與爾同笑萬愚節 (なんじとともにわらわん ばんぐせつ)

2010/04/01

うをとみづ3世紀SS

「お早うございまス、軍師。飯、喰ったスか?」

朝の門前で、虎髯をたくわえた豪傑に鉢合わせて、
豪傑の長兄であり、城主であり且つ今上の叔父が
我が掌中の珠玉 と寵して憚りもない一条の龍は、
挨拶を返そうとして、ひくり と、横隔膜が痙攣する音を立てた。

「もしかして、吃逆(しゃっくり)、っスか」
喜怒哀楽が激しく、飾らない性分の豪傑は、
もう、語尾からして笑っている。
話をすると、否応無く其の痙攣音を混ぜそうで、
龍は、こくこくと頷きながら、眸元までを白羽扇で覆った。

「兄者に、止めてもらうといいっスよ。そういうの、得意っスよ」
こうして時々、人の形をしたこの龍も
やはり人であることを垣間見て、
酒豪の豪傑は、吃逆が可笑しいというよりも、
人の生理現象を呈している龍を見たことが嬉しそうであった。

「それより、軍師が吃逆ってえことで、軍議中止ってのだと一番いいなあ。軍議めんどくせ。 そうそう、吃逆には酒が一番効きますぜ」
今の状況では、いつものやや辛口の冗談を含んだ
反駁は不可能とみて、豪傑はこの機に乗じて言うが勝ち と、
大声で若い龍を揶揄って、
「夜まで止まんなかったら、一杯奢りますゼ」と、
呵呵大笑しながら、龍の細い肩を手加減してひとつ叩くと、
大股に遠ざかっていった。

ひくり、ひくりと痙攣の音を立てながら、龍は、足取りだけは平素と変わらず、
中庭を進んでいた。
「お早う御座る、軍師殿」
頭三つ分ほども上の方から重低音の声が降ってきて、
視界には恭しく拱手した、岩のような拳と、
絹糸の束のような漆黒の長髯を認めて、
「髯どの」
主君の次弟へ、口数少なく礼を返したが、ややあって、
龍の横隔膜は、やはり痙攣音をたてた。

珍しいものを聞いたように、鳳眼をまるめた長髯の将軍は、
「わしの故郷では・・・吃逆には、塩水が効くと申すが、
 軍師殿のこと、既にお試しのことでしょうかな」
少し気の毒そうに、遠慮がちに、もごもごと言われて、
「お教え有難うございます。試してみます」
と、龍は早口に謝しながら、どちらかといえば、
酒豪の豪傑に言われた ”兄者に止めてもらえ”に淡く期待している。

ひく、と、痙攣音をまたひとつ聞いて、
長髯の将軍は、吃逆をしている状態を長く人目に晒すのを、
龍が好まないのではないか と、気を回したような表情をして、
「では後ほど、軍議にて」
少し気まずく居辛いような素振りで、足早に遠ざかっていった。

ひくり、ひくりと痙攣音に襲われながら、
龍は廊を巡った。

「軍師、お早う御座います」
爽やかな声を背後に聞き、こんな日に限って
我が君の腹心によく出会う、と、観念したように振り返って、
龍は、挨拶を返すよりも先に、ひく、と
身を震わせた。

「大人になっても、吃逆は、出るものですか」
一身是胆の将軍は、素直に驚いたようだった。
「拙者が子供の頃は、よく飛び跳ねろと言われたものですが、 あれは、効きませんな。軍議までに止まると良いですが。
……これは愚言を。
止まろうと止まるまいと、軍師どののこと、中止などなさらないのでしょう」
再び、折り目正しく拱手して、
常山の将軍は、風のように広間の方角へ立ち去っていった。

果て然て、まず御前に参るまでに止まるであろうか。
息を止めたり、嗽をしてみたり、逆立ちをしたりと、
出かける前に、知る限り、何度も試みてはみた。
止まったかに見えて、やはり止まらない。

胆の将軍が言い当てたように、
吃逆ごときで軍議を日延べする気など、さらさら無いが、
やや、緊張感に欠けよう、できれば止めたいものだが と、
この世の不可抗力のひとつに、吃逆というものも加える。

とうとう、主君の私室まで到ってしまった。

 ”我が君に、お目どおりを”
取次ぎを願うまでもなく、彼は扉を開け放って待っており、
「お早う、孔明。よう眠れたかな」
既に支度を整えて、龍を待っていた風情であった。

