彼と先生が新春の約束どおりに、恩賜公園の金木犀が終わったあとの路上の鮮やかな散華を名残に見た頃である。
「今宵は何か、天文ショーという趣のことはあるのか」
日が落ちて、ようようくれてゆく自邸の二階のテラスで「マジックアワーを見よう」 と誘って、先生が淹れてくれた茶を喫しながら、実は先生がハーブの世話をしている姿を眺めるともなく眺めて寛いでいた彼は、先生が全部の鉢にひととおり手を入れおわった様子を見計らって話しかけた。
「はい。月齢は27.1で夜空にありませぬので、流星群の観測に向きますほかは、あれに見えます太白……。東方最大離角の金星でございます」
「ほう」
彼は、先生から視線を逸らさざるを得ない話の流れに、やむなく西の空を一瞥した。
「おうし座流星群のピークは来週なのではございますが……」
「そうか。第二回のキャンプは、雨であったな。そなたの世界一当たる天気予報によれば」
天体の運行は天文学者の計算通りに発現することはほぼ間違いないが、地球に雲の緞帳がおりている場合、観測できないことも自然のことわりである。そんな日の星空キャンプは、プラネタリウムの鑑賞になってしまうに決まっている。
9月以来、うかない姜少年を誘ってこのキャンプに行ってみたいのだと、学校の理科の時間に配られたチラシの日程表を見て、先生は今のところ天気が読みやすい第一回目と第二回目を比較して、第一回目を推したのだった。保護者として、あるいはマンパワーとして劉家の家の者が彼以外全員参加するとは想定外だったのだが。
「実を申し上げますと……天気予報だけではないのです」
「ほう」
「これは、ただの占いで……。当たるかどうかはわかりませんが、姜くんの星回りに鑑みて今日のあかるい金星が、あのことに何か吉兆をもたらすようだったのです」
「ほかでもない、そなたの占いじゃ。当たろうぞ」
「……そうでございましょうか」
「そうだとも」
あのことが起きたあの日のカフェレスで、彼は会計を済ませる際に
「ところで、実に旨いこのカレーをお作りのシェフに一言お礼を申し上げることはできようか。昼時で、お忙しいかとは思うが」
姜少年の胸中を察して、もちろんそつなく問いかけた。
少年の亡き父が作っていたものと同じ味わいのカレーを作れる者がこの世に何人もいるわけがない。少年の癒えきれぬ心になにかを注ぐ存在を招き寄せることを期待したのだ。
ウエイターは深深とお辞儀をすると
「公叔、お褒めに与り光栄でございます。実は、その者は既に退職しておりまして」
丁重に、しかし口を濁した。細かい人事を軽率に明かすべきではないと考えている。組織の人間として当然の心得である。
「む? ではこのカレーは」
「昨日仕込んだものです」
「昨日か」
「はい。置き土産だと申しまして、昨夕に」
「率爾ながら……、今どちらにお勤めかを伺えますか」
「調査捕鯨船の料理長で、今頃はきっと洋上です。……支配人を通じて連絡をとることは可能でございます」
この段階で連絡を請うてみることもできた。名前だけ聞き出すこともできたかも知れない。
ただし、これ以上はおそらく、支配人を呼んだ挙句に事情を説明して、事務方を通じて情報の開示を求めることになりそうでもあった。
「よき哉。ここはワシに任せておけ。ありがとう」
水鏡老師が目配せして、ウエイターを解放し
「姜くん。ワシは仕事柄よくここに来る上に、孔明と違ってここでメシもよく食う。しばらくワシがメシを食いながら、まずはいろんな奴に当たってみよう。お前さんも、誰がカレーを作ったのか知りたいだけでなく、知ってどうしたいのか、心の準備が必要ではないか。縁があれば必ず会える。どうじゃな」
そう諭したので少年はこっくりと頷き、その場はそれで仕舞いになったのだった。
実際、その日で夏休みのカレーフェアは終了して、姜少年の母にも食べさせてみるという機会を逸した。
水鏡老師も足繁く通っては、愛想の良いウエイトレスと世間話をしては探りを入れるのだが、そのシェフは謎の人物だった。
六月頃、カフェレスの主力のシェフが料理の研鑽のために渡航したので、修了するまでの臨時雇用だったらしい。とくに飾り切りが早くて精緻、短髪を金色に染めていて、無口な若い男性だったという。「ユン」と名乗ったので、韓国人かもしれないと思いながら皆で「尹さん」のつもりでそう呼んでいたようだ。
