惟有黄昏臥龍憂 (ただこうこんがりょうのうれうあるのみ) 

2010/03/01

うをとみづ3世紀SS

四十路もすぎてから漸く、荊州という絶好の地の利を手中に収めた、
『今上の叔父』の美称に釣り合わないほどの艱難を越えてきた彼は、
春浅い城の中の、あたらしい書庫を訪れていた。

ずいぶんと、短期間のうちに、頭の上まで埋め尽くすほど、
書架に満載された竹簡の山に、学問所での成果が目に見えるようで、
彼は満足を覚えた。
先の大戦が終結してから、甥の後見という大義を引き続いて擁し、
江東からの横槍を、したたかに退けながら、其の上、彼の龍は、
「我が君の姓は劉、而るに貴兄の主の姓は孫」
と、屁理屈であるのに一蹴できない迫力の重い一言で、
篤実な江東の使者に、引き抜きにくい釘を打ち付けたばかりである。
曲がりなりにも腰を落ち着けて
天下三分への足がかりを築こうとする毎日を得、
彼の龍は、外交と経済振興、錬兵はもちろんのこと、
城内に、いくつか学問所を創設していた。
諸将の子弟や、庶民でも向学心のある者をそれぞれ集めて、
既に退官したような年頃の賢人を招き、講義をさせる。
束修は、銀でもよいが、物納の場合、
修学した典籍の筆写とし、城の書庫に納めさせている。
いうまでもなく、この城は、歴史上も状況の上でも、
名実ともにさまざまな意味での要地であり、
元から納まっていた典籍も、此の地の名に恥じなかったのだが、
みるみるうちに、新築の書庫に竹簡は倍増してゆき、
惜しみなく貸出までも行えるようになり、
 ”書は、公からお借りするに如かず”
と、貧乏な私設の学舎も賑わいを見せ、もともと豊かな土地柄に
王城の気風が備わるという、金では贖えない効果を挙げていた。
いつのことであったか、政務の合間を縫って、彼は一度、
こっそりと市井の学問所を訪うてみた。
講義が始まっているところへ、わざと遅れてふらりと現れ、
老師が驚いて拝跪しようとするのを、長い腕を挙げて制して、
末席の粗末な机に着座して、勉学に励む童たちの小さな背を
あたたかい眼差しで、ひとつひとつ、追っていた。
型どおりではあるが、其の日は『詩経』の暗誦だったようだ。
幼いころは、味わいも何もあったものではないが、
読まされているうちに、調子が良くて、つい口を衝いて出るような、
そんな、気に入りの一編に、ひとつぐらいは出会えるものだ。
幼い声が、時折ばらけながら、同じ音を元気良く発していることに、
この先どうなるとも知れぬが、あきらかに次代というものの息吹を
目の前にして、彼は背筋が伸びる思いだった。
この清清しい成果を、彼の掌中の珠玉たる軍師は、どう捉えているのだろうか。
余人は知らず、己に厳しく謙虚な龍のこと、まだまだと思っていようか。
あまり時を割けない中、彼は、ちょっとした悪戯を思いつき、
机上に伸べられていた竹簡に、うろ覚えの『老子』の一節を書きつけて
立ち上がり、講義を続ける老師に、丁寧に一礼して、
学問所をあとにした。
それから十日ほど過ぎたであろうか、
風も穏やかな昼下がりに、庭の小亭で茶を喫しながら、
龍と和やかに雑談をしていると、話が学問所に及んだ。
「過日、大街の学問所に、お出ましでございましたか」
「ああ、このあいだ、某大人の招宴に応じたであろう、そのついでにな。
 老師には、迷惑であったかな」
ならば、許せ というような、にこやかな笑みをたたえて、
蓋碗の茶を啜りかけて、続く言葉に、巨きな耳を驚かせた。
「老師とは、話しておりませんが、よもや我が君がお運びとは。気付くのが遅れました」
「む?」
「随分と、おませな童がおると、昨日気付きました」
「さてはそなた、やはり見ておるのか。納められる写本を」
「近頃、はからずも披見が滞っておりました」
この龍は、なにゆえに、職責を増やすようなことをするのか。
確かに、誤写の多い写本が書庫に納まるのは沽券に関わろうが、
老師どもが見るだろうに、である。
「誤字をか?余のものに任せておけ。そちは忙しい」
「其れもございますが・・・筆跡を」
「筆跡とな」
「整った文字を書く者も居れば、一見、雑な手の者もおります。
 ・・・但し、必ずしも美しい文字の者に、見込みがあるとは限りません。
 漫然と写したのか、読み解こうと努めながら写したのか・・・
 其処を見ているうちに、逸材の芽が見つかる気がしてならないのです。
 可惜、見逃しとう、ございません」
そよ、と、僅かな風が、彼と龍の間を遠慮がちに通り抜けていった。
まるで物言わぬ風までが、彼の、龍に対する寵を心得ていると見まごう程に。
