「ワー……。すごい。天井高ーい。コンクリートじゃなくて、全部ほんとに石?」
先生に連れられて、劉家の子息と姜少年は初めて王立図書館にやってきた。18歳以上にならないと、図書利用はできない大人の世界だ。
あと半月もすれば10月の新学期を迎えるとはいえ、昼間の日光の強さにはまだ夏の名残りが感ぜられる。エントランスの冷房はおそらく切ってあるであろうに、年経りし分厚い石の外壁が太陽光を遮断し、その頼もしさと高い天井が建物内の空気温の上昇を物理的に阻んでいる。人工的に冷風を吹き出して小賢しく造り出されたのではない深みを醸す涼しさには、夏の疲れを残す軆に沁みいるものがある。三人が、今日はじめての深呼吸をしていることに気づかないほどの物言わぬ癒しの場といえた。
「ねえ先生、どこに本があるんですか?」
劉家の子息は、小声で先生に質問した。シルバー人材と見える年の頃の、守衛さんの優しげな敬礼に対して会釈を返しながら最初の扉を通って進んでも、一向に書架が見当たらないからだ。
広いロビーのようなところに記入台やたくさんの端末が並び、柱のまわりにめぐらされた低いスツールには、白髪のひと学生風のひと、色々な年代のいろいろな服装をした大人が何かを待っているように行儀よく座っていた。靴音、紙を捲る音、筆記用具を取り落とした音、雑音が人の多さを物語ってはいたが、雑踏の中から知的な音を選んで集めた風がある。だが人が屯する様子は図書館というよりも、病院と銀行の待合室を合わせたように見える。
「本は、書庫にしまってあるのですよ」
「書庫に入る順番待ちしてるんですか?」
「いいえ、本を出してもらうのを待っているんですよ」
「えー? 探してくれるの?」
子息は目を丸くした。学校の図書館では本を自分で探して借りるのだし、ここの本が学校の図書館程度ではないことぐらいはわかる。誰がどの本を借りたいかを、占いのように当てて用意しておくことはできない。
「こんなにいっぱいの人が申し込むのに?」
「そうです。驚くべきピッキングマシンが稼働しています。そして本は、今日中に返さねばなりません」
「えっ、今日中? 読みきれないよ。借りられないの?」
「はい。この建物の外に持ち出すことはできません」
「図書館なのに?」
「そうです。ちょっと変わっているかもしれませんね」
「はい! 貸してくれない図書館なんて、ぼく、はじめて!」
姜少年は、そんなやりとりを聞きながら、初めて来た王立図書館の風格に胸が高鳴るのを覚えていた。少年は本の虫でもあり、小学校の図書館の常連でもある。今年はもう50冊は読んだ。あきらかに「どの書籍のどこを調査」したいのかを問う王立図書館に対して、自分がその問いの答えに値する課題を持ってやってきたことが誇らしくもある。
子息の感嘆に控えめに頷く程度だが、好奇心いっぱいに輝く姜少年の眼鏡の奥の瞳をチラと見て
(天水の秀才も、王立図書館がお気に召したと見えます)
無邪気で感動屋さんの子息の反応も姜少年の様子も、先生は内心嬉しいのだった。
「隅の端末があきましたね。行きましょう」
姜少年は、この夏休みに王菫の『西夏物語』を耽読していて読書感想文を書いていた。読み直しながら何度も推敲するうちに、巻末に掲載されていた、魯子敬という人の書評が目にとまった。
『王菫氏が、今、実物は砂塵のなかに消えて誰も所在を知らない西夏王碑の銘文に遺されていた僅かな記述から、これほどにうるわしい君臣の物語を編まれようとは、驚嘆を禁じえません』
と、褒めていた箇所に小さな図版が載っていて、<王立図書館所蔵>と書き添えられていたので、できることなら王菫が見たものを見て作文を完成させたかったのだ。
9月の日曜日に母に連れてきてもらおうと思っていたのだが、予想外に王立図書館の休館日がハコもの定番の月曜日ではなかったので、がっかりした。母はいま、大事なプロジェクトをかかえていて、有給休暇をとることは難しかった。
言い出せないまま何日かが過ぎて、以前の姜少年であれば、おのれひとり我慢すれば済むことだと簡単に諦めていたのに、ある日の夕方に愛犬のジラフィーと散歩をしていて、恩賜公園のバス停前で、王立図書館からの帰り道の先生と偶然に出会った。
先生が、この繊細な少年と軽い挨拶だけで別れるはずもなく、公園のベンチで話したついでにこの件に及んだのだ。
「では、もしお母上の許可がいただけたら、わたくしと一緒に行ってみませんか? 禅さまもお誘いしましょう」
