の端を微かに持ち上げたことに、さすがの龍も気付かなかった。
(雪、か)
と、寝に就く前の空模様を思い出し、
これ以外に原因が思い当たらないないこの静けさと、
似つかわしくない暖かさに、眠れる龍は双眸を細く開こうとして、其れをやめた。
降雪の夜は、厚い布団に包まっていても、
隙間から、しんしんと冷気が無遠慮に忍び込むものだ。
だのに。
(繭の中の蚕とは、あるいは此のようなものか)
と、夢心地のままに、蚕になった龍は、まどろみに身を任せていた。
訝しいことに、とくに暖かいのは、
夜の帳が下りている束の間だけ、思考を休める白い額であった。
なぜ暖かいのか、双眸を閉じたまま、眠気に霞む頭脳の片隅だけを使って探ると、
今上の叔父たる、龍の主君の膚のどこかに、ぴたりと額が
触れている為らしいと知れた。
また、例の、埒もない夢を見てしまっているか と、諦めかけて、
俄かに鮮やかに、意識がうつつに戻ってくる。
額に、ひたと寄る口髭の確かな感触、唇が伝える温もり、暖かに湿潤する呼気。
ありありと眸に見えるようで、静寂を破るように脈が上がり、
まさか其のような
と、聲を上げそうになるのを辛くも制して、
今のこの有様を確かめるべく、ようやく、そっと瞼を持ち上げる。
仄暗いなかに、おおむね予想のとおりに、
主君の喉仏のあたりと、やや寝乱れた襟元を、間近に見た。
寝返りを打って逃れることは、できそうにない。
温かい重みは、主君の長い腕だった。
右の腕に我が龍の背を囲んで、左の二の腕には、
智慧をぎっしりと詰めて重たげな其の頭を乗せて、
額に唇まで寄せて、背を海老のように丸めて安眠している。
知らないうちに、寝心地のよい腕枕をされていたことは幾度もあったが、
今宵のように、抱き込まれるようにされたことは初めてで、
龍は、鼓動を跳ね上げながら、どうしたものかと、甚だ当惑していた。
(何かに、書いてありはしなかったか、このような場合、臣は……)
暖かいというよりも、熱を帯びてきたたような頭脳を稼動して、
慣れ親しんできた典籍の名と、其の中に羅列されていた字面の印象を、
まるで、疾走する馬車の車輪の如くに巡らせてみたが、
これといった記述は、見当たらない。
(誰ぞ一人ぐらい、何ぞ書き遺しておいてくれさえすればよかったものを)
心は騒いだまま、その記憶の海の中で、史上、稀なる寵栄を蒙ったと伝えられる
王佐の人物の名を、幾人か思い浮かべながら、落胆の溜息を呑む。
ここ数日来、近年稀に見る冷え込みであったので、
無意識に寒さを和らげようと、隣の人肌を引き寄せたのであろうか。
あるいは、寝呆けて、先の大戦で喪った夫人と、
間違えているのであろうか。
主君の貌は見えないのだが、いずれにしても
身動げば、泰平の眠りを妨げてしまうのであろうことを理由にして、
この温もりの中に、龍は黙って眠りに落ちてしまおうとしたが、
暖かい額ばかりが、愈愈、意識を明瞭にしてしまう。
本当は、僅かでも身動けば、願っても再びいつ叶うとも知れぬ
この温もりを解かれてしまうのではないかと、
其れ惜しさであることを、賢い龍が気付いていないはずはない。
龍は、我が王の為ならば、己さえも、いとも容易く欺こうとするのだ。
房室の外気に晒されているのは、僅かに髷の辺りだけ、という程に、
寒気を遮断されながら、己を騙しきれないまま、
憂悶して寝付けないというのに、微動だにせずに臥していると、
額の上で、暖かい唇が、ゆるりと、龍の名を呼んだ。
「……寒うはないか、孔明」
おっとりと紡がれた言葉によって、両唇が蠢く一字一句を額に覚え、
びくりと震えてしまったこの音が、すぐ傍の巨きな耳に、
聴こえなかったであろうか。
ただ血潮が巡る音だけが、耳の奥で激流を聴くように響く、
ことり という物音ひとつしない、おそらく降雪の深更に、
まるで、今この世でただ二人きりのような情況の中、
これほど近くに、横たわった状態で不意に聴かされた聲に、
否応なく脈が早くなる。
睡眠に落ちる前に、四方山話をしていた時の聲音と、
何が違うというのか。
”我が君”と、応えようか、だが、其のあと何と続けようか、
貌をあげて、主君が起きているのかどうかを見定めようか、
それともこのまま、眠ったふりを装っていようか、
明晰な頭脳に似つかわしくもなく迷っていると、
主君は唇を龍の額にぴたりと添えたまま、
深い呼吸とも軽い鼾ともつかない、規則正しい音をひとしきり鳴らして、
それきり、何の問い掛けも発さなかった。
我が身ひとつの暖をとる為でもなく、
帰らぬ人と間違えたわけでも更になく、
確かに、夢寐にも我が龍を寒さから庇おうとする主君の振る舞いに、
龍は、つい先ごろ君前で迂闊に気を緩め、ひどく涙した折、
限りなく優しく慕わしい聲音で言い聴かされたことと、
ただの寝言かもしれなかった、今しがたの言葉を、しばし照らし合わた。
”御唇をも賜って、寒かろうはずが御座いませぬ”
漸く浮かんだ、問いの答えを念じながら、
其のかわりに、眠る主君の広い襟元へ、音もなく指先だけで縋り、
襟から覗く、一度たりとも触れたとのない寛き胸の素膚に、
ほっそりとした指の、王の為だけに研ぎ澄ましている恐るべき匕首のような、
しかし王の前には花弁のように脆い、ほんの爪の先だけを、
おずおずと伸ばし、
(成る程、書き遺せるべくもない)
と、得心して双眸を閉じ、龍はまた、蚕になってしまった。
(どうやら儂の狸寝入りのほうが一枚上、かの)
襟に、ほんのりと緩く掛かった重みと、
意外なところに、硬質な爪の感触を極く薄く感じて、
彼が唇の端を微かに持ち上げたことに、さすがの龍も気付かなかった。