「でも、やっぱり中国人かもしれませんね。なんかこう、ヒーローものっぽい歌、中国語で歌ってました。厨房で」
「ほほう。戦隊モノか? アニメか?」
テレビ番組通の老師は、いま中華圏でホットなジャパニメーションの主題歌のさわりを披露して、単純な興味を装った。
「えーっと、違うのみたいでした。でも、正義の味方、みたいな感じの」
何の歌を歌っていたかで、姜少年の父の年の頃と合わせて推測を深めようとしていた老師は、ひそかに落胆を重ねたのだった。
きっと姜少年の父と深いかかわりがある人物に違いなく、姜少年にとって何かのきっかけになろうことは明らかなのに、劇的な予兆にしてはその次がなしのつぶてだった。
老師は、捗捗しくないので、どこまで少年に伝えるべきか思案し、有力な何かひとつを掴むまではと、あえて少年に連絡をとらないでいる。
そうこうしているうちに後漢帝國大学附属小の新学期が始まり、彼の子息の水彩画『王立図書館のレストラン』が金賞をとって、姜少年の読書感想文『砂漠の約束』が地元紙に掲載されるという、ちょっと鼻が高いできごとが起きて月日は過ぎ、次第に『気のせいだったのかな……』『もしかして夢だったのかも』と、幼なごごろに姜少年が諦めかけ、予兆を直感的に信じている劉家の子息も、無根拠な期待をいだかせてもいけないと、気を回してあの日のカレーを強いて口にしなくなっていた。
金星を望んで思いいる先生の注意を惹こうと
「して、儂の星回りと、今日の金星の関わりは。どうじゃ」
先生が隣に座るであろうことを期待して、彼は水を向ける。
「公叔は……。星でよみきれぬほどの天佑をお持ちでございますので……」
背丈の揃ったローズマリーが、薄紫の小さな花弁を梢に咲かせて揺れる手摺のそばから離れ、先生はさらりと衣摺れの音をたてて微妙な距離で彼の横に腰掛け、ガラスのティーポットに湯を足そうと、卓に手を伸べた。
「よい香りがする」
彼は大きな両手で先生の皓い手を包み込み、指先にほんの少し唇を触れて、ハーブの香りを知りたかったのか、くちづけをしたかったのか分からないような行動をとった。
先生は、彼の手が花を包むように、ほとんど戒めようという気がない力加減であることに気づいて、臆した手を反射的に引こうとしたのを思いとどまった。彼はいつでも強引に振舞うことはなく、先生の気持ちを先生が自覚する以上に尊重しようという思いに溢れている。
「葉に触れますと、しばらくこのようなのでございます」
「この茶の中に入ったようだ」
春ごろから、龍井の茶葉に摘みたてのローズマリーの枝を添えて淹れるのが先生の習慣になっており、たびたびその相伴をしては疲れを散じている彼は、そのように言うてみた。
「公孫さまのお眼鏡に適った苗ばかりで、この夏の酷暑もよく耐え忍んでくれました」
「そなたの丹精もあろうぞ」
丹精はもちろんだが、先生がこの夏、例によって夏痩せした割に体調を大きく崩すことがなかったことも、彼にとっては嬉しいことのひとつだった。蒲柳の質はなおいとおしさが募るものではあるが、その身を苛む苦しさをかわってやることなど誰もできない以上、やはり心身ともに健康が一番である。
先生が、物言わぬように見えて仄かに語る植物とともに、助け合って夏を乗り越えたことを彼は喜ばしく思っていた。
金星が沈み、夜の帳がおりたあと、公叔邸の主寝室には常よりも早めの時刻に灯りがともった。
広くもない邸であるためか、こうして二人きりで居ると、急に室内の空気にふわりと甘みが加わるように思えて、先生は長い袖と裾の口を乳白色のサテンで控えめに飾られた淡いグレイのタオル地の寝巻きを纏い、ベッドの上で
「今夕のポトフには、メイドサービスのお嬢様にお願いして、ハーブの枝を入れていただいたのです」
などと、何を話して良いかわからないという表情で、伏し目がちに何気ない話題を懸命に探している。天才のそんな様子を彼は愉しげに見つめて、始終ご機嫌である。
「そうじゃ、この間の健診の結果を、見せてもろうたぞ。吉平先生に」
ホームドクターの名を不意に耳にして、先生はうろたえて早口に釈明する。