他所の子を預かるということは「命を預かること」だと言って、我が母はたいへん厳格で、他人の家の子を預かることも疎んじ、姜少年を他人に預けることも嫌う傾向がある。姜少年はほかの大人もきっとそう考えるのだと思っていた。それは重大で迷惑なことなのだと思いこんでいた。確かにそうではあるが、先生はその重たい側面よりも、姜少年と王立図書館に行ってみることができるなら、どんなに楽しいだろうという思いを重く見ていることが、話していて少年にはわかった。
いつぞやの母の日や集中豪雨の日以来、劉家の面面は姜少年の母の信頼を得ている。姜少年が勇を鼓して口を開いたわりに、案外にあっさりと交通費と昼ごはん代を持たされて、こうして今日、王立図書館のロビーの床を踏んでいるというわけだった。信頼は一朝にして失うことはあるが、一日で得ることはできない。持つべきものは友、の格言が、姜少年には生きた意味で少しだけわかった気がした出来事でもあった。
先生は端末にIDカードの情報を読ませてログオン状態を確保すると
「それでは、姜くん。調査をはじめましょう」
端末前のスツールを姜少年に譲った。てっきり、先生がかわりに色々な手続きをしてくれるのを見ているだけと思っていた姜少年は、少し尻込みする。
「えっ。でも、僕はまだ小学生で……」
「何ごとも、体験ですよ」
「でも」
「利用制限にしばられてはいけません。規則に惑わされないことです。制限は、図書館が恐れていることを未然に防ぐための自衛手段です。姜くんは遊びで来たのではなく調査に来たと、わたくしは知っているつもりですよ」
先生は、このような言葉が自分の口から滑りでることに驚いてもいた。
規則を遵守することこそ正しいと考えていた、つい何年か前の自分には言えないことだった。
おそらく、世渡りの方便を自在にあやつるというのに、自分も人も偽らない劉家の当主に出会って、こうして日々暮らしているからこそなのだろう、兄の王菫こと諸葛子瑜が手離してはならないと言う「一見平凡に見える幸せ」の中には、先生の四角四面の角を知らず知らずに磨き丸める力を宿していることは明白だった。
姜少年は姜少年で、学習しているところや成績表を先生に見せたことがないのに、先生がこんなに信頼してくれる根拠が賢くもわからず、少し困惑していた。それに、劉家の子息をさしおいて、自分が便宜を図られようとしていることに気後れもした。
「やってみたらいいのに姜くん。学校の図書館にないもの、せっかく探しに来れたんだし。僕も姜くんがいまどんなの好きなのか見たいな」
子供らしからぬ方へ頭がめぐる姜少年の胸の内を知らぬかのように、劉家の子息は、自分が王立図書館を利用するほどに至っている分野がないことを恥じる風もなく、年相応の無邪気な笑顔で、むしろ友人が喜ぶ姿を見たいという単純だが純粋な気持ちを込めて姜少年の背中を押す。
ベンジャミンの葉の蔭の一番隅の端末の前のスツールに、先生、姜少年、子息の順に座る。先生は検索の主導権をすっかり姜少年に委ねている。もし見咎められたなら、職業柄、急に腱鞘炎患者になって請えば不問に付される範囲内のことだ。賢いくせに融通が効かないタイプだというのに、先生はすぐ隣に彼が居て、助けてくれているような気さえするのだった。
『宋版西夏王碑拓本』
近頃の小学校ではパソコンの授業もあるので、姜少年は小さな手ですらすらとピンイン入力を行い、一般にはなかなか自動変換されないこの本のタイトルを正確に打ち込んだ。通常、宋版はsongbanと続けて打ち込んでも変換上位には出てこない。song banと、一文字ずつ変換するところに調べ慣れた風があり、先生はその幼い指先を頼もしく思った。
もちろん、ここの端末には学習機能が搭載されているので、songbanは一発変換に近い。しかしそれは先先、通い慣れる頃の楽しみにとっておけばよい。自分以外に何十人何百人と「宋版」と打ち込み、変換候補順位を上げている事実を密かに喜ぶ瞬間でもある。
<2件ヒットしました>
>>『宋版西夏王碑拓本』
>>※当資料はマイクロフィルム複写でのご利用になります。ご希望のかたはご申請ください。
>
>>『宋版西夏王碑拓本(影印本)』
「あっ」
「わあ、それ?」
「うん。たぶん」
「すごーい、こんなすぐに見つかるなんて。姜くんスゴいよ」
「ううん。魯たいじんの文で、あるのわかってたから」
