翌日は朝から雪が降っていた。
しんしんと、時々強い風とともに降り積もる雪景色を開け放った扉の向こうに見遣りながら、
「隆中の、あの竹林の雪景色が、懐かしいのう。一幅の絵のようであった」
と、彼は双眸をまぶしそうに細めた。我が龍が、あの日の不在を詫びようとする気配を制して
「そなたと、隆中で雪見酒を飲むのは、……いつの日になろうかな」
いまだ功ならざる現実を白い吐息にして、彼は、共に王道を踏んでいる今をこそ重く見ていることを婉曲に伝えたつもりである。
彼が恵む君恩は、降り積む雪のように、日々うず高くなるばかりで、仮にあの日から数えるならば、三千丈にも届こうというほどである。
廊の向こうの、冷気をはらんだ雪景色のまばゆさは、そのまま彼に備わる王徳の光のようで、この世で一条の龍は言うべき言葉を失って、今はただひとことを囁き返すのがやっとであった。
「我が君」
「うむ」
そのただひとことは、十分に彼の心に響き、雪をあざむく清げな白皙へ、彼は穏やかで慈愛に満ちた笑顔を与える。
政務の合間に、茶を喫する段になり、ようやく
「この間の、笛のことなのでございますが……」
と、龍が口を開きかけたその時、具足が触れ合う金属的なせわしい音が廊から近づいて来、
「殿、軍師、申し上げます」
ひとりの伝令が、さっと片膝をついて跪いた。
「何事か」
彼は威儀を正しながらも、雪中の険を冒してまで兵を起こす愚挙を踏む者は
誰も居らぬ状況から、落ち着いて応じた。
「いましがた、城内の繁華街にて、突風と思われる事故が発生いたしました。民家大小およそ二十棟が全半壊、ただいま、怪我人の救出にあたっております」
「どのあたりか」
龍は硬い表情で早口に問うた。
「大街三条の……。張将軍ご贔屓の肉屋の周辺です」
我が龍が、愛用の白羽扇をぴたりと止めて立ち尽くしているので、彼は
(いかがした、孔明)
と、即座に心にかけたが、いささかの動揺も見せずに、続きを問うた。
「誰も命に別条ないか。火は出ておらんか」
「幸い火事はございません。雪ゆえ、出歩く者はすくなく、死者は未確認です。瓦礫の下に、まだ人がおるようです」
「誰が指揮しておる」
彼は主座から、半身を乗り出して問うた。
「趙将軍と、馬将軍の配下です」
「よろしい、引き続き、状況を報ずるように伝えい」
万事そつのない二名の将軍の名を聞いて、彼は頷く。
「かしこまりました」
伝令は拱手して、無駄のない所作で起立すると、足早に広間を後にした。
「……朝に、そなたの吹雪の予見を布令ておって、普段よりも街に兵を出しておいてよかった。さもなくば、この不測に遅れをとったであろうぞ」
彼は、表情を厳しくしつつも、我が龍の功を労った。
「いますこし、風を読めましたなら、大事に至りませんでしたものを。……わたくしの精進が足りませんでした」
龍は悄然と俯くので、
「お前がいくら天文気象に通じておっても、『何月何日なんの刻に、ここで斯く斯く』と、いちいち分かるわけがあるまい。細かいことで己を責めるでない」
彼は立ち上がって、白い庭先を眺めながら、大股にゆっくりと数歩うろうろとして、扉を開け放った向こうからときおり床を吹雪いてくる寒風を睨んで、
「そうじゃ、幼常」
我が龍の書生といった風情で、壁際に控える馬幼常を差し招いた。
器用で、何かと重宝な青年である。
馬幼常は、礼儀正しく低頭したまま、彼の前に進み出て下知を待った。
もちろん、彼がこれから、お救い小屋への物資の補給や薬師の増員を命じるであろうことは既に察知している。
あわせて、事態を収集して帰還する趙・馬の配下に、暖かい食事はもちろん、