「あ……。C判定の原因はBMI指数のみでございます。最近の検査分析は厳しすぎるのです」
C判定とは<要再検査>だ。
「由由しきことではないか。るい痩じゃぞ、羸痩。儂ぁ、初めて『羸』という文字を知った。献血すらできんぞ」
年相応よりはやや若く見えても、鬢に白髪が出て老眼も来ていて胆嚢もない彼は、あちこちにマイナスをつけながらも検診結果の総合判定はBであったので、わざと胸を張って言うのであった。
「どれ、検分してつかわす」
彼は先生に遮る暇も与えず、襟元に艶めくサテンの紐の結び目をするりと解いて無垢な膚を吸うた。
(ああ……いかん。甜うて、温うて、滑らかで……。酔い潰れそうじゃ)
鎖骨のくぼみから耳朶のあたりまでを味わい尽くす音ばかり先生の鼓膜にわざと伝えるくせに、いささかも痕跡を残さない。
生理的に嫌であっても当然なのに、先生の頭の中では道義的にどうかということばかりで、そして彼以外の誰かであったなら嫌だ、という偽り難い事実を思い知る。
観念するように、震える息を細く吐き出す先生を解放して、彼はほどいたばかりの紐を分厚い指先で器用に蝶結びを結び直すと
「ふむ、いま少し、肥えたほうが良いのかもしれんな。おのずと、軆をめぐる水や血の量にも関わるのであろうぞ」
真面目な表情をして額に額をあてた。
脂肪が削げて柔らかくもない軆に幻滅したわけではなく、本当に先生の具合を案じてくれる彼に、先生は言うべき言葉もなく、ただ彼をひたとみつめることしかできないでいる。
「……かの夜、『終わりまで』とは言わなんだぞ。それに」
多忙で、ど忘れも増えてきたというのに、彼は先生とかわした言葉をたがえたことがない。
「そなたの軆は、儂が一番よう知っておる」
彼は余裕たっぷりに喉の奥で笑ってみせた。
物心ついてから人は誰しも、戀という感情をいだくことがあろう。あまりにも心が稚い場合は、戀に戀したにすぎないことも往往にしてあり、長じては色に耽る行為そのものが目的と堕す者も少なくない。
彼は、ただ刹那的に人を戀うただけでは示しえない忍耐を、おっとりと備えて、そして惹かれ合い続けるという感情のほかに何かを育む風を醸して先生のそばにいる。おそらくこれは年の功に併せて「待てる」という才能でもあって、忍耐ですらないのかもしれない。
「そうじゃな、たとえば、じゃ。この指輪が」
先生の右手の薬指の指輪を、嵌ったままくるりと回して見せ
「たやすく回らぬようになった頃、葷酒していない儂が『回らぬ』ことに気づいたら、の」
冗談めかして語尾に笑いを滲ませ、銀色の金属の環との間に明らかに隙間を生じている薬指に唇を寄せた。
それは「お休み」のしるしであることを察して、先生は胸が盈ちる。
(軆だけではなく、心さえも、ご存知なのでございます。あなた様は)
「これ、孔明。泣いても良いがの。泣き止んでから眠るのだぞ。眸が、腫れてしまうぞ」
当然のように腕枕を与えられ髪を撫でられると、先生はますます涙が止まらなくなるのだった。
生殖は不可能であるのに、こうして一処に居てよい理由が公然と言えなければ居てはならないのではないかと、時折に思いつめる先生は、彼とともに日日を暮らしてゆけば、いつの日かその答えが分かるかもしれないとさえ、信じることができそうなのだ。
その頃、彼の子息と姜少年は天文台敷地内に建つログハウスの二階のロフトのベッドに小さく横たわり、天窓から見える星空をおとぎばなしがわりに、しんみりとしていた。
階下では、キャンプファイヤーの設営に一役買って上機嫌の長髯と虎髭が機嫌よく酒を酌み交わし、常山の好漢が世話を焼いている。
旧式だが、山間部の冷え込みを温め慣れた風情のスチームが緩く入り始めていて、ぽわんとした室温が心地よい。板張りの内装は最近リフォームされたらしく、檜に似た香りが非日常を演出し、かすかにフクロウの鳴き声が聞こえてくる。
じつは、夕方の金星を観測したあとで食堂で振舞われたカレーが、またあのカレーだったのだ。
姜少年はもちろん、子息もすぐに気づいたが、今度は姜少年は涙をこらえ、そんな少年を心配する子息に頷きを返してみせた。
(誰なのかわからないけど、図書館のカレーの人だ。海から帰ってきてるんだ!)
