今上の叔父が荊州の首座に就いて、とある秋の十六夜のことである。
夜風は虫の音をはらみ、自然に呼吸がゆったりと深まる、乱世とは思えぬまことに穏やかな夕べに、馬季常は襄陽の城の府の廊をめぐって、彼らの軍師の詰所をひょっこりと覗いた。
「幼常」
灯火を倹約した薄明かりのなかに、見慣れた弟の横顔をみとめて、馬季常は呼びかけた。
「! ……なーんだ、兄上ですか」
「なーんだ、はないだろう。まだここにおると聞いてきたのだ 。……ご機嫌斜めのようだな」
「別に。何でもありませんよ」
「そのふくれっ面で、『別に』と言われてもなぁ」
「……わかりますか」
「ははっ、わかるさ」
実際にはそれほど不機嫌な表情を露にしていたわけではないが、言葉の端にそれを感じ取った馬季常は短く笑い、白い眉の下で眼を細めて応じる。
「お前が生まれた時から見ておるんだぞ、わからいでか」
ゆっくりと近づくと、幼常は打ちかけの碁盤を前にしていた。
「ほほーう……。軍師相手に、善戦しておるではないか」
もとより黒石は幼常、そして、指南書に出てくるような布石の白石は龍と呼ばれる彼らの軍師、と馬季常はたちどころに察して言い当てた。
「善戦? そんな訳ないでしょう。先生はいつだって手加減をしてくださってるんですから」
不機嫌と、そして対局の相手も見破られ、幼常は拗ねたような声音で言い捨てる。
「だからふくれっ面か」
いつまでも本気を出してもらえないことを歯がゆく思っているのかと、馬季常は弟の不機嫌の可能性のひとつを探った。
「違います。例の、笛ですよ」
「笛? あの、鐘大人から贈られた」
笛とは、この正月に、荊州の名士である鐘という老爺が彼らの主君に贈って寄越した一支の名笛である。珍しく、左に構えて吹いたほうがよく鳴るという癖を持っていて、人知れず笛の上手である馬季常と、実は左利きである幼常も、いささかの縁に連なった笛でもある。
「月がのぼる前、ちょっとだけ聞こえてたんですよ。失礼ながら、ものすごく下手
くそな、瀕死の鶏のような音が」
「鶏か? せめて瀕死の鳥ではなくてか」
「ええ。笛が気の毒です」
「まあそう言うな。鳥の将に死せんとす、その鳴くや哀し」
笛を吹いたのが誰なのかを悟り、馬季常は苦笑した。少しだけ遠慮してさえこの毒舌の幼常が、龍の軍師に対してだけは『世の中にまさかあのような、望月の如きお方がいるなんて』と、ひたすらに敬愛のまなざしを注いで、毒のひとつも吐けずにいることを考え合わせると、囲碁を主君に邪魔されて、内心面白かろうはずもない。
「お仲のおよろしさを聞かせ付けるなんて、ご主君もお人が悪い」
「なんだその、『聞かせ付ける』というのは。今時の若者言葉か」
弟と三歳しか違わないはずの馬季常は、眼を瞬かせた。最近の世の言葉の乱れは目に余るものがある。幼常は知識人であるが、天邪鬼なところがあるので、心安い兄の前ではわざと下世話な言葉を使うことがある。
「いまわたしが創りました。『見せつける』の類ですよ」
「ご主君と張り合うたとて、はじまるまい」
「張り合ってなどおりません。事実を言っているだけです」
「ほうほう。碁の途中で、軍師はご主君に笛を教えに行ってしまったという訳か」
(囲碁がお上手ではないご主君の牽制である……と見るのは穿ち過ぎか)
しかし「お上手ではない」が、決して囲碁が弱いのではないらしいというのが、彼らの主君の奇妙なところでもある。
「お使いがお召しを伝えに来たのです。笛だったのかどうかは存じません」
「なるほどな」
淡淡と述べながらも幼常は、主君の側仕えの者の口上を聞いた時の軍師のかおばせが忘れられない。
『申し上げます。主公が軍師をお召しでございます。火急ではございませんので、公事がお済みになりましてから御前にお運びください』
龍の軍師は、ぱっと白皙を輝かせると
「ただちに参上しますとお伝えください」
と、即答して白石を置いた。
竹簡がうず高く積まれ、官吏がかわるがわる入退室を繰り返す繁忙な折には斯様な呼び出しはなく、こうして忙中にようやく閑を捻出すると、それを見透かしたように火急ではないお召しのお使いが現れるのだ。
ここは彼らの主君の城なのだから、もしかしたら誰かに見張らせているのではないか、と考えることもできるが、彼らの主君は、そのような詰まらぬことに人を使う無駄、あるいは贅沢を好まない。蓋し、恐るべき直感のなせる業といえよう。