逸材を見逃したくない、とは、龍のささやかな楽しみというよりも、
多分に、其の王たる彼に役立てたいが為に、捧げる労力である。
否、それは最早、労力などではなく、龍を目覚めさせた無二の王への
報恩ですらあるのかもしれない。
「そう、根を詰めるでない。会えるべきものには出会えよう。
 儂と、そなたのように」
そう労わると、
「いえ、楽しみが増えましてございます」
穏やかにこぼれた其の言葉に、巨きな耳を喜ばせながら、
「それで、その、ませた餓鬼は、逸材であったかのう」
「左様でございますね・・・」
と、冗談をかわして、その話は仕舞いになったが、相変わらず、
龍は政務の合間のひとときを、書庫に費やしているようであった。
そんな事を思い出しながら、まるで古刹の経蔵のように
びっしりと竹簡に埋まった棚に、一箇所、閑散と、
いや、置き去りにされたような一隅が目に止まった。
貸し出しや閲覧の便宜上、棚には番号が振られている。
典籍ごとに、また章編ごとに、分類されているのだ。
人気のためか、不人気で埋まらないのか分からない棚に近寄って、
ぽつんと置かれた一巻を手にとって無造作に広げると、
『道生之 徳畜之・・・』
紛れもない、あまり達者ではない彼の手蹟で、『老子』が書き付けてあった。
��その實、戯れを、咎められておったかな)
こうして、書庫に納まってしまえば、彼が書いたものではあっても、
既に公の財である。勝手はできない。
��せめて、後進のために、書き違えがなければよいが)
と、念じて、更に、からころと拡げながら、ここに納まっているということは、
誤りがあれば削って訂正されているであろう。
確かめる必要もなかったのだが、悪戯心の結果を、其の眸で見たかった。
『是謂玄徳』で、終わってしまうはずのところ、
改行して更に、
『天下有始 以為天下母・・・』と、
明らかに、彼の龍の見事な手蹟で、次の章編が続いており、
竹簡の終いまで、書き継がれていた。
彼は、分厚い指で、竹簡の巻頭を撫でてみた。
埃が被っていない。
学問の本流とはいえない、不人気であるべきこの棚に、
忘れられたように置かれたこの竹簡は、明らかに取り出されている。
頻度は分からないが、少なくとも、最近。
最近書き継いだのだろうか。
そうでなければ、書き継いだあと、時々に取り出して
披見していることになりはせぬか。
前後の欠落した、ただ一巻の、この書に興味を示すものなど、
彼と龍のほかに、誰も居はしない。
龍とは、いじらしい生き物だ。
『楽しみが増えましてございます』
かつてそう言ったはずの、その『楽しみ』のなかに、
この下手糞な手蹟の、大きな餓鬼の悪戯書きを見ることも
含まれていたなら、どんなによいかと、彼は双眸を和ませた。
不意に、かたんと、扉が開く乾いた音がして
「・・・これは、お運びとは」
日が落ちるまでに終わるかどうかの念のためか、
火を灯していない燭を手にした龍が、逆光の戸口に現れた。
「餐まで、間があったでな」
龍は、燭を卓に置いて、恭しく拝礼をして、
「お背を、お見かけいたしませんでしたが・・・もしや」
やや、眉を顰めてみせた。
書庫は、万一の火災に延焼を免れ易くするために、
隅のほうに設けてある。
自然、この辺りへは、長い廊を巡って来なければならないのだが、
彼は遠回りを嫌い、最短を得る常套として、
裏庭の樹木に登って塀を乗り越えるという、
およそ城の主にあるまじき侵入方法を、よく用いている。
「儂は悪餓鬼、じゃからの。あの樹、伐らせるでないぞ」
ついでに件の『老子』を巻き終えて掲げながら、小言を封じる
挙に出て、ぬかりなく先制するのを忘れない。
「棄ておいて、よかったものを。続きを書いてくれたのだな」
「悪戯を、見つかりましたか」
なんとのう、含羞を帯びた表情をして微笑む龍は、
それこそ、背の高い童のようであった。
「いつ見ても、整うた、よい文字を書くの。惚れ惚れとする。
 誰ぞの目に留まったら、書写の手本にと、争って借り出されようぞ
 ・・・そうじゃ、其の前に、儂が借りてしまおうか」
龍の『楽しみ』を、確かめてやろうと、
彼は、遠まわしに水を向けてみた。
微かに慌てる色を龍の双眸の奥に認めて、
それだけでもう彼は満足で、
「冗談じゃ」
と、竹簡を元通りに戻して、快活に笑った。
「・・・實のところ、わたくしは・・・
 我が君のご威光をお借りして、新野の罪滅ぼしをしております」
「新野の?」
「書も、焼きましてございます」
一人の力では、焼けたであろう書の全てを、一朝一夕に
償うことは難しく、文化政策の中にこの贖罪を忍ばせていたことを、