「歴史学者みたい。カッコイイなー」
王立図書館本館のカフェテリアは、価格も控えめなので、昼どきは常に混雑している。
別館のカフェレストランは、大きなガラス張りの外観に緑が映え、高い天井とシックな内装に、白いテーブルクロスをかけた食卓がゆったりと並び、本館とはおのずから格が違うので、客は少ない。厨房のちょっとした物音も、高い天井が吸収して遠いこだまのようで品が良い。少年ふたりにとってはここも大人の世界である。調査のあと、姜少年は先生に誘われて、おずおずとこの別館にやってきた。
「あっ、父上!」
大きなガラス張りの窓際に、大男ふたりを含む人影四つを認め、子息は走り出しそうになったのを、上品なしつらいの場所柄を思い出して靴の中でつま先をきゅっと緊張させ、歩調を保ってテーブルに近づく。
「おお、禅。夏休みの絵は描けそうか」
彼は福耳を左右に、満面の笑みで立ち上がり、子息を迎えた。
「はい! ここ、すごくカッコイイです。テーマパークとかよりなんかスゴい!」
「ほっほっほ。禅さまも本物がわかる目をお持ちじゃ。先々楽しみじゃ」
「あっ、水鏡先生も、こんにちは」
「こんにちは。こちらが天水の姜少年か。ワシは水鏡と申す。会いたかったぞ」
「はじめまして。姜伯約です」
少年は、高名な水鏡老師に既に名を知られているのが少し照れくさくて、礼儀正しくも俯きがちに挨拶を返すばかりである。
「公叔さま、今日は先生のお力をお貸しくださいまして、ありがとうございました」
「遠慮はいらん。儂も孔明も、ついでじゃ」
彼と老師は、王立図書館の運営委員会のメンバーである。今日は10時からの定例会議に出席していた。先生はといえば、兄上の仕事の助けになる資料の複写を受け取りに来たついでだ。
そんなやりとりをしている間に、子供用の椅子がさっと用意されて、ジャイアントパンダのような愛嬌をたたえた彼の末弟と長髯の次弟が、左右から少年二人をテーブルに向かわせる。彼はといえば、その隙に先生の白い手をとって、たった五歩ほどの距離のテーブルまで、まるでエスコートするように誘うのである。
「まだ午前中から日差しが強かった。疲れてはおらぬか」
「大丈夫でございます。涼しい木陰を選んで歩きました」
「そうか」
と、卓上の一輪挿しの花さえ恥じらう甘い囁きをかわしている。
姜少年は、強面なのに実は『春秋』に詳しい文武両道の髯の巨漢がちょっと好きなので、銃も書籍も扱う大きな手を意識してしまって、お礼の言葉が小さくなってしまったことを恥ずかしく思っていた。
しかし、こうして小さな交流を落ち着いて積み重ねてゆけるのは、彼が別館でのランチを選んだからこそでもある。なにも、気取って高い食事を奢ろうというためではなく、大男と子供連れという顔ぶれと周囲とに配慮したがためである。
「姜君、儂はここのところ仕事の会食続きでな、皆で飯を食うことがままならん。今日は嬉しいぞ。儂は、家族や友と一緒でないと、飯がうまくないのでな」
彼の中では、すでに姜少年が身内に勘定されているらしきことが、少年にとっては小さな驚きで、なんと答えるべきかわからない。
「ゆえに、今日は儂にご馳走させてくれまいか。そのかわり、儂のイチオシランチを皆で食うのだ。もちろん水鏡先生も儂のおごりじゃ。どうかな」
彼は、暗に姜少年の心配を取り除いた。彼がオーダーを決める上に、家計を別にしている水鏡先生も彼におごられるならば、少年が財布を取り出すには及ばず、という雰囲気である。賢い少年には、彼の心遣いがわかった。
彼は、いままでご馳走してくれた数少ない大人たちと全く違った。大人たちは皆
「何でも、好きなもの頼んでいいんだよ」
と言うのだ。姜少年はいつでも、メニューの中で二番目に廉い料理の名を口ごもりながら読み上げることしかできないでいた。どの時の料理もおいしくなかったが、今日はおいしいかもしれない期待が淡くよぎった。
そして、心遣いに対して金の額面で応じるのは時に慇懃無礼にあたることを、劉家の面面から学んでもきている。学校では教えてくれない。
「おお、今日は儲けたな。会議の謝金が入るうえに、昼飯もタダか。天よ、ありがとうございます。ワシぁ、遠慮せんぞ。のう、姜くん」
「ご馳走になります。ありがとうございます」
水鏡先生が水を向けてくれた流れを素直にうけて、こう答えられる自分のなかに、姜少年は小さな変化を感じてもいた。今日手に入れたのは、拓本の複写数枚だけではないかもしれない。
