不像明鏡裡 (ふしょうめいきょうのうち) 前編

2010/11/13

3世紀(ファンタジー・詩歌他) うをとみづ3世紀SS

※このおとぎばなしは、いわゆる俺得で、
21世紀の公叔の物語とのクロスオーバーです。


----------------------------------------------------------


今上の叔父の、掌中の珠玉の如き一条の龍は、
枯れ葉が舞い始める初冬、軍議を終えて諸将が散会してから、
いつものようにこの主君と少し話し込み、
執務をするために御前を辞去しようとした。

「後刻な、茶を飲みに、邪魔しに行っても苦しゅうないか」
どのみち、夜の餐も一つの卓で摂るというのに、
ほんの少しの間すら惜しいという風情で、
龍の主君たる彼は、身を乗り出さんばかりにして、
廿も歳若い我が龍に、仄かに甘えるように問う。
「お待ちしております」
白い羽毛の羽を持った優雅な指を、
黒い袖の中で拱手して一礼すると、
龍は、主君だけに見せる透明な微笑を残して踵を返した。
その遠ざかる品の良い後ろ姿を、
彼は見えなくなるまで、目尻を下げるようにして追うのである。


「先生、お帰りなさいませ」
書童が、利発そうな慣れた様子で迎えると、
ほっそりとした人の姿をしたこの龍が、
右の眸のあたりを袖で気にしながら歩いてきたので、
「擦ってはいけません、先生」
機敏に房室の近くの水周りへ走ってゆき、
茶碗と、そして手鏡を持ってきた。

「先生……いつもより、痛そうです」
「二本ぐらい、入ってしまったのかも知れぬ」
龍は、片目をあけて腰掛に座り、愛用の白い羽の扇を卓に置くと、
書童が差し出す手鏡に鼻先を寄せるようにして、
右眸の中を覗き込む。
「ああ……これは厄介」
整った眉を顰めてみせる。抜け落ちた睫を眼球に認めたのだ。
「先生、綿花です」
「ありがとう」

龍は、よくこのようなことがあるので、書童も慣れたものだが、
(どうして先生の睫は、こんなによく抜けるのだろう。
抜けるにしても、なぜ見事に眸の中に落ちるのだろう。
眸が大きいのか、睫が長いのか、両方なのだろうか)
このこと自体は、いつも不思議に思っている。

龍が、綿花を細長く縒り、茶碗の水に浸して、
慣れた風情で右眸から睫を拾い上げようと
鏡を覗き込んだ刹那、鏡は眩しい光を放ち、
周囲は一瞬、銀世界のように真っ白に染まり、
あっという間に元通りになった。
ただ一つを除いては。

「あ・・・。誰? あなた、誰?」
書童は、目の前に座っているべき人物が、
別人であることに動転した。
(そうだ、護衛の兵を呼ばねば)
と、思いついた矢先、
「孔明や、約束もなしに来てしまったが、
 忙しいなら暇潰しをして、また出直すぞ」
「水鏡老師!!」
書童は、摩訶不思議な出来事のさなかで、
見知った賢者が現れたので、夢中で取り縋った。


「はは、こらこら、どうしたのじゃ、ん?」
「老師っ、先生が、先生が」
「ん・・・? 孔明なら、ここに、居るではないか・・・。
 ほほう・・・居るが、居らんな」

水鏡老師は、動じない様子で、裾に書童を縋らせたまま、
そこに座る若い人影をみつめた。

座っているのは、老師が訪ねようとした龍と同じぐらいの背格好で、
同じぐらいの年のころで、同じような知的な貌だちの、
人の形をした龍に他ならなかったが、
肩の近くに遊ぶ髪の長さや、身にまとう装束が全く違っていた。

道士にしては、杖を持っていない。
右手に、中指ぐらいの長さの、小枝のように細い白い棒を持ち、
薬指に指環を嵌めている。

「異界の臥龍、降臨か。長生きすると、珍しいものを見るな」
老師は呵呵と笑った。

書童よりも、もっと事情が飲み込めないように、
『異界の龍』は、綿でできているらしい棒を片手に、
呆然と座っている。

異界の龍と、書童が、何も話せないでいるので、
ひとり、老師が物語らねばならない格好になる。
「噂は……本当だったようじゃの、
鏡の仙童が、鏡の歪に落っこちてしまったという」
「老師、この人が……? 落っこちてきたのですか」
怖いものを見るように、僕童は異界の龍を見上げた。

「いやいや、このお人は、とばっちりを受けたのだよ。
この人の居たところに、お前の先生が行っておる」
「どうしてですか?」
「鏡は異界に通じる扉のひとつでな、たとえばじゃが、
時を越えるほどに強いつながりを持った二人の人間が、
全く同じ時刻に、全く同じ姿で鏡に映ると、本来、自由に行き来することができる。
だがそれでは、大変にまずかろう。
死んだ人間を生き返らせることすらもできることになる。
だから神仙は鏡の童子に、いつも隙間の番をさせていて、それを妨げているのだ。
その童がな、一人、先日、鏡の歪に落ちたらしい」
「じゃあ、先生は」
「鏡の向こうで、同じ格好をすれば、また戻ってくる」
「そんなの、どうすれば? ……あ、そうだ! 睫を、睫を取ってください。
先生も取ろうとなさるはず」