少年も子息も、同じことを思っていた。これは偶然ではない。そして、偶然ではない以上、いま立ち騒がずとも必ず手がかりがつかめる確信も同じく感じていたし、そうだとすると、また「昨夜に」仕込んで今日はいないのかもしれないのだ。
「わぁ、おいしいね!」
「給食のとちがう!」
「色もキレイ」
「スゲーうまい!」
「俺おかわりしてくる!」
「三杯目かよ!」
よその学校から参加している子女が口ぐちに絶賛するなか、ふたりの脳裏に、縁があれば必ず会えると請け合った水鏡老師の言葉が去来する。
「金星ってさぁ、月みたいに満ち欠けしてたんだね、ぼく、知らなかったよ」
「僕も、望遠鏡で見たの初めて」
「月より大きいのに、あんなに小さく見えるって、すごーく遠いってこと、わかった」
「そうだね」
「月も、デコボコなのテレビとか写真で知ってたけど、3Dメガネかけたみたいだったよね」
「うん。月も、望遠鏡で見たの初めて。ニュートンってすごいな」
「ニュートン?」
「いまの反射望遠鏡って、ニュートンが作ったのが元だって、本に書いてあったよ」
「へえー。りんごが落ちる話しか知らなかったな」
「まっすぐ見るのはガリレオで、横から見るのはニュートンの発明、って」
「姜くんすごーい」
「そんなことないよ」
「カッコよかったね。横から見るの」
「うん。レンズもすごく大きかった。日本製だったね」
「日本人すごい」
「知ってる? 10等星まで見えるプラネタリウム作ったのも日本人だよ」
「えー?! 今日見えたのってギリギリ5等星ぐらいでしょう、って、解説員の人言ってた。今日の2倍ぐらいってこと?」
「たぶん、見た目のかんじだと5倍とか、もっとの感じじゃないかな……」
「王立科学館にある? それ。今度行こうよ」
「国内にはないんだ」
「えっ、ないの?」
「日本には、たくさんあるみたい。あとは、南米と東欧と、オーストラリアと、インドだったかな」
「外国かあ……遠いね」
あの人の、それとも父上のカレーを不意に味わったあとにしては、だんだんと会話が弾む姜少年に安心して、子息はいつもの調子でよびかける。
「ねえ、姜くん」
「……なぁに?」
子息がさっそくカレーのことを言い出すのだろうかと、心の準備ができにくい姜少年は毛布の下ですこし身構えた。水鏡先生が9月に言った『誰なのか知ってどうしたいのか』の答えを少年はまだ得ていない。
「姜くんは、北極星すぐみつけられる?」
「うん、たぶん」
賢い姜少年は、たぶんどころか、北半球の晴れた夜ならば春夏秋冬、5秒もあれば北極星を探し当てられるだろう。だのに、今日はじめて北極星の探し方を学んだばかりの、二歳年上のちょっと鈍いくせに思いやりというものを人一倍持ち合わせている劉家の子息のコンプレックスに触れない答えを返す。
いまや、気をつけてそうしているのではなく、互いの得手不得手や長所短所を理解しあって、時に一歩出たり一歩ひいたりできる関係が築かれつつあった。
「ぼくね、今日教わった北極星の見つけ方、ずっと覚えていようと思うんだ。場所がかわっても平気なように、家に帰っても練習する」
「練習?」
星空は、市内の移動ぐらいでは変わらない。星空を見慣れている者と見慣れていない者には、同じものでも違って見えるのかもしれない。
「うん。大人になってケータイとか持ったら、バッテリーあって電波来てたら何でもわかるから平気なのかもしれないけどね」
ときどき、子息の話は著しく飛躍することがあるのだが、姜少年はもう慣れた。
「どこにいても自分だけの力で北極星がわかったら、大きくなって誰かと離ればなれになって、もしバッテリーなくても、ちゃんと会える気がするんだ。……もし姜くんとはぐれることがあっても探しに行ける、って」
「そんなこと、考えてたの?」
「うん。そうだよ。もしその時海のうえだったとしてもさ。……ジラフィーなら匂いとか音でわかるのかもしれないけどね」
少年は愛犬のくだりを聞いていなかった。その前に聞かされた部分に瞳を見開いていた。
夕方に金星を見ている時はもちろん、食後の星空教室で流星があらわれる合間に北極星の見つけ方を教わっているときも、姜少年はこの星空をあの人が海の上で見ていたかもしれないということには思い至らなかった。自分の心の中の父上が、まだ知り得なかった父上とリアルになにか接点が生まれるかもしれないことばかり凝視してしまっていた。