彼らの主君の宿願は漢室復興で、名笛の良い音を醸そうと励む気など端からないのは明白である。笛など、彼らの主君にとっては天下の大勢に何の影響もない。気晴らし、あるいは龍の軍師とかわす世間話のようなものであろう。 だからなおのこと、幼常は心の底で苛立ちを感じるに違いない。
幼常があこがれを寄せる龍の軍師は、滅多にないこの碁の途中で主君に呼び出され、笛が用事ではなかったのかもしれぬが、笛の音に興じるひとときを過ごし、おそらくそのまま餐を摂り、そのあと星を観てまた主君の傍らで眠ってしまうのだ。
荊州では既に有名な話である三顧の礼から、彼らの主君はほとんど我が龍を傍から離さないというのは、半分は譬え話で、「そういう日もある」程度であろうと馬季常は思っていた。
あるとき、夜間に火急の知らせでみずから軍師の府に駆けつけたことがあるが、書斎を守る書童に
「先生は毎晩、ご主君のお部屋でお休みで……お留守なのです」
と、済まなそうに告げられた記憶は新しい。話半分どころか、いまだに本当のことなのかと密かに驚いたものだった。
同室で眠っているばかりか、親しく枕を並べているとその時知ったなら、さすがの馬季常も腰を抜かしたかもしれない。
「まあ……だな、残念はそれくらいにしておけ。ご主君は温厚でご寛容とはいえ、人におわす。ましてお大事な軍師がらみのことが、あの大きなお耳に入っては良いこともあるまい。邸に帰って、月を肴に飲もう。お前はわたしの酒に付き合え。わたしはお前の話に付き合おうから」
馬季常は幼常の様子の中に、もしやあと二、三手の教示に与れようかと、打ちかけの碁盤をそのままに、淡く期待して待ち呆けていた疲れを認めた。幼常は、軍師がどこで眠っているのか、まだ知らないのかもしれない。かといって、敢えて教えてやる必要もない。
二人が歩を揃えて府の門を出た頃、彼らの主君は我が龍を傍らに、奥の一室で大きな嚏にむせんだことを彼らは知らない。
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夜風は虫の音をはらみ、自然に呼吸がゆったりと深まる、乱世とは思えぬまことに穏やかな夕べに、馬季常は襄陽の城の府の廊をめぐって、彼らの軍師の詰所をひょっこりと覗いた。
「幼常」
灯火を倹約した薄明かりのなかに、見慣れた弟の横顔をみとめて、馬季常は呼びかけた。
「! ……なーんだ、兄上ですか」
「なーんだ、はないだろう。まだここにおると聞いてきたのだ 。……ご機嫌斜めのようだな」
「別に。何でもありませんよ」
「そのふくれっ面で、『別に』と言われてもなぁ」
「……わかりますか」
「ははっ、わかるさ」
実際にはそれほど不機嫌な表情を露にしていたわけではないが、言葉の端にそれを感じ取った馬季常は短く笑い、白い眉の下で眼を細めて応じる。
「お前が生まれた時から見ておるんだぞ、わからいでか」
ゆっくりと近づくと、幼常は打ちかけの碁盤を前にしていた。
「ほほーう……。軍師相手に、善戦しておるではないか」
もとより黒石は幼常、そして、指南書に出てくるような布石の白石は龍と呼ばれる彼らの軍師、と馬季常はたちどころに察して言い当てた。
「善戦? そんな訳ないでしょう。先生はいつだって手加減をしてくださってるんですから」
不機嫌と、そして対局の相手も見破られ、幼常は拗ねたような声音で言い捨てる。
「だからふくれっ面か」
いつまでも本気を出してもらえないことを歯がゆく思っているのかと、馬季常は弟の不機嫌の可能性のひとつを探った。
「違います。例の、笛ですよ」
「笛? あの、鐘大人から贈られた」
笛とは、この正月に、荊州の名士である鐘という老爺が彼らの主君に贈って寄越した一支の名笛である。珍しく、左に構えて吹いたほうがよく鳴るという癖を持っていて、人知れず笛の上手である馬季常と、実は左利きである幼常も、いささかの縁に連なった笛でもある。
「月がのぼる前、ちょっとだけ聞こえてたんですよ。失礼ながら、ものすごく下手
くそな、瀕死の鶏のような音が」
「鶏か? せめて瀕死の鳥ではなくてか」
「ええ。笛が気の毒です」
「まあそう言うな。鳥の将に死せんとす、その鳴くや哀し」