彼にだけ打ち明ける。
「新野の書庫の二倍、三倍になりましたら、あるいは
 この書を、御ねだり申しても許されるだろうか と、考えておりました」
斯様に、彼の龍は寡欲にすぎるのだ。
望むなら、一千文字でも、二千文字でも、書いて遣るというのに。
彼は、これでも龍が一種の執着を禁じようとしていることに気付いていない。
あの雪の日に書き置かれた書簡、傍らに臥すための寝衣。
物質的満足を上回って猶あまりある、惜しみなく与えられる王者の腕。
もう充分に得ている自覚を持っているというのに、
この王に関係する物であることを、余人に容易に悟られないような、
たとえばこの一巻の竹簡など、まことに龍の求めに適した品なのである。
而し、公の財を私するなど、厳格な龍にできようはずもなく、
次の章編を書き継ぐという行為は、
その望みを戒めた結果でもあったことまでは、彼は知らない。
「孔明。ちと、上を向いてご覧」
話が急に無関係な方角へ展開するのは、
彼の癖で、龍はもう慣れており、躊躇いもせず、
素直に天を仰いでみせる。
��儂の気が触れて、剣でも突きつけたら何とする)
心のうちで、其の無防備に苦笑しながら、
つと、長い腕を伸べて、暖かい指先で、白い喉元を、そっと辿る。
「儂の龍には、逆鱗など、無いようだ」
彼は、思いを溜め込みすぎて、萬事を昨日のことのように
記憶している不憫を言ってやったつもりだ。
「逆鱗のない龍など、不具でございます」
為されるが儘、すこし悲しげに、龍は双眸を緩く伏せた。
「尚よいではないか。まことに珍しく、得難い。儂は果報者じゃ」
白い喉を、指の甲で撫で続けながら、
「新野のことは・・・儂のために焼いたのだ。
 そちのことじゃ、忘れよと言うても、詮無いであろうが、
 儂が焼いたと同じなのだから、以後、気に病むでない。
 そして、儂が焼かずとも、のちの世、誰かが焼いた。
 ・・・そうは、思いたくないが、そういうものであろう」
全焼したとは限らない、一部は案外に災禍を免れたかも知れぬ と、
慰めをまじえて、しみじみと物語っている間に、
外で囀っていた鳥たちもいつしか姿を消し、
日は心細く傾いていく。
彼は、龍を特別視することが日常になってしまい、
其の性別も、人か否かも忘れて、気付くとこの稀有な存在を、
つい過ぎるほどに身近に寄せてしまっていることが
屡屡だが、喉を撫でていただけのはずの手は、
いつかその頤のあたりをとらえて、
澄んだ双眸に吸い込まれるように、前屈みに、背が傾いてしまっていた。
龍は龍で、相変わらず、何の疑いも持たずに、
次に主君が何と言うのかを、ただ無心に待っている風情であった。
夕暮れ時の、危うさをはらんだ、人も絶えた密やかな離れの書庫で、
これは甚だ、うまくないではないか、このようなことは、白昼堂堂と、
庭や広間で傍目も憚らず、公然と行っておればこそ、
何の衒いも下心も無く、自然に自制心も働くというのに。
��これでは、何を仕出かすか、分かったものではない)
何をとは、何か。
それは彼にも、いまだに、はっきりとは分かっていないのだが、
もはや離しがたいこの龍を、どのようにして手放したものか。
彼は、緩緩と傾くばかりの背を、如何にもできず、
龍の双眸の中に、間近に映りはじめた己の貌を認めながら、
助け舟を探していた。
ああ、この際、誰でも良い。狗でも猫でも構わぬ。
儂の、邪魔をしに来い。
��これでは、まるで・・・)
”ぐうぅ” と、
唐突に、色気も無く、彼の腹の虫が鳴動したので、
一瞬の沈黙の後、互いに、どちらからともなく、噴き出して、
「木登りなど、あそばすからで御座いますよ」
「何の、沓を脱いで、あっという間じゃぞ。見せて遣りたいぐらいだ」
などと笑いあうと、
「もう明日にいたせ。儂の腹時計に合わせよ」
内心、我ながら腹の虫の功を誉めてとらせ、龍を餐へと急き立てた。
��あの時には、もう)
 あの時にはもう、あの悪戯を、喜んでくれていたのだろうか
 あの時にはもう、龍は主に其れほど心を寄せてくれていたのだろうか
 あの時にはもう、この主君が龍に日々心を奪われるばかりだと知っていたのだろうか
あの時には、もう。
問いたいことが山ほど湧き出そうであったが、
いちいち問うていては、腹と背が付きそうだった。
寡食な龍に、餐を摂らせるのも、いつの日か王たる彼の大事な責務なのだ。
初めて食卓を共にするかのような、弾む足取りの背と、同じような姿をした
一巻の竹簡は、其れ自体も、書いた主たちも、
互いに此のあと如何なる運命を辿るのかを沈思するように、黙して見送っていた。