子息はごそごそと寝返りを打つと、眼鏡を外していてよく見えないであろう姜少年の瞳をまっすぐに見た。
「あのさ。帰ったら、今日また図書館のカレーを食べたって、父上に話してみてもいいかな?」
カレーを作った主を探そうという意味であることを、俐発な姜少年はすぐに察した。
あの日のことを母に話して頼もうにも、証拠は味覚だけで、しかも王立図書館などというところに何のコネもない。9月のカレーを作ったシェフのプロフィールを求めえる強い事由はない。それに、何の接点もないただの偶然だったり、姜少年の記憶違いだったら母も気まずかろう上に、結局なんの手がかりでもなかったら、その冷然とした事実に自分が傷つくのも怖かった。期待よりも恐怖が大きく、母にはいまだに話せていなかった。
『母上。……父上のお友達とか知り合いとか、遠い親戚とかに、コックさんっていた?』
『コックさん? さぁ……。母の知る限りではいませんけれど……。どうして?』
『ううん、なんでもないんです』
という会話をしただけで、散歩の時に愛犬のジラフィーにはその続きを打ち明けた。
「母上も、父上のカレーのつくり方知らないから、母上が誰かに教えたという可能性はないんだ。やっぱり、つくりかた覚えるぐらい、父上と一緒にいた誰かだよね……」
少年の母だとて、あれほど急に別れが来るとは思いもよらず、カレーはずっと夫に作ってもらうつもりでいたのだ。
飼い主に似て賢い犬は、無言で少年に体温を寄せるしかできない。カレーのことを知っているのは劉家の面面と水鏡老師だけなのだ。
「でも……、公叔はお仕事もお忙しくて。それに、あの人が誰なのかは分からないし、迷惑かもしれないし、僕の父を探すわけでもないのに」
「だって今の姜くんの北極星は、あのカレーだと思うんだ。みつけようよ」
こんなところで北極星を持ち出すとは、本当に公叔の子息は、クラスメイトが言うように「鈍い」のか、姜少年には疑問である。
「どっちみち、王立図書館はぼくたち子供じゃだめなんだから、大人の力を借りてみようよ。難しいことは、その人に会ってからまた考えるっていうのは、ダメかな」
子息は、いつでも誰に対しても、自分の父が公叔であることを嵩に着たりしない。もとより財も権力もなきに等しいのだが、驚くべき人脈と強運を持つ「公叔の力」を恃むようなことを決して言わない。
そして、自分の利には鈍いくせに、家族や友人のためには力を尽くし心を砕こうと、普段のマイペースからは考えられないほどの粘り強さを発揮する。
「……ありがとう。劉くん」
「オッケーって思ってもいい?」
「……うん」
「よかった。ほっとしたら、なんか眠くなってきちゃったよ……」
となりから聞こえる素直そうな寝息と、階下の大人たちのさざめきは、どれも他人のものなのに、姜少年の心にじんわりと温かく沁みこんでくるようだった。
「……劉くん、もう寝た?」
「ぅうん、なー……に……?」
あくびまじりの返答を聞いてから、少年は呟いた。
「いつも僕のこと、誘ってくれてありがとう。母の日も、大雨の日も、プールも、音楽の発表も、図書館も、今日も。……僕、テストは得意だけど、こういうの、どうしたらいいのかまだ全然わかんないんだ……。それなのに」
まだよくわからないのに妙に大人びている子供である結果、自分も傷つきたくなくて、相手も傷つけたくなくて、しまいには自分で自分の本当の気持ちがわからなくなって、よく少年は黙りこくってしまう。そんな場面に遭遇すると
「なんだよ。口きかない、ってか?」
「なんとか言えよ」
「どうせ、自分よりバカなヤツには言ってもわかんねえ、って思ってんだろ」
「ふざけんな」
「よせよ。いいじゃんか、こんなヤツ。ほっとこうぜ」
「優等生は、先生と大人だけに頭なでられてろ」
「今だけだぜ。大人になったら、誰も頭なんかなでてくれなくなるんだぜ」
少年を扱いにくく思うクラスメイトは、たとえばこのように次第に敬遠してゆくのに、この子息だけは違うのだ。少年は、口を噤む自分を一度でも見られたらその者とはもうだめなのだと思いこんでいて「仲直り」の方法もわからないというのに、この子息は何度でもやり直そうとするのだ。
となりのベットから答えはない。あすの朝、子息が覚えていなくても良かった。もし、少しいい間違えていたとしても、胸のうちに育っていたことを実際に言葉にできただけで、今は満足だった。
