魚龍聽雷聲 (ぎょりゅうのらいせいをきく)

2010/11/01

うをとみづ3世紀SS

不意に、真夏の南中よりも強い閃光を瞼の裏に感じて、
間髪入れずに、天が裂けたかと思うほどの、
乾いた落雷の轟音と、房室の扉や調度の金具が震動する音を聴き、
龍は目覚めた。

(これは、予め占ったよりも、甚大かもしれぬ)

闇に細く双眸を開いて、そっと起き上がろうとしたが、
半身を起しかけたところで、
大きな袖が、隣の温もりに踏まれているのに気が付いた。

「起きるには、まだ早くにすぎようぞ」
どうやら、袖は故意に、龍の主君である今上の叔父の、
體の下敷きにされていたらしい。

「申し訳ございませぬ、お目覚めになってしまわれましたか」
片肘をついて身を起しかけた不安定な姿勢のまま、
龍は囁き聲で主君に詫びた。

「少し前にな、どうやら庭の鉢が割れたような音がしてな、起きてしもうた。
……気付かなんだのか」

王の傍で安心して高眠する龍の眠りは深く、
いつも寝返りひとつ打ちもしない。
さきほどの騒音が、敏い耳に届かなかったらしきことが、
彼にとっては至極、満足であった。

いつもの夜であれば、このような軽い揶揄に対して、
臣の領域から、ほんの爪先だけ踏み出るような、
拗ねたような理を説いて、彼を降参させてしまう龍であるのに、
起き出ようとした、この不安定な姿勢のまま、
廊に近い扉の方向を凝視して、
「雨足が、思いのほか強いようで御座います」
いま、胸を占めているのであろう不安を、
そのまま口にしたようだった。

「朝のうちに、布令を出しておいたであろう。案ずるな」
彼は双眸を開けもせずに臥したまま、
「孔明」
片手を上げて、ゆるりと、龍をさし招いた。

「誰ぞ、危ない目に遭っているのでは」
「そなたの天候の予見を蔑ろにする者は、
この荊州には居らん。命知らずも居るには居るが、
そこかしこの酒場で、日頃からあの鳳がたっぷり脅しをかけておる。
高い樹のそば、斜面、水辺、誰もおらん」

渋渋といった風情で、彼の隣に横たわり直した龍の
気配を感じて、彼はようやく双眸をあけると、
「目が冴えてしまったのか。憎い雷じゃのう」
わざとのんびりと構えた言葉を、おっとりと紡いで、
龍の尖ったような神経を宥めるようにする。

「雷の悪口はお慎みになりませんと」
「おお、そうであったな、雷は儂の、命の恩人じゃ
……人? 人というのも妙な話だが」
あるじを余所に、甍に打ち付ける雨足と、風の聲と、
ときおり走る稲妻の光と、大岩を転がすような雷鳴に、
まだ白い耳を欹てているような我が龍に対して
「儂のな、故郷の村にはな、大きな桑の木があってな」
飛躍したような昔話で、彼は注意を惹こうとした。

「畏れ多くも、帝がお乗りあそばす馬車の天蓋のような形に、
よく茂った大樹であってな、悪童だった儂はそこに登っては、
大それた事を言うて、大人どもに尻を叩かれたものだ」
「何をおおせになって、
 お仕置きをお受けになったのでございますか」

ようやく龍が天候から注意を逸らしたので、
彼は続きを聞かせた。
「不敬にも、いつかそのような馬車に乗ると言うた」
「それはまた」
「あの頃は、出任せじゃ。だがいまに、
 嘘から出たまことになるのじゃと、儂は思うておる」
「我が君」

乱世に似つかわしくないほどに温厚な主君が、
日頃の言動に反するような、些か僭越な言葉を
吐いたことに龍は内心で驚き、慌てたように我が王を呼んだ。

いっそ、それぐらいの野心を持っていてくれたなら、
この王を御することなど、簡単なことなのだ。

しかし、我が王の美点は、類い稀な仁君であることで、
龍も、彼がこのような王の器でなければ、もしも天命に
定められた君臣であったとしても、ここまで心服しなかったで
あろうことは、考えるまでもない。

「帝の御位を窺うつもりなどはないぞ。
いつの日か、陛下をお救い奉り、かしこくも
一度親しく御車に陪乗の栄でも賜り得たならば、
本懐というものじゃ」

闇に、その温雅な微笑をたたえた目尻に、
日常に見慣れた、あの優しげな笑い皺を刻んだであろうことが分かって、
龍はほっとした。荒天は、人の心も騒がしくする。

あるいは、龍の関心を荒天から逸らそうと、
故意に不穏な言葉を口にしたのかも知れないが、
続く昔話に、それは穿ちすぎであろうと龍は考えた。

「それでな、その大樹は、いつから大樹かは知らんが、
一度も雷が落ちたことがない。貧乏な村でな、他に目立つものなどない。
旅人の目印にすらなる其の高い樹に、一度もじゃぞ」