蝶ネクタイの制服に細い金色のネームプレートをとめたウエイターが、見計らってテーブルに近づいてくる。
「お決まりでございますか」
「薬膳カレーのクラシック3つと、マイルドを4つ。ラッシーを7つ。この子たちには、小さめのスプーンも頼む」
「かしこまりました」
何が注文されるのか既に分かっていた風情でオーダーシートに書き込みをし、常連客に向ける親しげな笑顔を彼に向けて、ウエイターは上品に去っていく。
「ここの薬膳カレーのマイルドな、夏休みに入ってからワシもマイブームでな。この偏食家の孔明も食えるぐらいじゃから、お前さんたちもイケる」
「老師、わたくしは偏食ではございません。寡食でございま……」
「バランスよく食えんのは大差あるまいが。公叔も苦労なさるわい」
「さしずめ、たとえばバラを丹精することに似ておりますな。楽しみが伴いますぞ」
「食う前からご馳走様か」
「ははは」
小首をかしげる少年ふたりを前に、大人たちは楽しげである。彼はといえば、風味の濃いものも皆で一緒に食べてしまえば、たとえば数時間以内に先生と至近距離で何事か起ころうとも、何の差し支えもないではないかという、小さな計算すらあるのである。
「それで、お宝はゲットできたかの。姜君」
彼のよからぬ思惑をよそに、老師は会議で疲れた双眸を洗うべく、気になる少年に視線を向けた。老師には子がないためか、世の中の子供すべてが宝に見える。まして天水の秀才はなおさらだ。
「はい」
「2つあったであろう。どうした」
「マイクロフィルムの複写を、はじめのほう、ちょっとだけ……。していただきました。全部は無理だったんですけど」
「よき哉。西夏王碑も久々に日の目を見て、砂の下で喜んでおろうぞ」
「こうめい先生のおかげです」
「なんの。ここは日曜は休みの殿様商売だからの、こういう機会にこそ見学しとくに越したことはない。18になったら大手をふって、使い放題じゃ。それにな」
老師は、ちょっとだけ聲をひそめて
「だいたいな、王立図書館に一度も用事ができずに生涯を終える巡りの国民もおるんじゃから、そのぶん君たちが、ちょっとばかりフライングしてもよかろうて」
子供たちも先生も思いつかない理屈を囁いてから、堂堂とカラカラと笑うのであった。
「お待たせいたしました」
「おー、待ちかねた。今日は朝メシ抜いてきたんじゃ。食って帰るのを励みに、仕事に来たようなもんじゃ。本当にこの夏は老体には堪えた。よく生き延びたわい」
「ほんとうにお暑うございました。ごゆっくりどうぞ」
ウエイターは優雅で無駄のない動作で七人分もの配膳をすると、いつともわからないような自然さでオーダーシートを彼のそばに置いて、すっと立ち去った。
「さあ、いただこうか」
彼に促されると、さっそくナフキンの端を襟元にまで挟んで、幼稚園児のようになりながら、水鏡先生はえびす顔である。
「頂きます」
「いただきまス」
「いっただきまーす」
「いただきます」
カレーは、銀色の流線型のソースポットに入って、スパイシーな香りを漂わせている。
「まず、ちろっとかけて試してみい。無理そうなら、ハンバーグでも何でも頼んだらよい」
「ハイ!」
少年ふたりはレードルをとりあげ、白いライスの皿の上に薬膳カレーマイルドをひと匙そそぐ。
「わあ、なんかすごくキレイな色!」
「ほんとだ……」
ふたりとも、薬膳というからには、なんとなく黒っぽくて苦いのではという想像をしていた。給食のカレーや、テレビコマーシャルの映像で流れたりするカレーは、どちらかというと茶色という表現が妥当だが、これは黄色といえる。とくに、皿にそそいだルウの縁の発色が鮮やかで、まさに鬱金色という印象である。姜少年はその色合いにじっと見入っていた。
「おいしい! 最初あまいのに……、あとからカレーって感じ!」
「そうじゃろう」
「カレーがこれほど軽く華やかでフルーティーに味わえるとは、わたくしも先日おどろきました。ラッシーの塩加減も……」
「薀蓄はあとにせんか。メシがまずくなるじゃろう」
「おや、水鏡先生。その薀蓄が、ひとあじ上げるのでございますぞ」
「? うんちくって、辛口のことですか?」
彼はクラシックを、老師は自分と同じマイルドを食べているので、子息はそのような問いを発した。
「はっはっは。当たらずとも遠からずじゃ」
(うんちくって、ほんとに辛口のことなのかな……?)