姜少年の聡明な頭脳は徐々に眠気に霞みながらも、いまこの屋根の下に居る人間は全員が赤の他人であることに思い及んで、それなのになぜこんなにも温かいのかと、閉じた瞼のなかは淡い涙でいっぱいだった。
<五行五色で五題> 全9話一気読みへのショートカットは →こちら
「今宵は何か、天文ショーという趣のことはあるのか」
日が落ちて、ようようくれてゆく自邸の二階のテラスで「マジックアワーを見よう」 と誘って、先生が淹れてくれた茶を喫しながら、実は先生がハーブの世話をしている姿を眺めるともなく眺めて寛いでいた彼は、先生が全部の鉢にひととおり手を入れおわった様子を見計らって話しかけた。
「はい。月齢は27.1で夜空にありませぬので、流星群の観測に向きますほかは、あれに見えます太白……。東方最大離角の金星でございます」
「ほう」
彼は、先生から視線を逸らさざるを得ない話の流れに、やむなく西の空を一瞥した。
「おうし座流星群のピークは来週なのではございますが……」
「そうか。第二回のキャンプは、雨であったな。そなたの世界一当たる天気予報によれば」
天体の運行は天文学者の計算通りに発現することはほぼ間違いないが、地球に雲の緞帳がおりている場合、観測できないことも自然のことわりである。そんな日の星空キャンプは、プラネタリウムの鑑賞になってしまうに決まっている。
9月以来、うかない姜少年を誘ってこのキャンプに行ってみたいのだと、学校の理科の時間に配られたチラシの日程表を見て、先生は今のところ天気が読みやすい第一回目と第二回目を比較して、第一回目を推したのだった。保護者として、あるいはマンパワーとして劉家の家の者が彼以外全員参加するとは想定外だったのだが。
「実を申し上げますと……天気予報だけではないのです」
「ほう」
「これは、ただの占いで……。当たるかどうかはわかりませんが、姜くんの星回りに鑑みて今日のあかるい金星が、あのことに何か吉兆をもたらすようだったのです」
「ほかでもない、そなたの占いじゃ。当たろうぞ」
「……そうでございましょうか」
「そうだとも」
あのことが起きたあの日のカフェレスで、彼は会計を済ませる際に
「ところで、実に旨いこのカレーをお作りのシェフに一言お礼を申し上げることはできようか。昼時で、お忙しいかとは思うが」
姜少年の胸中を察して、もちろんそつなく問いかけた。
少年の亡き父が作っていたものと同じ味わいのカレーを作れる者がこの世に何人もいるわけがない。少年の癒えきれぬ心になにかを注ぐ存在を招き寄せることを期待したのだ。
ウエイターは深深とお辞儀をすると
「公叔、お褒めに与り光栄でございます。実は、その者は既に退職しておりまして」
丁重に、しかし口を濁した。細かい人事を軽率に明かすべきではないと考えている。組織の人間として当然の心得である。
「む? ではこのカレーは」
「昨日仕込んだものです」
「昨日か」
「はい。置き土産だと申しまして、昨夕に」
「率爾ながら……、今どちらにお勤めかを伺えますか」
「調査捕鯨船の料理長で、今頃はきっと洋上です。……支配人を通じて連絡をとることは可能でございます」
この段階で連絡を請うてみることもできた。名前だけ聞き出すこともできたかも知れない。
ただし、これ以上はおそらく、支配人を呼んだ挙句に事情を説明して、事務方を通じて情報の開示を求めることになりそうでもあった。
「よき哉。ここはワシに任せておけ。ありがとう」
水鏡老師が目配せして、ウエイターを解放し
「姜くん。ワシは仕事柄よくここに来る上に、孔明と違ってここでメシもよく食う。しばらくワシがメシを食いながら、まずはいろんな奴に当たってみよう。お前さんも、誰がカレーを作ったのか知りたいだけでなく、知ってどうしたいのか、心の準備が必要ではないか。縁があれば必ず会える。どうじゃな」
そう諭したので少年はこっくりと頷き、その場はそれで仕舞いになったのだった。
実際、その日で夏休みのカレーフェアは終了して、姜少年の母にも食べさせてみるという機会を逸した。
水鏡老師も足繁く通っては、愛想の良いウエイトレスと世間話をしては探りを入れるのだが、そのシェフは謎の人物だった。
