夜深静臥夢見王 (よるふかくしずかにがすれば ゆめにおうをみる)

2010/09/01

うをとみづ3世紀SS

このおとぎばなしは、大変ぬるいですが
後半部に微エロな表現を含んでおります。
  心身ともに大人のおねえさまのご覧を推奨します。



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「痛・・おお、痛」
今上の叔父は、夜中に寝台から転げ落ちて、
床に額を打ち付けたらしく、瘤をつくり、
目覚めが良いとはいえぬ、冴えない朝を迎えていた。

(参った。やはり、独り寝は、いかん。というよりも、
 独り寝せねばならぬ事に、なるのはいかん)

瘤に加えて、二日酔いの軽い頭痛で、
内側からも外側からも頭が痛むような按配である。
寄る年波のためか、近頃の酒は若い頃のようにはゆかなくなった。

心地よく酔ったかと思うと、既に度を越していて、
どうやって寝台に入ったのかも覚えていないことが増えてきたことに気付き、
この頃は、呑みすぎたと思った日は、彼は侍従に無意識のうちに、
「今宵は独りで寝るのだから、誰が来ても明日にいたせ。よいな」
と、暗に我が龍をすら近づけないように言いつけて、
広い寝台で大の字に伸び、高鼾をかいて眠ってしまうのだ。

ただし、翌朝は目覚めも機嫌も、頗る悪い。

彼は、痛む頭を押さえながら、むくりと起き上がり、
いつもならば隣で大人しく眠っている筈の
この世で唯だ一条の龍の姿がないことを、
きわめて淋しく味気なく思いながらも、人知れず安堵の溜息をつく。

(夢を、見たのう。何故、落ちたのだったな)
普段、彼は夢をあまり覚えていないのだが、
このような時に限って、断片的に覚えている。

(そうじゃ、なにやら、寒いところにおった)
 

 吐く息が白い、暗闇に、彼は立っていた。
 
 寝衣ではなく、日用の衣に佩剣して、
 雪の日に着用する毛の外套を纏って、
 龍がどこにも居ないので、探していた。
 しじまにも、彼の巨きな耳には、龍の啼き聲だけは
 聴き違うこともなく確かに届いて、聴こえる方向に
 迷いもなく闇を進む。

 氷でできたような、透き通った荊の垣に行く手を阻まれ、
 (氷に剣は、歯が立つまい)
 と、剣を鞘ごと取り上げて鐺で叩き落しながら進むと、
 磨かれたように冷え冷えとした、霜で曇った氷の壁が現われた。
 
 息を吹きかけて、分厚い指で一本線をひくと、
 透けると思った氷は真一文字に溶けてしまい、向こうが見えた。
 
 見慣れた、漆黒の衣に身を埋めたような彼の龍が、
 凍土のようなところに、俯伏せていて、
 白い指先以外、確たるものが何も見えない。
 
 文字通り、背筋が凍って、彼は目の前の氷の壁を
 鐺で叩きながら、力任せに蹴り倒し、伏している龍に駆け寄る。
 足元が覚束ない。急げば急ぐほど、空回りをするようなもどかしさ。
 ようやく腕にした龍は蒼白で冷たく、髪にも睫にも霜がついていた。
 
 「孔明、しっかりいたせ、目を開けよ。儂じゃ、孔明」
 強く揺さぶっても、一言も発しない。

 彼は、未だ嘗てないような恐怖に震えながら、
 凍った龍の頬を軽く叩き、細い肩を掴む。
 思いついて、頸に手を遣ると、か弱く脈の手ごたえを得て、
 (まずは、ここから出ねば)
 冷え切った軽い體を抱き上げて、元の方角へ足早に戻る。

 剣は使えないというのに、彼が通ると氷の荊はみるみるうちに
 焼かれるように溶けてゆき、雨のように水滴を降らせるのだった。

 そのうちに、足元の氷も霙のようにぬかりはじめたかと思うと、
 だんだんと、歩むごとに溶ける氷の階段を下りるような形になり、
 終には底が抜けるような勢いで、彼は冷たい龍を腕にしたまま、落下した。


