彼は、草莽の頃から来る者拒まず去る者追わず、おっとりとした人品は隠れもなく、自然、人物が群がり集まって来るので、客人が多い。来もせぬのに三たび請うてまで召し出したのは、我が龍ただ一人である。
いま逗留している客人というと、廿年も昔に見知った蘇という男で、この年頭に訪ねてきていた。
蘇は、彼と次弟と三弟とが義兄弟の誓いをたてて、故郷をあとにする折しも、
駿馬五十頭を恵んでくれた張世平の縁者である。
「やはり、張の伯父が見込んだおかたです。今や、伯父が案じていた経営のほうもお手抜かりないご様子、お慶び申し上げます。我々が献じた微々たる五十頭が、このような王風の地のもといとなろうとは、いやあ、鼻が高うて」
と、美酒十樽を運んできた馬ごと、彼に再び貢ぎに来たのである。
襄陽の首座で迎える初めての正月を言祝ぐ意味合いで、心にかけて整えて来たことは明らかであった。
微笑を含んで、蘇の自慢を穏やかに聴いている彼の斜め向かいから、
「鼻高いのは俺らっス。あんたホントに、商人にしておくのはもったいねえ気風のよさだ。しかもこの酒! 旨くて止まらねえよ。分かってるゼ、大したお人だ」
蘇を褒めたいのか、美酒を褒めたいのか、わからぬ態で、彼の末弟が虎髭を
つやつやとさせながら、上機嫌で話の腰を折る。
「失礼、こ奴は、酒となると目がない口でござって。笊に飲ませるには惜しい美酒でござる。昔日、一介の浪人風情の我らにお情けをおかけ下さらねば、
今宵、酒を酌み交わすことなど叶わなかったことでしょう」
棗色の顔で、酔っているのかどうか分からない風情で、彼の次弟が、長髯を悠悠と撫でながら慇懃に話を戻すこの呼吸は、実に慣れたものである。
「いやいや、さすがに豪傑でおいでです。あの頃から、お声の大きさもおかわりない」
蘇は、裏表のない虎髭の酔眼を好ましく見つめて昔をなつかしみ、
「私など、伯父の腰巾着のようなものでして。商人どもの間では、伯父の先見の明は、いまだに一目も二目も置かれておるのです。
……我らの商売は、いまや劉皇叔のご人望を抜きにしては語れません」
話を繋ぐついでに、彼に花を持たせることも忘れない。
「昔日の五十頭は、いま思えば千頭にも値します。そのご恩にいささかも報いることなく、また過分な思し召しを受け取れましょうや」
と、彼は辞を低うしたが、
「このたびも、駿馬をすこし連れてまいりましたゆえ、いずれは帝をお護り奉る騎馬の一頭にでもお加えいただければ、末代までの誉れ。
……我らには、国取りに加わる度胸はございませんが、金勘定のうえで世を招こうとする心意気ぐらいは、持ち合わせておるのでございます」
と、伯父譲りの気骨を見せるので、
「では、馬も儂も、歳をとらぬうちに」
彼は祈りにも似た思いを込めて言挙げして、杯を捧げ持った。
「蘇大人のご商売、ますますご繁盛をお祈りします」
「やや、これは勿体無い。漢室の弥栄と、
皇叔のご武運ご長久をお祈りします」
互いに礼を尽くして杯を干し、酒はさらに幾度も巡るのであった。
その頃、彼の龍は、星の見えぬ黒い夜空のもと、雪雲の発生を仰いでいた。
彼は昔馴染みとともに痛飲して酔いつぶれてしまうに相違なく、また、
大酔すると傍らの我が龍に注意が行き届かなくなる恐れを、彼が避けたく考えていることを、聡明なこの龍は気づいており、このような夜は、頃合を見てそっと宴を抜けてくるのであった。
一人寝することになる前に、ひとけのないこの北面の楼台に登ってきて、最前の茶楼での一幕からずっと気にかかっていた件の笛を左に構えてみる。
はじめは、掠れたように寒気を嫌っていたが、試しに懐に入れて、袖で覆ってしばらく温め、再び歌口に唇を寄せると、機嫌を直し始めたようだった。
孔を塞ぐ指を一つずつ減じながら、音色の具合を確かめて、徐に歌い始めた。
いにしえのすめらみことの大舜を
たたえて重華と申しあぐ……
あの少女の笛が歌った今様の旋律は印象的で、耳の奥に残った記憶に一音ずつ沿うように奏でてみた。