六月頃、カフェレスの主力のシェフが料理の研鑽のために渡航したので、修了するまでの臨時雇用だったらしい。とくに飾り切りが早くて精緻、短髪を金色に染めていて、無口な若い男性だったという。「ユン」と名乗ったので、韓国人かもしれないと思いながら皆で「尹さん」のつもりでそう呼んでいたようだ。
「でも、やっぱり中国人かもしれませんね。なんかこう、ヒーローものっぽい歌、中国語で歌ってました。厨房で」
「ほほう。戦隊モノか? アニメか?」
テレビ番組通の老師は、いま中華圏でホットなジャパニメーションの主題歌のさわりを披露して、単純な興味を装った。
「えーっと、違うのみたいでした。でも、正義の味方、みたいな感じの」
何の歌を歌っていたかで、姜少年の父の年の頃と合わせて推測を深めようとしていた老師は、ひそかに落胆を重ねたのだった。
きっと姜少年の父と深いかかわりがある人物に違いなく、姜少年にとって何かのきっかけになろうことは明らかなのに、劇的な予兆にしてはその次がなしのつぶてだった。
老師は、捗捗しくないので、どこまで少年に伝えるべきか思案し、有力な何かひとつを掴むまではと、あえて少年に連絡をとらないでいる。
そうこうしているうちに後漢帝國大学附属小の新学期が始まり、彼の子息の水彩画『王立図書館のレストラン』が金賞をとって、姜少年の読書感想文『砂漠の約束』が地元紙に掲載されるという、ちょっと鼻が高いできごとが起きて月日は過ぎ、次第に『気のせいだったのかな……』『もしかして夢だったのかも』と、幼なごごろに姜少年が諦めかけ、予兆を直感的に信じている劉家の子息も、無根拠な期待をいだかせてもいけないと、気を回してあの日のカレーを強いて口にしなくなっていた。
金星を望んで思いいる先生の注意を惹こうと
「して、儂の星回りと、今日の金星の関わりは。どうじゃ」
先生が隣に座るであろうことを期待して、彼は水を向ける。
「公叔は……。星でよみきれぬほどの天佑をお持ちでございますので……」
背丈の揃ったローズマリーが、薄紫の小さな花弁を梢に咲かせて揺れる手摺のそばから離れ、先生はさらりと衣摺れの音をたてて微妙な距離で彼の横に腰掛け、ガラスのティーポットに湯を足そうと、卓に手を伸べた。
「よい香りがする」
彼は大きな両手で先生の皓い手を包み込み、指先にほんの少し唇を触れて、ハーブの香りを知りたかったのか、くちづけをしたかったのか分からないような行動をとった。
先生は、彼の手が花を包むように、ほとんど戒めようという気がない力加減であることに気づいて、臆した手を反射的に引こうとしたのを思いとどまった。彼はいつでも強引に振舞うことはなく、先生の気持ちを先生が自覚する以上に尊重しようという思いに溢れている。
「葉に触れますと、しばらくこのようなのでございます」
「この茶の中に入ったようだ」
春ごろから、龍井の茶葉に摘みたてのローズマリーの枝を添えて淹れるのが先生の習慣になっており、たびたびその相伴をしては疲れを散じている彼は、そのように言うてみた。
「公孫さまのお眼鏡に適った苗ばかりで、この夏の酷暑もよく耐え忍んでくれました」
「そなたの丹精もあろうぞ」
丹精はもちろんだが、先生がこの夏、例によって夏痩せした割に体調を大きく崩すことがなかったことも、彼にとっては嬉しいことのひとつだった。蒲柳の質はなおいとおしさが募るものではあるが、その身を苛む苦しさをかわってやることなど誰もできない以上、やはり心身ともに健康が一番である。
先生が、物言わぬように見えて仄かに語る植物とともに、助け合って夏を乗り越えたことを彼は喜ばしく思っていた。
金星が沈み、夜の帳がおりたあと、公叔邸の主寝室には常よりも早めの時刻に灯りがともった。
広くもない邸であるためか、こうして二人きりで居ると、急に室内の空気にふわりと甘みが加わるように思えて、先生は長い袖と裾の口を乳白色のサテンで控えめに飾られた淡いグレイのタオル地の寝巻きを纏い、ベッドの上で
「今夕のポトフには、メイドサービスのお嬢様にお願いして、ハーブの枝を入れていただいたのです」
などと、何を話して良いかわからないという表情で、伏し目がちに何気ない話題を懸命に探している。天才のそんな様子を彼は愉しげに見つめて、始終ご機嫌である。
「そうじゃ、この間の健診の結果を、見せてもろうたぞ。吉平先生に」
ホームドクターの名を不意に耳にして、先生はうろたえて早口に釈明する。