(そこで、落ちたのだったな)
彼は、その後、我が龍を救い得たのか否かを思い出せなかったが、
いずれにせよ夢でよかったと、痛む頭の片隅で思い、
一刻も早くあの白い貌を見て安堵したく、
龍が目通りを請いにやって来るのが待ち遠しかった。

同じ頃、彼の龍も、ちいさな房室の隅の細長い寝台で、
ひとり、朝を迎えていた。
夢見の悪さに、目覚めたときには頬を涙が濡らしていた。


 生まれ出づる前なのだろうか、思考はあっても、
 知覚はなく、言語を發することもできない。
 呼吸もしていないようだが、ただ、鼓動だけはあるようだった。

 まるで、何も無いところへ、筆よりも優しい何かで、
 描き出されるが如くに、人の形を辿られるような感触を覚えて、
 そう感じたところから、姿を与えられていくようだった。

 まず、眸が開いた。
 思考の中で探していた、慕わしい人の貌が、すぐ近くにあった。
 其の人の唇が、龍の名を紡ぐ形に動いたが、聲は耳に届かなかった。
 視界から其の人の貌が消え、右耳を描き出されるように
 辿られて、ようやく聴こえた。

 「聴こえておるか、孔明」
 心配でならない様子で、穏やかな聲の主は問うた。
 応えを返そうとするのに、龍には唇が無い。
 頷こうにも、眸と鼓膜以外は無いかのようだ。

 「ああ其処は、まだであった。待っておれ、今……」
 其の人の額が視界一杯に呈されると、
 紅でも引かれるように、何かに唇を辿られる。

 歯を、舌を、確かめられるように為されるときに、
 はじめて、冷たい唇と、熱いほどの唇が触れ合っていることに驚いた。
 「・・がきみ」
 掠れた小さな聲を耳にして、
 「おお、やっと儂を呼んだ」
 彼は、涙を零さんばかりに、喜色を満面に浮かべる。

 「これは一体、どうした事でありましょう」
 龍は、いま言葉を話す自由を得たばかりの、奇妙な感覚と、
 いま主君に為されたことへの当惑に、激しく混乱して、
 早口に問う。

 「儂にもわからん。ただ、お前は今、酷く凍てついておってな、
  これを解くには何故か、儂がの、唾をつけてやらねばならぬらしい」
 誰も居らず、火も湯もなく、途方に暮れながらも、あれこれと試み、
 傷口を舐めるような要領で、ようやく彼はこの方法を
 見つけたらしい。

 止む無く衣を剥いだのは許せ、と、言いながらも、
 たっぷりとした外套で其の冷たい龍を護るように覆って、
 まるで禽獣の親が仔の毛づくろいでもするように、
 余念も無く貌を寄せる。

 「奇怪でございます。たとえば妖かしで、わたくしが
  毒盃であったなら、何となさいます」
 「それでそなたが助かるならば、儂はそれでよいぞ」
 彼は、何ほどの事とも思わず、けろりとしている。
 「うつつの事とは思えませぬ。早くお逃げください」
 「この、馬鹿者が」

 努めて冷静に述べたつもりの諫言を、遮られた。 
 「たとえ夢や妖かしであっても、お前が事切れなんとしているのを
  見過ごせというか。儂には出来ん」
 「では、念のため・・これからのことを、出来得る限り申し遺しますのでお聴き下さい」
 「言うな。そなたなくして、これからなどあろうか。今は、助かることだけを考えよ」

 そう言いながらも、彼は、ああ、そうじゃ、と独りごち、
 龍の鼻先に貌を寄せた。
 鼻腔に、暖かい湿潤が侵入して、離されると通気する。
 今まで、呼吸が不自然だったのは、ここが塞がっていたためだった。
 このような処まで気が付くのは、彼が我が龍を救うこと以外、
 考えていない証しでもある。

 「我が君の、御髪の香りがいたします」
 不測の事態に慌てていた龍が、やや平静を取り戻したように
 常のように微笑んでみせたので、
 彼も、
 「そうか、もう歳じゃのに、いつまでも若向きの髪油を 用いておると、夙に知られておったか。ばつが悪いのう」