顔や手をさっぱりと洗うために、水だけでなく湯も沸かして充分に用意しておくよう、彼の仁たる心は、かならず付け加えるであろう。
念のため、言いつけがなくとも、こちらへも医師の待機を手配するつもりである。
ただ、これらは平素であれば、彼の傍らに侍る龍が涼しく繰る白羽扇で指示する内容であろうに、と、その点を訝しんでいた。
「兄者と力をあわせ、よしなにの」
彼は、馬幼常の予測通りの指示を与えると、揃いも揃って良く出来た馬家の末弟の背を見送った。
長い裾をおっとりと靡かせて廊に背を向け、その寒気から庇うように広い両の袖を広げ、我が龍の冷えた両手を大きな掌で包んで温めながら
「命数ハ天ニ在リ、じゃ。次の知らせを待とうぞ。待つ身は、辛いがな」
その重たげにみえる心を支えるように寄り添うて、
「気が進まぬであろうが、儂らも今のうちに食うておくぞ。……よいか」
と、白い憂いの表情を励ますのであった。
午をすぎて、彼ら君臣の前に、馬季常が注進にやってきた。
ともに配下を出していたはずの趙子龍は、この件について荊州の名家といえる馬一族が主力となる方が好都合と判断したとみえ、現れなかった。おそらく現場の撤収にあたっているのであろう。
突風は大街を通り、少し斜めになった道の角にあった肉屋を薙ぎ倒し、隣の茶楼『無孔笛』に突き当たってこの楼を全壊せしめたあと、やや勢力を弱めて方向を変じ、裏庭につづく小さな畑と小屋の類をまっすぐに突っ切りながら、
余力で家々の軒を掠め壊しつつ、いずこへか消滅したようであった。
民の話す内容と、士卒の報告を勘案し、雪の上に帯状に散乱した瓦礫の様子や、周囲の建物の損傷の具合を検分して、馬季常は事故の模様をそのように類推して報告した。
「幸い死者はなく、怪我人は軽傷もあわせ五十名ほどで済みましてございます。皆、当座の身の置き所も確保いたしました」
「そうか、この寒空じゃ。何よりであった」
そこで馬季常は、背を正して一礼した。
「……実は、ご主君に、別してお許しを得たきことがございます」
「おお、改まってなんじゃ。苦しゅうないゆえ、申してみよ」
「例の茶楼の者どもですが、店は全壊、このあとも雪が積もり、降り止んで溶けますれば、残った家財も全て水を被ることになりまする。店主は重傷で、身寄りの者の家に引き取られております。余の者はさしあたり、縁者を頼らせるか
お救い小屋に住まわせるのが筋でございますが、うち七名を、我が家にて預かりたく存ずるのであります」
「縁つづきの者でもおったか」
馬一族は、彼ら三兄弟とは違い、この土地の者である。係累が多くて然るべきでもある。
「友と、その兄と、仲間五名です」
「ほう、商家に友がな」
彼は意外に思って容子をあらためた。
「じつは以前、茶楼の傍を通りかかった朝のことです。塀越しに、よい笛の音が聞こえるので、往来から和して以来、笛吹きの子とは、笛の友なのであります」
「はは、そういうことであったのか。お前も、すみにおけんのう。あのように愛らしい子が友とはな」
馬季常は曖昧な微笑を刷いて
(すみにおけぬのは、ご主君でありましょう)
と、彼の目尻の笑い皺と、傍らの白皙の涼しき眸元を見比べて思いながら
「お許しいただけましょうや」
民に慈悲をかけるのは主君の務めであり、臣はこの矩を超えるべきではないという、いにしえから説かれている王道を、馬季常は心得て身についているので、敢えて願い出た。
彼は、傍らの我が龍に目配せして、見飽きぬ澄んだ視線の中に、何やら少し安堵したような同意を認めてから、
「朋輩の難儀を助けるのになんの障りがあろう。庇うてやれ。救民小屋では肩身が狭うて、音曲もままなるまい」
と、温雅な笑みを含んでただちに許した