少女が吹いていた音に沿って、どうしてもこの「左」の笛で吹いて、確かめねばならない気がしていたのだ。
あの日の小さな手の指の運びは、かわいらしくも笛によく慣れた趣で、いささかの危なげもなかったが、幼少であるがゆえに、息つぎの箇所が多くなるのはやむを得ぬ面があった。
しかし、歌手の少年に息の長さを補われ、歌声に和す笛の響きには、ときおり、三百歳の仙女から気を与えられているかのような、目に見えぬ深みの如き年輪が感じられたのだ。
名笛は、歌うだけでなく語るものである。あの茶楼で少女の笛を聞くや、
龍はかねて彼から預かった一支の笛が気にかかっていた。
(わたくしは、あの音色を知っていたのではないか)
あの日なぜか、涙を催してしまったその理由を探すと、慕わしい人をついに見つけたような懐かしさに似ていた。
三度も繰り返していると、指の運びにも慣れて来、自由な気分で吹けている。
心地よい明るい旋律に、龍は双眸を閉じて、酔うような心地でいた。
冬の夜はしんしんと更けてゆくのに、軆はいつになく暖かに感じる。
そのうちに、瞼の裏に、まるで絵を順繰りに見せられるような錯覚に陥った。
いにしえの王の都の九重で
わたしは歌うておりました
右におなじの笛ならべ
ひねもす歌うておりました
みやこは荒れてその笛と
離れ離れになりました
たれかご存じあるまいか
銘は「右」の二文字です……
歌詞が聞こえるのではない。
笛の来し方が絵になって、順をおって繰り返し、心に去来するような風情である。
いつぞや、この笛が泣いたように思えたのは、片割れを探す助けを呼びたかったのであろうか。
果たして笛自体に心などあるものかどうか、龍には分からないが、この笛の管尻を裏返してみれば、小篆で「青龍」、左を意味する銘が彫られてあったのは過日みとめたとおりである。
いま、笛が歌って物語った気がしただけの内容をうつつの事と信じるなら、この笛は、どこかにある「白虎」の笛と一対で、左右に並んで合奏していたということになる。
(……あの笛なのだろうか)
雪雲は愈愈に厚く、不穏な気配を醸して、今宵は天文を見ることが叶わぬので、龍は筮竹に問うことにして、楼台をあとにした。
いま逗留している客人というと、廿年も昔に見知った蘇という男で、この年頭に訪ねてきていた。
蘇は、彼と次弟と三弟とが義兄弟の誓いをたてて、故郷をあとにする折しも、
駿馬五十頭を恵んでくれた張世平の縁者である。
「やはり、張の伯父が見込んだおかたです。今や、伯父が案じていた経営のほうもお手抜かりないご様子、お慶び申し上げます。我々が献じた微々たる五十頭が、このような王風の地のもといとなろうとは、いやあ、鼻が高うて」
と、美酒十樽を運んできた馬ごと、彼に再び貢ぎに来たのである。
襄陽の首座で迎える初めての正月を言祝ぐ意味合いで、心にかけて整えて来たことは明らかであった。
微笑を含んで、蘇の自慢を穏やかに聴いている彼の斜め向かいから、
「鼻高いのは俺らっス。あんたホントに、商人にしておくのはもったいねえ気風のよさだ。しかもこの酒! 旨くて止まらねえよ。分かってるゼ、大したお人だ」
蘇を褒めたいのか、美酒を褒めたいのか、わからぬ態で、彼の末弟が虎髭を
つやつやとさせながら、上機嫌で話の腰を折る。
「失礼、こ奴は、酒となると目がない口でござって。笊に飲ませるには惜しい美酒でござる。昔日、一介の浪人風情の我らにお情けをおかけ下さらねば、
今宵、酒を酌み交わすことなど叶わなかったことでしょう」
棗色の顔で、酔っているのかどうか分からない風情で、彼の次弟が、長髯を悠悠と撫でながら慇懃に話を戻すこの呼吸は、実に慣れたものである。
「いやいや、さすがに豪傑でおいでです。あの頃から、お声の大きさもおかわりない」
蘇は、裏表のない虎髭の酔眼を好ましく見つめて昔をなつかしみ、
「私など、伯父の腰巾着のようなものでして。商人どもの間では、伯父の先見の明は、いまだに一目も二目も置かれておるのです。
……我らの商売は、いまや劉皇叔のご人望を抜きにしては語れません」
話を繋ぐついでに、彼に花を持たせることも忘れない。