子息が腑に落ちない表情でスプーンを口に運ぼうとすると、隣の姜少年の手が止まっていることに気がついた。それだけでなく、俯いて涙を拭いている。
「姜くん、お水。だいじょうぶ? もしかして、からかった?」
子息は、水滴を増やして滑りやすくなった水のグラスを注意深く手元に寄せてやり、2つ年下の姜少年をかばうように気遣った。姜少年はかぶりをふって
「ごめん、違うんだ。すごくおいしいです。このカレー……」
しゃくりあげながら、姜少年を問い詰めもせず、一同は食事を摂る手をとめて少年を見守る。
こんなとき、往往にして少年は
『ごめんなさい、なんでもないです』
と、見え見えの強がりで口をつぐんできたのに、劉家の面面と水鏡老師が心底心配しながらも、姜少年が理由を言わないならば聞くまいという気持ちでじっと同じ食卓に座っているこの状況が家族のようで、姜少年は反射的に本当のことを言ってしまっていた。
「このカレー、父のカレーにそっくりです」
「えっ、そうなの?」
こっくり頷く姜少年に、劉家の子息は少年の亡父を急に身近に感じた。子息の父である彼も、義兄弟に手伝わせて時々、いわゆる男のカレーを作るからだ。
水鏡老師は、埋もれた西夏王碑がもたらす見えない運命の糸の予感を感じて、ラッシーの淡い塩気で唇を湿らせた。
<五行五色で五題> 全9話一気読みへのショートカットは →こちら
先生に連れられて、劉家の子息と姜少年は初めて王立図書館にやってきた。18歳以上にならないと、図書利用はできない大人の世界だ。
あと半月もすれば10月の新学期を迎えるとはいえ、昼間の日光の強さにはまだ夏の名残りが感ぜられる。エントランスの冷房はおそらく切ってあるであろうに、年経りし分厚い石の外壁が太陽光を遮断し、その頼もしさと高い天井が建物内の空気温の上昇を物理的に阻んでいる。人工的に冷風を吹き出して小賢しく造り出されたのではない深みを醸す涼しさには、夏の疲れを残す軆に沁みいるものがある。三人が、今日はじめての深呼吸をしていることに気づかないほどの物言わぬ癒しの場といえた。
「ねえ先生、どこに本があるんですか?」
劉家の子息は、小声で先生に質問した。シルバー人材と見える年の頃の、守衛さんの優しげな敬礼に対して会釈を返しながら最初の扉を通って進んでも、一向に書架が見当たらないからだ。
広いロビーのようなところに記入台やたくさんの端末が並び、柱のまわりにめぐらされた低いスツールには、白髪のひと学生風のひと、色々な年代のいろいろな服装をした大人が何かを待っているように行儀よく座っていた。靴音、紙を捲る音、筆記用具を取り落とした音、雑音が人の多さを物語ってはいたが、雑踏の中から知的な音を選んで集めた風がある。だが人が屯する様子は図書館というよりも、病院と銀行の待合室を合わせたように見える。
「本は、書庫にしまってあるのですよ」
「書庫に入る順番待ちしてるんですか?」
「いいえ、本を出してもらうのを待っているんですよ」
「えー? 探してくれるの?」
子息は目を丸くした。学校の図書館では本を自分で探して借りるのだし、ここの本が学校の図書館程度ではないことぐらいはわかる。誰がどの本を借りたいかを、占いのように当てて用意しておくことはできない。
「こんなにいっぱいの人が申し込むのに?」
「そうです。驚くべきピッキングマシンが稼働しています。そして本は、今日中に返さねばなりません」
「えっ、今日中? 読みきれないよ。借りられないの?」
「はい。この建物の外に持ち出すことはできません」
「図書館なのに?」
「そうです。ちょっと変わっているかもしれませんね」
「はい! 貸してくれない図書館なんて、ぼく、はじめて!」
姜少年は、そんなやりとりを聞きながら、初めて来た王立図書館の風格に胸が高鳴るのを覚えていた。少年は本の虫でもあり、小学校の図書館の常連でもある。今年はもう50冊は読んだ。あきらかに「どの書籍のどこを調査」したいのかを問う王立図書館に対して、自分がその問いの答えに値する課題を持ってやってきたことが誇らしくもある。
子息の感嘆に控えめに頷く程度だが、好奇心いっぱいに輝く姜少年の眼鏡の奥の瞳をチラと見て
(天水の秀才も、王立図書館がお気に召したと見えます)
無邪気で感動屋さんの子息の反応も姜少年の様子も、先生は内心嬉しいのだった。
「隅の端末があきましたね。行きましょう」
姜少年は、この夏休みに王菫の『西夏物語』を耽読していて読書感想文を書いていた。読み直しながら何度も推敲するうちに、巻末に掲載されていた、魯子敬という人の書評が目にとまった。
『王菫氏が、今、実物は砂塵のなかに消えて誰も所在を知らない西夏王碑の銘文に遺されていた僅かな記述から、これほどにうるわしい君臣の物語を編まれようとは、驚嘆を禁じえません』
と、褒めていた箇所に小さな図版が載っていて、<王立図書館所蔵>と書き添えられていたので、できることなら王菫が見たものを見て作文を完成させたかったのだ。
9月の日曜日に母に連れてきてもらおうと思っていたのだが、予想外に王立図書館の休館日がハコもの定番の月曜日ではなかったので、がっかりした。母はいま、大事なプロジェクトをかかえていて、有給休暇をとることは難しかった。