僕童が、まだ呆然としている異界の龍に、詰め寄るように言い募るので、
「待て待て、睫とは何じゃ」
水鏡老師は、事の前後を詳しく聞こうと、
どっこいしょ、と腰掛けながら問いかける。

「先生は、よく目に睫が入っておしまいになるのです。
それで、先ほど、この鏡に向かって、右目の睫を取ろうとなさっていたのです」
「成程、すると、御身様も、睫が入っていたのかな」
老師は、異界の龍に、柔らかに問う。

「はい。そうでした」
異界……21世紀という遠い世界から来た龍が、漸く口を開いたので、
「これは驚いた。聲がそっくりじゃ」
老師は、安心させるように冗談を言ってみたつもりだが、
事実、翡翠を転がすような聲音は、良く似ていた。

「御身様は、今も睫を取りたいか」
「……吃驚してしまって、どこかへ行ってしまいました」
「それご覧。お前の先生も、今は吃驚して、睫を取るどころではない」
「ならば、どうしたら、どこかに居る先生と、この方を、
同じ姿で鏡に映すことなどできましょう」

書童は、今にも泣き出しそうな顔で、老師に涙声で訴える。

「ワシが気付いたのじゃ。神仙が気付いておられぬはずはない。
軽挙妄動するでない。成る可く、ここから離れないで居ることだ」
「……お茶を、淹れてきます。
こんな時は一服するって、先生、おっしゃりそうです」
書童は、とぼとぼと、小さな厨の方へと消えた。

「御身様は、よほど孔明と深いかかわりがあるらしい。
事実、初めて会った気がせぬのう」
老師は、殊更にのんびりと言ってから、愛弟子を見るようなまなざしで
目を細めて笑んだ。
「なぜ、わたくしの名をご存知ですか」
「やや、名まで同じか。ますます放っておけんのう」

まるで祖父のように、心地よい距離感で座る老爺に、
何となく安心感を得て、21世紀の亜細亜の鏡から
漢王室の世にやってきてしまった龍は、
(まるで、歴史時代劇のセットの中です)
と、驚き半分、好奇心半分に、辺りを観察していた。

ややあって、書童が蓋碗を運んできたが、
門の外の衛兵の呼ばわりを聞いて、急に立ち止まり、
部屋の隅で控えるような姿勢をとった。

「これは水鏡先生、お越しとはお珍しい」
彼は、約束どおり我が龍とともに
茶を喫しようと、足取りもかろくやってきた。

「はは、皇叔の惚気を聞かせていただこうかと思いましてな」
「大事なお弟子を苛めていまいか、見張りにいらしたのでは」
「何の。どう可愛がっておいでか、見に来たのですぞ」
老師と親しげに話し合っている。
「おや、孔明は留守か。先生がお越しなのに」
「居るには居りますぞ」

異界の龍は、背の高い冠を正した、袖の広い、裾の長い、
卑しからぬいでたちの、耳の巨きな初老の男が、
老師と会話する光景を単なる景色としてしか見ていなかったが、
その初老の男が歩み寄って来ると、
なぜか迎えねばならない気分になって、機敏に立ち上がる。

「ふむぅ。孔明ではない……とは、たしかに断じかねますな」
つい、初対面にしては不自然なほど近くまで寄って、
彼は温雅に言った。
貌は全く異なるのに、佇まいや、何気ない仕草が、我が龍によく似ている。

彼は、おっとりと茶を喫みつつ、水鏡先生の奇怪な話を聴いて、
「来られたものは、きっと戻れよう」
磊落に、笑いながら、
(この容貌であったら、いっそ、奥らに匿わせたほうが
よいだろうか、否、いくら奥らが寛容でも、婦女ではない以上は拙かろう、すると・・・)

鏡がある部屋に暫く置いて遣れと、
一身胆の将軍に言い含めようという考えが浮かんだ矢先、
「皇叔、もしあ奴が戻れないとしてもじゃ、
この異界の臥龍も、ゆくゆく情況を飲み込んだならば、
充分お役に立つでありましょう。ご懸念無用」

老師の、落ち着き払った聲に続いて、ずず、と茶を啜る音が聞こえた。
「何と言われたか、水鏡先生」
先ほどまで、目尻に笑い皺を刻んでいた機嫌のよい貌が、
みるみる険しくなる。
「先生のお言葉とも思えませぬ。
手塩におかけになった弟子が、我が為に謀る末がどうなろうか、
その御目で見届けたくはないのですか。
儂とて、孔明なくして「ゆくゆく」など、あり得ませぬ」

荒くなってゆく語気に、部屋の隅に控える書童の肩が、びくりと跳ね上がる。
(殿様のご勘気を、初めて見た……)
自分が叱られたわけでもないのに、
早く先生は帰らぬものかと、また涙目になっている。

「おお……これは失言。どうか許されよ。
それほどまでに、ご重用とは夢にも思わずに。あ奴も果報者でございます」

年長の老師が、神妙に拱手して許しを請うので、
「先生、儂こそ、つい大きな聲を」
彼も我に返って、礼を尽くしながら、
「しかし、すぐにでも戻らねば、本当に困るのです」
(たとえば、夜が来てしまったら、あれは眠れるのであろうか)
困ることの筆頭に、そんな他愛も無いことが、彼の頭を掠め、
卓の上に頼りなく置き去りにされた、白い羽の扇をじっと見つめた。



(後編につづく)