 彼もその言葉に救われたように冗談を言って、
 明朗な笑い聲を發して、龍の安心を誘った。
 細い鎖骨を、薄い胸を、臍の窪みを経て、

 両の足の拇指と拇指の間すら、躊躇いもなく辿ろうとする彼に、
 「斯様なこと、成りませぬ」
 と、脚を屈めて強く制止しようとするが、まだ脚がない。
 かわりに、ぎこちなく頸を振ってみせても、
 「忌まわしゅうはあろうが、辛抱しておくれ」
 と、彼は意に介そうともしない。

 而し、龍の白い頬を、何ゆえか涙の筋が伝ったのを見て、
 「そうじゃ、赤子になった積もりでおればよい。 儂は、目を瞑っておるから」
 それこそ、童に言い含めるように、
 柔らかく宥めるので、龍は余計に涙聲になりながら、
 「忌まわしくなど、御座いましょうか……誰が。わたくしを救わんが為に、
  我が君の他に、誰が斯様な事まで」
 きっとこれは、不謹慎なことに嬉し涙なのであろうと、
 龍は、この心の揺れを理解したが、其うまで為されては、いまの互いの意思と は無関係に、體は浅ましい反射を呈するであろうことが、恐ろしかった。
 
 其の恐ろしさを優しく庇うのは、彼の分厚く暖かい外套で、
 彼のほかに、誰一人居ないというのに、
 我が龍を気遣って、いちど蘇生させた膚を、
 たちまちに外套で追いかけ覆い隠してしまう。
 艶かしいような印象が濃いことであろうのに、實は全く逆なのだとは。
 
 そして、龍の怯えを察したかのように、彼は言い聞かせる。
 「たとえこれが夢であって、今、うつつに戻り、
  哀れな寡の主君が 若い寵臣を慰んでおるかのように、
  誰ぞの目に触れて疑われようとも、そのようなこと、
  儂は一向に構わぬのだから……、そなたは何も案ずるな」
 
 その、かなしいほどに一点の曇りもない皓さに
 (我が君は、どこまでも、君子であそばす)
 あらぬことがよぎるのではないかという懸念は杞憂で、
 無心な介抱と、清らかな恩寵に浸って、
 龍は本当に嬰児になってしまったようだった。

 施されようとする刹那に、體が縮んでゆくように感じた。
 記憶すらも、時を逆さに回すように戻ってゆく。
 赤壁の炎、あまたの民を従えての行軍、新野の水火、
 三顧の御恩、雪の日の書簡、隆中での暮らし、兄との別れ、
 老師との出会い、叔父の、母の、父の葬儀、
 幼い兄弟三人の思い出の日々……

 いけない。
 龍に生まれてしまったら、再び我が君にお会いできまい。
 よしんば、これから再び人に生まれても、
 我が君がこの世にましますうちに、
 もう一度見つけていただけるのだろうか。
 臣は、お傍を離れてはいけない。
 否、
 離れたくない。



龍は、涙ながらに主君を聲の限りに呼び、
そこで目が覚めた。

想念は存在するというのに、肉体というものが有って無きが如き時。
それは、母の胎内というところよりも、
ずっと以前のことだったのかも知れない。

遠い日に、龍は、本当に龍になってしまおうか、
それとも人に生まれようか、迷っていた事を思い出した。
人に生まれよ、と呼びかけたのは、まだ見ぬ王であった。
必ず見つけ出すからと固く約したのも、其の人であった。
その意思を信じて、龍は人の姿に生まれることを選んだのだ。

このまま朝早く出仕してしまえば、あの仁君に、
泣いていたことを見破られて、理由を問われることは
分かりきっていたが、今はただ、すぐにでも
無二の王のあの貌を見、聲を聴きたくてならず、
龍は急いで、しかし丁寧に身支度を整えはじめた。



一体、誰が見た夢だったのか。
果たしてどこまでが、そしてどこからが夢だったのか。
彼が佩いた剣の鐺に、何か固いささくれ立った鋭利なものと
争った痕が増えていることに、このとき誰も気付いていなかった。