言い出せないまま何日かが過ぎて、以前の姜少年であれば、おのれひとり我慢すれば済むことだと簡単に諦めていたのに、ある日の夕方に愛犬のジラフィーと散歩をしていて、恩賜公園のバス停前で、王立図書館からの帰り道の先生と偶然に出会った。
先生が、この繊細な少年と軽い挨拶だけで別れるはずもなく、公園のベンチで話したついでにこの件に及んだのだ。
「では、もしお母上の許可がいただけたら、わたくしと一緒に行ってみませんか? 禅さまもお誘いしましょう」
他所の子を預かるということは「命を預かること」だと言って、我が母はたいへん厳格で、他人の家の子を預かることも疎んじ、姜少年を他人に預けることも嫌う傾向がある。姜少年はほかの大人もきっとそう考えるのだと思っていた。それは重大で迷惑なことなのだと思いこんでいた。確かにそうではあるが、先生はその重たい側面よりも、姜少年と王立図書館に行ってみることができるなら、どんなに楽しいだろうという思いを重く見ていることが、話していて少年にはわかった。
いつぞやの母の日や集中豪雨の日以来、劉家の面面は姜少年の母の信頼を得ている。姜少年が勇を鼓して口を開いたわりに、案外にあっさりと交通費と昼ごはん代を持たされて、こうして今日、王立図書館のロビーの床を踏んでいるというわけだった。信頼は一朝にして失うことはあるが、一日で得ることはできない。持つべきものは友、の格言が、姜少年には生きた意味で少しだけわかった気がした出来事でもあった。
先生は端末にIDカードの情報を読ませてログオン状態を確保すると
「それでは、姜くん。調査をはじめましょう」
端末前のスツールを姜少年に譲った。てっきり、先生がかわりに色々な手続きをしてくれるのを見ているだけと思っていた姜少年は、少し尻込みする。
「えっ。でも、僕はまだ小学生で……」
「何ごとも、体験ですよ」
「でも」
「利用制限にしばられてはいけません。規則に惑わされないことです。制限は、図書館が恐れていることを未然に防ぐための自衛手段です。姜くんは遊びで来たのではなく調査に来たと、わたくしは知っているつもりですよ」
先生は、このような言葉が自分の口から滑りでることに驚いてもいた。
規則を遵守することこそ正しいと考えていた、つい何年か前の自分には言えないことだった。
おそらく、世渡りの方便を自在にあやつるというのに、自分も人も偽らない劉家の当主に出会って、こうして日々暮らしているからこそなのだろう、兄の王菫こと諸葛子瑜が手離してはならないと言う「一見平凡に見える幸せ」の中には、先生の四角四面の角を知らず知らずに磨き丸める力を宿していることは明白だった。
姜少年は姜少年で、学習しているところや成績表を先生に見せたことがないのに、先生がこんなに信頼してくれる根拠が賢くもわからず、少し困惑していた。それに、劉家の子息をさしおいて、自分が便宜を図られようとしていることに気後れもした。
「やってみたらいいのに姜くん。学校の図書館にないもの、せっかく探しに来れたんだし。僕も姜くんがいまどんなの好きなのか見たいな」
子供らしからぬ方へ頭がめぐる姜少年の胸の内を知らぬかのように、劉家の子息は、自分が王立図書館を利用するほどに至っている分野がないことを恥じる風もなく、年相応の無邪気な笑顔で、むしろ友人が喜ぶ姿を見たいという単純だが純粋な気持ちを込めて姜少年の背中を押す。
ベンジャミンの葉の蔭の一番隅の端末の前のスツールに、先生、姜少年、子息の順に座る。先生は検索の主導権をすっかり姜少年に委ねている。もし見咎められたなら、職業柄、急に腱鞘炎患者になって請えば不問に付される範囲内のことだ。賢いくせに融通が効かないタイプだというのに、先生はすぐ隣に彼が居て、助けてくれているような気さえするのだった。
『宋版西夏王碑拓本』
近頃の小学校ではパソコンの授業もあるので、姜少年は小さな手ですらすらとピンイン入力を行い、一般にはなかなか自動変換されないこの本のタイトルを正確に打ち込んだ。通常、宋版はsongbanと続けて打ち込んでも変換上位には出てこない。song banと、一文字ずつ変換するところに調べ慣れた風があり、先生はその幼い指先を頼もしく思った。
もちろん、ここの端末には学習機能が搭載されているので、songbanは一発変換に近い。しかしそれは先先、通い慣れる頃の楽しみにとっておけばよい。自分以外に何十人何百人と「宋版」と打ち込み、変換候補順位を上げている事実を密かに喜ぶ瞬間でもある。
<2件ヒットしました>
>>『宋版西夏王碑拓本』
>>※当資料はマイクロフィルム複写でのご利用になります。ご希望のかたはご申請ください。
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>>『宋版西夏王碑拓本(影印本)』
「あっ」
「わあ、それ?」
「うん。たぶん」
「すごーい、こんなすぐに見つかるなんて。姜くんスゴいよ」
「ううん。魯たいじんの文で、あるのわかってたから」