「我が君にはご機嫌麗しく」
「麗しうないわい。二日酔いじゃ。やはり素面でそちと寝ておるのが一番じゃ」
昨夜は、近郊の豪商と一席設けて、盛会に覚えず深酒をしてしまい、
なぜか自ら龍を遠ざけて、彼は独り寝をしたのだ。

余人が深読みしたなら、惚気のようなことを聴かせながら、
忽ちに機嫌を直すと、優雅に礼を尽くして面をあげた龍が、
ひくり と、ひとつ震えたのを、彼は見逃さない。

椅子から立ち上がって、親しく歩み寄ると、
「なんじゃ、朝っぱらから、吃逆か」
吃逆をしている龍と会話をしてみたいのか、
これからの軍議など余所に、嬉しげであった。

「そなたのことだ、色々と試して、まだ止まらぬといったところか」
共に茶を一服しながら、打ち合わせめいたことを終えても、
やはり止まらない吃逆に、龍は諦めて、
定刻どおりに、軍議に参りましょうと、痙攣音を伴いながら、主君を促す。

彼も、全く動じもせずに、
「参ろうか」
と、軽やかに腰をあげて、しかし足取りはゆっくりと、
広間の方角へ向かった。

龍は、”兄者に止めてもらえ”の助言を
心の隅に引っ掛けながら、
このような様子で軍議に臨もうとも、
一向に苦しゅうない、という風情の彼を前に、結局は言い出せない。

彼は、ゆかしい龍を背の全面で感じつつ、
庭木の花や若葉のことなどを、他愛もなく話しながら、
途中で、蓮池の見える小さな庭へ道草をしに階を降り、
ひく、と音を立てながら、素直に従う龍を振り返って、

「年端もゆかぬなら、何度でも効くのだが」
言い終わらぬうちに、龍の脇の下に大きな掌を差し入れると、
其の長い腕で、”高い高い”をするように體を持ち上げ、
實際に、
「高い高ーい」「其れ、どうじゃ」などと楽しげに言いながら、
のみならず更に、くるくると、両の脚が遠心力で遊ぶほどに
左右に振り回してから、
「やや、……沓が」
などと、のんびりと口走りながら、
呆然とした龍を、近くの陶製の腰掛に降ろして、
落ちた沓の片方を拾いに行った。

「して、どうかな」
脱げ落ちた沓を、我が龍に履かせてやりながら、
吃逆が止まったのかどうか、確かめるべく、
驚いても白い龍の貌を、彼はおっとりと覗き込んでいた。

「吃驚したか。吃逆にはこれが一番じゃ」
悪戯そうな眸をして、彼はなおも、龍を見守った。
「止まった・・・ようで御座います」
「そうか、今日は右に三回、左に三回半じゃった。次に効くかは分からぬが、覚えておこう」
「あっ、御手ずから、沓などを」
不覚にも今気付いて、拝跪しようとしたところを、
好し好し、と制すると、龍はやや平静を取り戻し、
今しがたの一連の、いい歳の大人とは思えない、
まして、君臣とは、よも思えない出来事を
思い返したのか、しばし絶句してから、問うた。

「有難う御座います……が、他の止めかたは、ご存知ありませぬか」
「無いぞ。誰かにさせる位なら、まっすぐ儂のところへ来い」
「……しかし我が君、これは些か、荒療治……」
彼は、ふ、と咽喉奥で低く笑うと、
「他に、有るようで無し、無いようで有る。吃驚させるほどに効くのじゃが、
そなた、生半可な嘘の類では 驚くまい。
儂が、次に何をするかも、およそ見通してしまっておる。
いっそ、童にしてやるようなことが、一番良かろうと思うてな」

無策だったかのように、からりと笑い聲をたててはいるが、
我が龍はおそらく、人見知りするような童ではなかったか、
幼少の頃、近親の男に、例えば斯様にされた記憶は、
皆無に近いのではないか。
と、ゆっくりと廊を歩きながら、考えていた。

人は、経験していないことや、突拍子もないことには、
驚きを含めて、何かしら強い感情に支配されることが多い。
彼にはそんな成算も、微かにあった。

「そなた、もう少し飯を喰え。軽すぎる」
「我が君の御腕が、いまだお強いのでございます」
「世辞はいらん。儂はもう五十じゃ」
「お世辞など申しましょうか」
「好い、好い、その調子なら軍議にも相変わらず
 八方睨みが効きそうじゃな」

先に立ちかけて、彼は振り返り、思いついて、
龍の白い襟の合わせ目の緩みを、分厚い両の指で確かめ、
冠の僅かな傾きを正してやってから、
「さあ今度こそ、本当に参ろう」
これも、義弟たちに対しては、
無意識のうちに屡屡している世話焼きだが、
常に寸分の隙もない身じまいの龍に、
斯様にするのは初めてだと、内心に騒ぐものを感じながら、
其れを押し隠すように、彼は冗談を続けた。