龍には、彼の云わんとすることが既に分かってしまった。
そうと知りながら、彼もまた昔語りをやめない。

「雷は、儂を助けこそすれ、打ちなどすまい。
而しておそらく、雷雲は、龍のしもべなのであろう。
案ずることがあろうか」

其のように、とりとめもない話を聴かせながらも、
彼は、我が龍が気を揉んで、伏目がちのまま、
一向に双眸を閉じようとしない様子を察して
「龍の眠りを妨げてよいのは、儂だけではないのか」
拗ねたように言ってみせると、
「民の命と、民心と、王業がかかっておりますゆえ」
實のところ、帝業と言いたい所を、
王がそれを嫌うのを畏れて、龍は巧みに言い抜けようとする。

「わかっておる。夜が明けてからにせよ。
王業は、一日にして成るものではなかろう」

漢室復興の大義のもと、その稀有な高徳のもと、
死屍を累累と築き、多年にわたる艱難を越えて生き延びてきた
彼であればこそ、其れは怠惰とは正反対の意味を持って、
目覚めた龍の胸に迫る。

「あと一刻でよいから、儂のために眠れ」
彼は、大きな袖を夜具の上から滑らせて、
分厚い掌で龍の白い耳朶を、ぴったりと塞いでしまった。

これしきのことで、雷鳴が聴こえなくなる由もないが、
龍は頗る耳聡いので、たとえば隙間風が笛のように鳴るような
嵐の夜などには、彼は時々このようにして遣るのだ。
すると、しばらく物語りなどしていれば、
寝返りひとつ打たずにそのまま、
龍は深深と眠りに就いてしまうことを
既に彼は経験上、知っている。

雷雲は、先ほどより遠ざかったのだろうか。
其うしたあとに走った稲妻に続く
曇った轟音は、既に光よりもかなり遅れて、
臥する二人の耳に届いた。

「まるで、雨も浪も届かぬ、江水の底に、居るようでございます……」
彼の龍が、既に語尾を眠気に暈したように、
ぽつりと呟いたのを聴いて、
荒天が峠を越えた安心がゆえか、
其れとも、彼が龍の耳を匿ったがためなのか、
果たしてどちらなのか、妙に拘る己を自覚しながら、
「そうか」
彼は、問いかけるとも、肯定するともつかない、
曖昧な相槌を低く返して、龍の眠りを妨げないように注意した。

雷が遠のくごとに、すやすやと、眠りを深めているかの如き
龍の白い寝姿を見ながら、
彼はしばし、物思いに耽る。

「儂のことだけを考えているお前を見ていたいと、
ふと思うのは、……気の迷いであろうかな」
彼は、其の答えを期待せずに、眠れる龍に囁きかける。

ただ傍らで只管に、心行くまで眠らせて遣るためには、
あのように出会ってしまってはならなかったのかもしれない。

しかし、彼らは既に、あのように出会ってしまった。
天下三分は、龍が斃れるまで本来の意味ではもう
眠らないことと引き換えの約定のようなものだと、
彼が直感した日、なぜ其の代償を主に贖わせないかと、
不憫なまでの献身に、涙することすらできなかった。

連夜、傍らに臥せしめる其の意味は、
出会ったばかりのあの頃とは、少しく変容しつつあり、
せめて我より早く天に帰るなと願うがごとく、
龍から奪った昼寝の休息の習慣を、僅かでも補わせ、
惜しみなく好餌を与えて癒したいような、
そしていつの日か、この龍を遺してゆかねばならないであろう以上は、
其のあと、一刻でも長く、この温もりを覚えていられるようにと、
彼にとっては祈りにも似たことのようでもあった。

天下国家のことなど考えずに、
彼だけをあの澄んだ双眸に映し、彼のためだけに言葉を紡ぎ、
彼にだけ微笑み、そして昼下がりの、
胡蝶だけが舞っているようなひとときにまどろみ、
雷雨の夜ですら、彼の腕の中で朝まで眠っている、
其のようなための出会いかたは、なかったものであろうか。

「詮無いことだな」
遠雷を聴きながら、彼はひとり呟く。

既にこう出会ってしまったことは、
もはや動かしがたいことで、
たとえば彼が帝に対して忠誠を誓っているように、
この世にただ一条の龍が、身を挺して主に尽くすことは、
彼がどのような感情をいだいて其れを見ていようとも、
何ほどのこともなく、龍の心の中で、定まったことなのだ。

そして、もう定まってしまったことであるならば、
年老いたいつの日か、この廿も若い龍を隣に
出会うたときのような春のひだまりの中で
安穏な昼寝をさせて、また目覚めるまで、
待ち呆けていられるような、
其のような世をこの手で掴み取るしかあるまい。

新野の城の雷雨の夜に、二度と再び龍をひとりで泣かすまいと
誓った彼は今、いつの日か龍を傍らで長閑にを昼寝させようと、
思い至り、あらたに心を固めていた。

帝の御車に乗るよりも、何を措いても。