「歴史学者みたい。カッコイイなー」
王立図書館本館のカフェテリアは、価格も控えめなので、昼どきは常に混雑している。
別館のカフェレストランは、大きなガラス張りの外観に緑が映え、高い天井とシックな内装に、白いテーブルクロスをかけた食卓がゆったりと並び、本館とはおのずから格が違うので、客は少ない。厨房のちょっとした物音も、高い天井が吸収して遠いこだまのようで品が良い。少年ふたりにとってはここも大人の世界である。調査のあと、姜少年は先生に誘われて、おずおずとこの別館にやってきた。
「あっ、父上!」
大きなガラス張りの窓際に、大男ふたりを含む人影四つを認め、子息は走り出しそうになったのを、上品なしつらいの場所柄を思い出して靴の中でつま先をきゅっと緊張させ、歩調を保ってテーブルに近づく。
「おお、禅。夏休みの絵は描けそうか」
彼は福耳を左右に、満面の笑みで立ち上がり、子息を迎えた。
「はい! ここ、すごくカッコイイです。テーマパークとかよりなんかスゴい!」
「ほっほっほ。禅さまも本物がわかる目をお持ちじゃ。先々楽しみじゃ」
「あっ、水鏡先生も、こんにちは」
「こんにちは。こちらが天水の姜少年か。ワシは水鏡と申す。会いたかったぞ」
「はじめまして。姜伯約です」
少年は、高名な水鏡老師に既に名を知られているのが少し照れくさくて、礼儀正しくも俯きがちに挨拶を返すばかりである。
「公叔さま、今日は先生のお力をお貸しくださいまして、ありがとうございました」
「遠慮はいらん。儂も孔明も、ついでじゃ」
彼と老師は、王立図書館の運営委員会のメンバーである。今日は10時からの定例会議に出席していた。先生はといえば、兄上の仕事の助けになる資料の複写を受け取りに来たついでだ。
そんなやりとりをしている間に、子供用の椅子がさっと用意されて、ジャイアントパンダのような愛嬌をたたえた彼の末弟と長髯の次弟が、左右から少年二人をテーブルに向かわせる。彼はといえば、その隙に先生の白い手をとって、たった五歩ほどの距離のテーブルまで、まるでエスコートするように誘うのである。
「まだ午前中から日差しが強かった。疲れてはおらぬか」
「大丈夫でございます。涼しい木陰を選んで歩きました」
「そうか」
と、卓上の一輪挿しの花さえ恥じらう甘い囁きをかわしている。
姜少年は、強面なのに実は『春秋』に詳しい文武両道の髯の巨漢がちょっと好きなので、銃も書籍も扱う大きな手を意識してしまって、お礼の言葉が小さくなってしまったことを恥ずかしく思っていた。
しかし、こうして小さな交流を落ち着いて積み重ねてゆけるのは、彼が別館でのランチを選んだからこそでもある。なにも、気取って高い食事を奢ろうというためではなく、大男と子供連れという顔ぶれと周囲とに配慮したがためである。
「姜君、儂はここのところ仕事の会食続きでな、皆で飯を食うことがままならん。今日は嬉しいぞ。儂は、家族や友と一緒でないと、飯がうまくないのでな」
彼の中では、すでに姜少年が身内に勘定されているらしきことが、少年にとっては小さな驚きで、なんと答えるべきかわからない。
「ゆえに、今日は儂にご馳走させてくれまいか。そのかわり、儂のイチオシランチを皆で食うのだ。もちろん水鏡先生も儂のおごりじゃ。どうかな」
彼は、暗に姜少年の心配を取り除いた。彼がオーダーを決める上に、家計を別にしている水鏡先生も彼におごられるならば、少年が財布を取り出すには及ばず、という雰囲気である。賢い少年には、彼の心遣いがわかった。
彼は、いままでご馳走してくれた数少ない大人たちと全く違った。大人たちは皆
「何でも、好きなもの頼んでいいんだよ」
と言うのだ。姜少年はいつでも、メニューの中で二番目に廉い料理の名を口ごもりながら読み上げることしかできないでいた。どの時の料理もおいしくなかったが、今日はおいしいかもしれない期待が淡くよぎった。
そして、心遣いに対して金の額面で応じるのは時に慇懃無礼にあたることを、劉家の面面から学んでもきている。学校では教えてくれない。
「おお、今日は儲けたな。会議の謝金が入るうえに、昼飯もタダか。天よ、ありがとうございます。ワシぁ、遠慮せんぞ。のう、姜くん」
「ご馳走になります。ありがとうございます」
水鏡先生が水を向けてくれた流れを素直にうけて、こう答えられる自分のなかに、姜少年は小さな変化を感じてもいた。今日手に入れたのは、拓本の複写数枚だけではないかもしれない。
蝶ネクタイの制服に細い金色のネームプレートをとめたウエイターが、見計らってテーブルに近づいてくる。
「お決まりでございますか」
「薬膳カレーのクラシック3つと、マイルドを4つ。ラッシーを7つ。この子たちには、小さめのスプーンも頼む」
「かしこまりました」
何が注文されるのか既に分かっていた風情でオーダーシートに書き込みをし、常連客に向ける親しげな笑顔を彼に向けて、ウエイターは上品に去っていく。
「ここの薬膳カレーのマイルドな、夏休みに入ってからワシもマイブームでな。この偏食家の孔明も食えるぐらいじゃから、お前さんたちもイケる」
「老師、わたくしは偏食ではございません。寡食でございま……」