笛を吹いたのが誰なのかを悟り、馬季常は苦笑した。少しだけ遠慮してさえこの毒舌の幼常が、龍の軍師に対してだけは『世の中にまさかあのような、望月の如きお方がいるなんて』と、ひたすらに敬愛のまなざしを注いで、毒のひとつも吐けずにいることを考え合わせると、囲碁を主君に邪魔されて、内心面白かろうはずもない。
「お仲のおよろしさを聞かせ付けるなんて、ご主君もお人が悪い」
「なんだその、『聞かせ付ける』というのは。今時の若者言葉か」
弟と三歳しか違わないはずの馬季常は、眼を瞬かせた。最近の世の言葉の乱れは目に余るものがある。幼常は知識人であるが、天邪鬼なところがあるので、心安い兄の前ではわざと下世話な言葉を使うことがある。
「いまわたしが創りました。『見せつける』の類ですよ」
「ご主君と張り合うたとて、はじまるまい」
「張り合ってなどおりません。事実を言っているだけです」
「ほうほう。碁の途中で、軍師はご主君に笛を教えに行ってしまったという訳か」
(囲碁がお上手ではないご主君の牽制である……と見るのは穿ち過ぎか)
しかし「お上手ではない」が、決して囲碁が弱いのではないらしいというのが、彼らの主君の奇妙なところでもある。
「お使いがお召しを伝えに来たのです。笛だったのかどうかは存じません」
「なるほどな」
淡淡と述べながらも幼常は、主君の側仕えの者の口上を聞いた時の軍師のかおばせが忘れられない。
『申し上げます。主公が軍師をお召しでございます。火急ではございませんので、公事がお済みになりましてから御前にお運びください』
龍の軍師は、ぱっと白皙を輝かせると
「ただちに参上しますとお伝えください」
と、即答して白石を置いた。
竹簡がうず高く積まれ、官吏がかわるがわる入退室を繰り返す繁忙な折には斯様な呼び出しはなく、こうして忙中にようやく閑を捻出すると、それを見透かしたように火急ではないお召しのお使いが現れるのだ。
ここは彼らの主君の城なのだから、もしかしたら誰かに見張らせているのではないか、と考えることもできるが、彼らの主君は、そのような詰まらぬことに人を使う無駄、あるいは贅沢を好まない。蓋し、恐るべき直感のなせる業といえよう。
彼らの主君の宿願は漢室復興で、名笛の良い音を醸そうと励む気など端からないのは明白である。笛など、彼らの主君にとっては天下の大勢に何の影響もない。気晴らし、あるいは龍の軍師とかわす世間話のようなものであろう。 だからなおのこと、幼常は心の底で苛立ちを感じるに違いない。
幼常があこがれを寄せる龍の軍師は、滅多にないこの碁の途中で主君に呼び出され、笛が用事ではなかったのかもしれぬが、笛の音に興じるひとときを過ごし、おそらくそのまま餐を摂り、そのあと星を観てまた主君の傍らで眠ってしまうのだ。
荊州では既に有名な話である三顧の礼から、彼らの主君はほとんど我が龍を傍から離さないというのは、半分は譬え話で、「そういう日もある」程度であろうと馬季常は思っていた。
あるとき、夜間に火急の知らせでみずから軍師の府に駆けつけたことがあるが、書斎を守る書童に
「先生は毎晩、ご主君のお部屋でお休みで……お留守なのです」
と、済まなそうに告げられた記憶は新しい。話半分どころか、いまだに本当のことなのかと密かに驚いたものだった。
同室で眠っているばかりか、親しく枕を並べているとその時知ったなら、さすがの馬季常も腰を抜かしたかもしれない。
「まあ……だな、残念はそれくらいにしておけ。ご主君は温厚でご寛容とはいえ、人におわす。ましてお大事な軍師がらみのことが、あの大きなお耳に入っては良いこともあるまい。邸に帰って、月を肴に飲もう。お前はわたしの酒に付き合え。わたしはお前の話に付き合おうから」
馬季常は幼常の様子の中に、もしやあと二、三手の教示に与れようかと、打ちかけの碁盤をそのままに、淡く期待して待ち呆けていた疲れを認めた。幼常は、軍師がどこで眠っているのか、まだ知らないのかもしれない。かといって、敢えて教えてやる必要もない。
二人が歩を揃えて府の門を出た頃、彼らの主君は我が龍を傍らに、奥の一室で大きな嚏にむせんだことを彼らは知らない。
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笛のはなしは中編の
「寶笛直千金」もご覧いただけましたなら嬉しく存じます。