「昔日の五十頭は、いま思えば千頭にも値します。そのご恩にいささかも報いることなく、また過分な思し召しを受け取れましょうや」
と、彼は辞を低うしたが、
「このたびも、駿馬をすこし連れてまいりましたゆえ、いずれは帝をお護り奉る騎馬の一頭にでもお加えいただければ、末代までの誉れ。
……我らには、国取りに加わる度胸はございませんが、金勘定のうえで世を招こうとする心意気ぐらいは、持ち合わせておるのでございます」
と、伯父譲りの気骨を見せるので、
「では、馬も儂も、歳をとらぬうちに」
彼は祈りにも似た思いを込めて言挙げして、杯を捧げ持った。
「蘇大人のご商売、ますますご繁盛をお祈りします」
「やや、これは勿体無い。漢室の弥栄と、
皇叔のご武運ご長久をお祈りします」
互いに礼を尽くして杯を干し、酒はさらに幾度も巡るのであった。
その頃、彼の龍は、星の見えぬ黒い夜空のもと、雪雲の発生を仰いでいた。
彼は昔馴染みとともに痛飲して酔いつぶれてしまうに相違なく、また、
大酔すると傍らの我が龍に注意が行き届かなくなる恐れを、彼が避けたく考えていることを、聡明なこの龍は気づいており、このような夜は、頃合を見てそっと宴を抜けてくるのであった。
一人寝することになる前に、ひとけのないこの北面の楼台に登ってきて、最前の茶楼での一幕からずっと気にかかっていた件の笛を左に構えてみる。
はじめは、掠れたように寒気を嫌っていたが、試しに懐に入れて、袖で覆ってしばらく温め、再び歌口に唇を寄せると、機嫌を直し始めたようだった。
孔を塞ぐ指を一つずつ減じながら、音色の具合を確かめて、徐に歌い始めた。
いにしえのすめらみことの大舜を
たたえて重華と申しあぐ……
あの少女の笛が歌った今様の旋律は印象的で、耳の奥に残った記憶に一音ずつ沿うように奏でてみた。
少女が吹いていた音に沿って、どうしてもこの「左」の笛で吹いて、確かめねばならない気がしていたのだ。
あの日の小さな手の指の運びは、かわいらしくも笛によく慣れた趣で、いささかの危なげもなかったが、幼少であるがゆえに、息つぎの箇所が多くなるのはやむを得ぬ面があった。
しかし、歌手の少年に息の長さを補われ、歌声に和す笛の響きには、ときおり、三百歳の仙女から気を与えられているかのような、目に見えぬ深みの如き年輪が感じられたのだ。
名笛は、歌うだけでなく語るものである。あの茶楼で少女の笛を聞くや、
龍はかねて彼から預かった一支の笛が気にかかっていた。
(わたくしは、あの音色を知っていたのではないか)
あの日なぜか、涙を催してしまったその理由を探すと、慕わしい人をついに見つけたような懐かしさに似ていた。
三度も繰り返していると、指の運びにも慣れて来、自由な気分で吹けている。
心地よい明るい旋律に、龍は双眸を閉じて、酔うような心地でいた。
冬の夜はしんしんと更けてゆくのに、軆はいつになく暖かに感じる。
そのうちに、瞼の裏に、まるで絵を順繰りに見せられるような錯覚に陥った。
いにしえの王の都の九重で
わたしは歌うておりました
右におなじの笛ならべ
ひねもす歌うておりました
みやこは荒れてその笛と
離れ離れになりました
たれかご存じあるまいか
銘は「右」の二文字です……
歌詞が聞こえるのではない。
笛の来し方が絵になって、順をおって繰り返し、心に去来するような風情である。
いつぞや、この笛が泣いたように思えたのは、片割れを探す助けを呼びたかったのであろうか。
果たして笛自体に心などあるものかどうか、龍には分からないが、この笛の管尻を裏返してみれば、小篆で「青龍」、左を意味する銘が彫られてあったのは過日みとめたとおりである。
いま、笛が歌って物語った気がしただけの内容をうつつの事と信じるなら、この笛は、どこかにある「白虎」の笛と一対で、左右に並んで合奏していたということになる。
(……あの笛なのだろうか)
雪雲は愈愈に厚く、不穏な気配を醸して、今宵は天文を見ることが叶わぬので、龍は筮竹に問うことにして、楼台をあとにした。