「バランスよく食えんのは大差あるまいが。公叔も苦労なさるわい」
「さしずめ、たとえばバラを丹精することに似ておりますな。楽しみが伴いますぞ」
「食う前からご馳走様か」
「ははは」
小首をかしげる少年ふたりを前に、大人たちは楽しげである。彼はといえば、風味の濃いものも皆で一緒に食べてしまえば、たとえば数時間以内に先生と至近距離で何事か起ころうとも、何の差し支えもないではないかという、小さな計算すらあるのである。
「それで、お宝はゲットできたかの。姜君」
彼のよからぬ思惑をよそに、老師は会議で疲れた双眸を洗うべく、気になる少年に視線を向けた。老師には子がないためか、世の中の子供すべてが宝に見える。まして天水の秀才はなおさらだ。
「はい」
「2つあったであろう。どうした」
「マイクロフィルムの複写を、はじめのほう、ちょっとだけ……。していただきました。全部は無理だったんですけど」
「よき哉。西夏王碑も久々に日の目を見て、砂の下で喜んでおろうぞ」
「こうめい先生のおかげです」
「なんの。ここは日曜は休みの殿様商売だからの、こういう機会にこそ見学しとくに越したことはない。18になったら大手をふって、使い放題じゃ。それにな」
老師は、ちょっとだけ聲をひそめて
「だいたいな、王立図書館に一度も用事ができずに生涯を終える巡りの国民もおるんじゃから、そのぶん君たちが、ちょっとばかりフライングしてもよかろうて」
子供たちも先生も思いつかない理屈を囁いてから、堂堂とカラカラと笑うのであった。
「お待たせいたしました」
「おー、待ちかねた。今日は朝メシ抜いてきたんじゃ。食って帰るのを励みに、仕事に来たようなもんじゃ。本当にこの夏は老体には堪えた。よく生き延びたわい」
「ほんとうにお暑うございました。ごゆっくりどうぞ」
ウエイターは優雅で無駄のない動作で七人分もの配膳をすると、いつともわからないような自然さでオーダーシートを彼のそばに置いて、すっと立ち去った。
「さあ、いただこうか」
彼に促されると、さっそくナフキンの端を襟元にまで挟んで、幼稚園児のようになりながら、水鏡先生はえびす顔である。
「頂きます」
「いただきまス」
「いっただきまーす」
「いただきます」
カレーは、銀色の流線型のソースポットに入って、スパイシーな香りを漂わせている。
「まず、ちろっとかけて試してみい。無理そうなら、ハンバーグでも何でも頼んだらよい」
「ハイ!」
少年ふたりはレードルをとりあげ、白いライスの皿の上に薬膳カレーマイルドをひと匙そそぐ。
「わあ、なんかすごくキレイな色!」
「ほんとだ……」
ふたりとも、薬膳というからには、なんとなく黒っぽくて苦いのではという想像をしていた。給食のカレーや、テレビコマーシャルの映像で流れたりするカレーは、どちらかというと茶色という表現が妥当だが、これは黄色といえる。とくに、皿にそそいだルウの縁の発色が鮮やかで、まさに鬱金色という印象である。姜少年はその色合いにじっと見入っていた。
「おいしい! 最初あまいのに……、あとからカレーって感じ!」
「そうじゃろう」
「カレーがこれほど軽く華やかでフルーティーに味わえるとは、わたくしも先日おどろきました。ラッシーの塩加減も……」
「薀蓄はあとにせんか。メシがまずくなるじゃろう」
「おや、水鏡先生。その薀蓄が、ひとあじ上げるのでございますぞ」
「? うんちくって、辛口のことですか?」
彼はクラシックを、老師は自分と同じマイルドを食べているので、子息はそのような問いを発した。
「はっはっは。当たらずとも遠からずじゃ」
(うんちくって、ほんとに辛口のことなのかな……?)
子息が腑に落ちない表情でスプーンを口に運ぼうとすると、隣の姜少年の手が止まっていることに気がついた。それだけでなく、俯いて涙を拭いている。
「姜くん、お水。だいじょうぶ? もしかして、からかった?」
子息は、水滴を増やして滑りやすくなった水のグラスを注意深く手元に寄せてやり、2つ年下の姜少年をかばうように気遣った。姜少年はかぶりをふって
「ごめん、違うんだ。すごくおいしいです。このカレー……」
しゃくりあげながら、姜少年を問い詰めもせず、一同は食事を摂る手をとめて少年を見守る。
こんなとき、往往にして少年は
『ごめんなさい、なんでもないです』
と、見え見えの強がりで口をつぐんできたのに、劉家の面面と水鏡老師が心底心配しながらも、姜少年が理由を言わないならば聞くまいという気持ちでじっと同じ食卓に座っているこの状況が家族のようで、姜少年は反射的に本当のことを言ってしまっていた。
「このカレー、父のカレーにそっくりです」
「えっ、そうなの?」
こっくり頷く姜少年に、劉家の子息は少年の亡父を急に身近に感じた。子息の父である彼も、義兄弟に手伝わせて時々、いわゆる男のカレーを作るからだ。
水鏡老師は、埋もれた西夏王碑がもたらす見えない運命の糸の予感を感じて、ラッシーの淡い塩気で唇を湿らせた。
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