しんしんと、時々強い風とともに降り積もる雪景色を開け放った扉の向こうに見遣りながら、
「隆中の、あの竹林の雪景色が、懐かしいのう。一幅の絵のようであった」
と、彼は双眸をまぶしそうに細めた。我が龍が、あの日の不在を詫びようとする気配を制して
「そなたと、隆中で雪見酒を飲むのは、……いつの日になろうかな」
いまだ功ならざる現実を白い吐息にして、彼は、共に王道を踏んでいる今をこそ重く見ていることを婉曲に伝えたつもりである。
彼が恵む君恩は、降り積む雪のように、日々うず高くなるばかりで、仮にあの日から数えるならば、三千丈にも届こうというほどである。
廊の向こうの、冷気をはらんだ雪景色のまばゆさは、そのまま彼に備わる王徳の光のようで、この世で一条の龍は言うべき言葉を失って、今はただひとことを囁き返すのがやっとであった。
「我が君」
「うむ」
そのただひとことは、十分に彼の心に響き、雪をあざむく清げな白皙へ、彼は穏やかで慈愛に満ちた笑顔を与える。
政務の合間に、茶を喫する段になり、ようやく
「この間の、笛のことなのでございますが……」
と、龍が口を開きかけたその時、具足が触れ合う金属的なせわしい音が廊から近づいて来、
「殿、軍師、申し上げます」
ひとりの伝令が、さっと片膝をついて跪いた。
「何事か」
彼は威儀を正しながらも、雪中の険を冒してまで兵を起こす愚挙を踏む者は
誰も居らぬ状況から、落ち着いて応じた。
「いましがた、城内の繁華街にて、突風と思われる事故が発生いたしました。民家大小およそ二十棟が全半壊、ただいま、怪我人の救出にあたっております」
「どのあたりか」
龍は硬い表情で早口に問うた。
「大街三条の……。張将軍ご贔屓の肉屋の周辺です」
我が龍が、愛用の白羽扇をぴたりと止めて立ち尽くしているので、彼は
(いかがした、孔明)
と、即座に心にかけたが、いささかの動揺も見せずに、続きを問うた。
「誰も命に別条ないか。火は出ておらんか」
「幸い火事はございません。雪ゆえ、出歩く者はすくなく、死者は未確認です。瓦礫の下に、まだ人がおるようです」
「誰が指揮しておる」
彼は主座から、半身を乗り出して問うた。
「趙将軍と、馬将軍の配下です」
「よろしい、引き続き、状況を報ずるように伝えい」
万事そつのない二名の将軍の名を聞いて、彼は頷く。
「かしこまりました」
伝令は拱手して、無駄のない所作で起立すると、足早に広間を後にした。
「……朝に、そなたの吹雪の予見を布令ておって、普段よりも街に兵を出しておいてよかった。さもなくば、この不測に遅れをとったであろうぞ」
彼は、表情を厳しくしつつも、我が龍の功を労った。
「いますこし、風を読めましたなら、大事に至りませんでしたものを。……わたくしの精進が足りませんでした」
龍は悄然と俯くので、
「お前がいくら天文気象に通じておっても、『何月何日なんの刻に、ここで斯く斯く』と、いちいち分かるわけがあるまい。細かいことで己を責めるでない」
彼は立ち上がって、白い庭先を眺めながら、大股にゆっくりと数歩うろうろとして、扉を開け放った向こうからときおり床を吹雪いてくる寒風を睨んで、
「そうじゃ、幼常」
我が龍の書生といった風情で、壁際に控える馬幼常を差し招いた。
器用で、何かと重宝な青年である。
馬幼常は、礼儀正しく低頭したまま、彼の前に進み出て下知を待った。
もちろん、彼がこれから、お救い小屋への物資の補給や薬師の増員を命じるであろうことは既に察知している。
あわせて、事態を収集して帰還する趙・馬の配下に、暖かい食事はもちろん、