「そうじゃ、儂の吃逆が止まらぬ時の為にも、やはり、もそっと飯を食うておけ」
「其の時は、御耳を驚かすような何事かを、申し上げることにいたします」
「こ奴め」
ひとしきり朗らかに笑いあって、
この君臣は漸く、諸将の待つ広間へと歩みを進めた。

彼は、賢いくせに、斯様な子供騙しのようなことで
ぴたりと吃逆を止めてしまった我が龍に、
(儂は、時には啼き聲を聴くまでもなく、あるいは思うている以上に、 
 お前を理解できておるのかもしれんな)
と、寛き胸を幸福感で一杯にしていた。

龍は龍で、他の誰にも悟られない心の揺れは勿論のこと、
不随意な吃逆すらも、いとも簡単に鎮めてしまう、
いまは無造作に後ろ手にされている
底知れぬ威力を備える王者の腕の持ち主に、
唯唯、まるで惚れ直すような心地を覚えつつ、
日ごろと変わらない様子で付き従った。

彼が推測したとおり、幼い頃、
”高い高い”をされた記憶は龍にはなかった。

更に、衣冠を正されるということも、
遠い記憶の中の母の細い指と、
まだ少年であった兄の、あどけなさが残る手で
為された覚えはあっても、
この王たる彼のような、頼もしげな指先で
構われたことなど無かった。

抱き上げられたことは、驚愕の余りに忘却したが、
却って、正された襟元と冠のあたりに、
まだ彼の温もりを熱いほどに感じて、
龍は、白い羽毛の扇の柄を、強く握り締めていた。



    *余話*



「で、兄者が止めたんでしょう、軍師の吃逆は。
 あーっ、あのまんまなら退屈な軍議なんてナシかもと
 ぬか喜びしちまった」

「あの軍師殿が、ご自身の障りで軍議の日取りを
 動かすことなど有りえんだろう」

龍に酒を奢れなかった豪傑は、次兄と共に、
軍議のあと、彼に餐を馳走になっていた。

「で、どうやったんスか」
「どうしたと思う」
「塩水をお試しか」
「待った兄貴、俺も当てたい。大声もヤバイし、
 どついて怪我させたら もっといけねぇと思って、
 俺はしなかったケド・・・どついたんスか?」

「ひとつ接吻をな、してやった。ぴたりと止まったぞ」

瞬間、爆笑の渦を期待したというのに、
次弟が石化したかと思うと、末弟は噴飯した。

「……とうとう、ヤっちまったんスか。や、今更。初めてじゃないっスか、もしかして」
(吃逆が止まるほどに、お熱いやつをか・・・)
軽い冗談のつもりだったが、互いに本気にしたようだ。

長い付き合いでも、嘘の匙加減は難しい。
というより、これしきの嘘を真に受けるお許ら二人は、
いったいどういう了見じゃ、と、彼は日ごろの、
親密に過ぎるほどの、龍への寵用を棚に上げて、
「これこれ、嘘に決まっておろうが。『高い高い』をしてやった」
種明かしをしたところで、何となく生温かく、
義弟二人の疑わしげな視線が、彼には痛かった。

「……兄者、シャレにならねぇよ。こうなったらどっちが本当なのか、軍師どのを問い詰めねば、肴になんねぇっスよ」

”おいコラそこの若ぇの、軍師どのを呼んでこい”
”いや、相ならんぞ、孔明は別室でゆっくり餐を摂るのだ。
 朝も碌に食うておらんのだから”
”別室ってのが怪しいっス。どこかに痕でもつけたんじゃねぇスか”
”痕?痕とは、何の痕だ”
”せ・っ・ぷ・ん の痕に決まってるでしょうがっ”
”これ昼間から左様なことを大声で。だから、「高い高い」じゃと言うておろう”
”じゃ、次に軍師が吃逆になったら、この俺様が”
”ならん、ならん。そちの怪力では”
”折ったりしねぇっスよ。其れしきで止まるのかって奴でスよ”
”実際、止まったのだ”
”ええー?実際、見たことも聞いたこともねぇっスよ”

兄と弟の賑やかな遣り取りを目の当たりにしながら、
大柄な豪傑は、むう、と唸りながら、常よりも赤い顔をして、
(やはり、なさったのであろうか・・・)
所在無く、見事な長髯を撫でさするばかりであった。