望蜀美酒月光杯 (ぼうしょくのびしゅげっこうのはい)

2010/10/01

うをとみづ3世紀SS

「申し上げます。軍師がお越しになりました」

取次ぎが聞こえ、今上の叔父たる彼は、
長椅子に座って額に乗せていた水手拭をとると、
「来たか。通せ」
すこし、大儀そうに命じた。

「蜀人は、酒が強いのぅ」
酔った気配もなく、澄んだ泉のように現れた、
掌中の珠玉たる龍の姿を認め、彼は苦笑してみせた。

「御酒が過ぎましたか」
気遣わしげに、そば近くに跪いた龍のほそい肩に、ずっしりと掌を置くと、
「いや、そちは勧め上手、鳳雛は酒豪じゃ。そうでなければ、とうに潰れておる」
案ずるなと言いたげに、肩に置いた掌を、優しげに、とんとんと上下させて、
これより先、儂の為すべきことの半ばは、酒宴であろうに、
齢じゃな、酒が弱くなった。
と、笑いに紛らわせながら語ると、
「すまんな」
西への足がかりを作るために、龍と鳳が企てたこの招宴について、
含むところがあっての中座ではないことを、暗に示して、
「ころあいと見て、迎えに来たのであろう。参ろう」
手拭を侍従に預けると、ゆっくりと掌を座った膝に置き、
しばし瞑目してから、徐に立ち上がった。

夜風にのって、座のさざめきや、手を拍つ音が聞こえてくる。
いまごろ、主賓たる蜀の論客に、鳳が巧みに接近しているのだ。

酔い覚ましの必要は勿論だが、その距離を縮める切欠をつくるためにも、
彼は、わざと中座した。
あとは、彼の龍が、迎えに来るはずだと、わかっていた。

いかん。
酒が、足に来ておる。
廊を巡りながら、足元に気をつけようとした矢先、
普段は歩き慣れているはずの、石敷きの、ほんの少しの段差に躓いた。
よろけるところを、彼の長い腕は廊の円柱を辛くもとらえ、
同時に、半歩うしろから、しがみつくように
扶けを伸べた、我が龍の手にも救われた。

「いま少し、お休みになりますか」
ひとまわり小柄な龍の薄い背に、
その長大な左腕を覆いかぶせるような具合になりながら、
心配そうに主君を見上げる其の貌は、
月明かりに、とても眩しかった。

「・・・孔明よ」
彼は、その眩しさに、うろたえて思わず目を閉じ、酒気の多い溜息をついて、
「気が確かなうちに、言うておくぞ」
いまから君命を聞くことに、眩しい貌が、さっと改まるのが、
目を瞑っていても彼にはわかった。

君命というほどのことではないのを、いささか気の毒に思いながら、
「宴のあと、何事かあっても、明日にいたせよ」
目を開けると、彼の珠玉は、唇をほんのうっすらと開けて、
珍しく怪訝な貌をしていた。
「儂は、大酔すると、寝相がわるい」
言いながら、我ながら何を言わんとしているのか、
ところどころ朦朧としてくるのが分かる。
いよいよ、酔っている。

「一処に居てはならん。そちの身に、誤りがあってはならん。よいな」
その言葉の解釈は、龍の明晰な頭脳に委ねてしまえばよい。
いまはただ警告を発しておくべき時だと、
心の奥の、王たらんとする一隅が、彼に言わしめたものだった。
たとえば、半ば習慣的に傍に臥して、
強かに蹴飛ばされ、寝台から落とされて
怪我をするようなことが起こるのか、
然もなくば。

どう考えたかは分からぬが、
少しは盃を重ねたとみえる、やや色づいた双眸を見開いて、
瞬きを忘れたような龍の貌に、ふと柔らかく笑んでみせ、
「これ、然様に可愛らしい貌を、するでない」
彼の龍は、まだ四十にも満たないが、
いい歳をした立派な大人をつかまえて、可愛らしいはなかろう。
笑い皺を寄せた目は、据わりかけていたに違いない。
嫌われたであろうか。

童にするように、拇指の分厚い指の腹で、白い頬を小突いて、
酔いの上の戯れのように振舞い、
参ろうか、と、
熱を帯びた長い腕から、龍を解放して誘った。

螺鈿をちりばめたような小さな盒に仕舞って、
そっと育み続けているがごとくの、
どうすれば遂げられるのか、皆目わからない、一種の情念に、
たとえば、この唇を、奪ってしまってみてはどうか。
そんな埒もない考えが、よぎることもある。
あるいは、其れでもよいのかもしれないが、
間違いではないにしても、最善ではないような気がしてならない。

これこそ年の功のゆえであろうか、
性急に答えを得ようとしない途方もない気の長さも、
彼の美点のひとつである。
この龍とともに、建国という事業を行っている、
これこそに、至高の悦びを見出すべきであろう。

彼が王であり、彼の珠玉は龍である、
斯様に心を一にしている満足を、愈愈に覚えながらも、
なんともいえず、もどかしいような思いに囚われることも
近年益すばかりであり、これは、人ゆえの業であろうか、
生まれながらの王は、このような感情を持たないのだろうかと
思いあぐねて、、
もしも天が口を利けるのであれば、
問いかけてみたいことだとさえ思う。

この名状しがたい想いを、龍に伝えてはならない。
然りながら、いっそのこと、知られて了えば、
何か報われるのだろうか。
否、聡い龍のこと、気取られていても不思議はない。
この胸の裡の、苦み走った痛みの名を訊いては、
龍は答えざるを得ないだろう。

そして、答えた以上は、王たる彼の望むままを演じざるを得ないのではないか。
答えを知っていることと其の後どうすれば良いかを知っていることは、
必ずしも一ではない。龍を困らせる問いを、發してはならない。

己自身が傷つくことよりも、龍を傷つけることの方が恐ろしく、
今宵も彼は、まだ得体の知れない情念から、
彼の龍をみずから護った。