顔や手をさっぱりと洗うために、水だけでなく湯も沸かして充分に用意しておくよう、彼の仁たる心は、かならず付け加えるであろう。
念のため、言いつけがなくとも、こちらへも医師の待機を手配するつもりである。
ただ、これらは平素であれば、彼の傍らに侍る龍が涼しく繰る白羽扇で指示する内容であろうに、と、その点を訝しんでいた。
「兄者と力をあわせ、よしなにの」
彼は、馬幼常の予測通りの指示を与えると、揃いも揃って良く出来た馬家の末弟の背を見送った。
長い裾をおっとりと靡かせて廊に背を向け、その寒気から庇うように広い両の袖を広げ、我が龍の冷えた両手を大きな掌で包んで温めながら
「命数ハ天ニ在リ、じゃ。次の知らせを待とうぞ。待つ身は、辛いがな」
その重たげにみえる心を支えるように寄り添うて、
「気が進まぬであろうが、儂らも今のうちに食うておくぞ。……よいか」
と、白い憂いの表情を励ますのであった。
午をすぎて、彼ら君臣の前に、馬季常が注進にやってきた。
ともに配下を出していたはずの趙子龍は、この件について荊州の名家といえる馬一族が主力となる方が好都合と判断したとみえ、現れなかった。おそらく現場の撤収にあたっているのであろう。
突風は大街を通り、少し斜めになった道の角にあった肉屋を薙ぎ倒し、隣の茶楼『無孔笛』に突き当たってこの楼を全壊せしめたあと、やや勢力を弱めて方向を変じ、裏庭につづく小さな畑と小屋の類をまっすぐに突っ切りながら、
余力で家々の軒を掠め壊しつつ、いずこへか消滅したようであった。
民の話す内容と、士卒の報告を勘案し、雪の上に帯状に散乱した瓦礫の様子や、周囲の建物の損傷の具合を検分して、馬季常は事故の模様をそのように類推して報告した。
「幸い死者はなく、怪我人は軽傷もあわせ五十名ほどで済みましてございます。皆、当座の身の置き所も確保いたしました」
「そうか、この寒空じゃ。何よりであった」
そこで馬季常は、背を正して一礼した。
「……実は、ご主君に、別してお許しを得たきことがございます」
「おお、改まってなんじゃ。苦しゅうないゆえ、申してみよ」
「例の茶楼の者どもですが、店は全壊、このあとも雪が積もり、降り止んで溶けますれば、残った家財も全て水を被ることになりまする。店主は重傷で、身寄りの者の家に引き取られております。余の者はさしあたり、縁者を頼らせるか
お救い小屋に住まわせるのが筋でございますが、うち七名を、我が家にて預かりたく存ずるのであります」
「縁つづきの者でもおったか」
馬一族は、彼ら三兄弟とは違い、この土地の者である。係累が多くて然るべきでもある。
「友と、その兄と、仲間五名です」
「ほう、商家に友がな」
彼は意外に思って容子をあらためた。
「じつは以前、茶楼の傍を通りかかった朝のことです。塀越しに、よい笛の音が聞こえるので、往来から和して以来、笛吹きの子とは、笛の友なのであります」
「はは、そういうことであったのか。お前も、すみにおけんのう。あのように愛らしい子が友とはな」
馬季常は曖昧な微笑を刷いて
(すみにおけぬのは、ご主君でありましょう)
と、彼の目尻の笑い皺と、傍らの白皙の涼しき眸元を見比べて思いながら
「お許しいただけましょうや」
民に慈悲をかけるのは主君の務めであり、臣はこの矩を超えるべきではないという、いにしえから説かれている王道を、馬季常は心得て身についているので、敢えて願い出た。
彼は、傍らの我が龍に目配せして、見飽きぬ澄んだ視線の中に、何やら少し安堵したような同意を認めてから、
「朋輩の難儀を助けるのになんの障りがあろう。庇うてやれ。救民小屋では肩身が狭うて、音曲もままなるまい」
と、温雅な笑みを含んでただちに許した