「あ……。C判定の原因はBMI指数のみでございます。最近の検査分析は厳しすぎるのです」
C判定とは<要再検査>だ。
「由由しきことではないか。るい痩じゃぞ、羸痩。儂ぁ、初めて『羸』という文字を知った。献血すらできんぞ」
年相応よりはやや若く見えても、鬢に白髪が出て老眼も来ていて胆嚢もない彼は、あちこちにマイナスをつけながらも検診結果の総合判定はBであったので、わざと胸を張って言うのであった。
「どれ、検分してつかわす」
彼は先生に遮る暇も与えず、襟元に艶めくサテンの紐の結び目をするりと解いて無垢な膚を吸うた。
(ああ……いかん。甜うて、温うて、滑らかで……。酔い潰れそうじゃ)
鎖骨のくぼみから耳朶のあたりまでを味わい尽くす音ばかり先生の鼓膜にわざと伝えるくせに、いささかも痕跡を残さない。
生理的に嫌であっても当然なのに、先生の頭の中では道義的にどうかということばかりで、そして彼以外の誰かであったなら嫌だ、という偽り難い事実を思い知る。
観念するように、震える息を細く吐き出す先生を解放して、彼はほどいたばかりの紐を分厚い指先で器用に蝶結びを結び直すと
「ふむ、いま少し、肥えたほうが良いのかもしれんな。おのずと、軆をめぐる水や血の量にも関わるのであろうぞ」
真面目な表情をして額に額をあてた。
脂肪が削げて柔らかくもない軆に幻滅したわけではなく、本当に先生の具合を案じてくれる彼に、先生は言うべき言葉もなく、ただ彼をひたとみつめることしかできないでいる。
「……かの夜、『終わりまで』とは言わなんだぞ。それに」
多忙で、ど忘れも増えてきたというのに、彼は先生とかわした言葉をたがえたことがない。
「そなたの軆は、儂が一番よう知っておる」
彼は余裕たっぷりに喉の奥で笑ってみせた。
物心ついてから人は誰しも、戀という感情をいだくことがあろう。あまりにも心が稚い場合は、戀に戀したにすぎないことも往往にしてあり、長じては色に耽る行為そのものが目的と堕す者も少なくない。
彼は、ただ刹那的に人を戀うただけでは示しえない忍耐を、おっとりと備えて、そして惹かれ合い続けるという感情のほかに何かを育む風を醸して先生のそばにいる。おそらくこれは年の功に併せて「待てる」という才能でもあって、忍耐ですらないのかもしれない。
「そうじゃな、たとえば、じゃ。この指輪が」
先生の右手の薬指の指輪を、嵌ったままくるりと回して見せ
「たやすく回らぬようになった頃、葷酒していない儂が『回らぬ』ことに気づいたら、の」
冗談めかして語尾に笑いを滲ませ、銀色の金属の環との間に明らかに隙間を生じている薬指に唇を寄せた。
それは「お休み」のしるしであることを察して、先生は胸が盈ちる。
(軆だけではなく、心さえも、ご存知なのでございます。あなた様は)
「これ、孔明。泣いても良いがの。泣き止んでから眠るのだぞ。眸が、腫れてしまうぞ」
当然のように腕枕を与えられ髪を撫でられると、先生はますます涙が止まらなくなるのだった。
生殖は不可能であるのに、こうして一処に居てよい理由が公然と言えなければ居てはならないのではないかと、時折に思いつめる先生は、彼とともに日日を暮らしてゆけば、いつの日かその答えが分かるかもしれないとさえ、信じることができそうなのだ。
その頃、彼の子息と姜少年は天文台敷地内に建つログハウスの二階のロフトのベッドに小さく横たわり、天窓から見える星空をおとぎばなしがわりに、しんみりとしていた。
階下では、キャンプファイヤーの設営に一役買って上機嫌の長髯と虎髭が機嫌よく酒を酌み交わし、常山の好漢が世話を焼いている。
旧式だが、山間部の冷え込みを温め慣れた風情のスチームが緩く入り始めていて、ぽわんとした室温が心地よい。板張りの内装は最近リフォームされたらしく、檜に似た香りが非日常を演出し、かすかにフクロウの鳴き声が聞こえてくる。
じつは、夕方の金星を観測したあとで食堂で振舞われたカレーが、またあのカレーだったのだ。
姜少年はもちろん、子息もすぐに気づいたが、今度は姜少年は涙をこらえ、そんな少年を心配する子息に頷きを返してみせた。
(誰なのかわからないけど、図書館のカレーの人だ。海から帰ってきてるんだ!)
少年も子息も、同じことを思っていた。これは偶然ではない。そして、偶然ではない以上、いま立ち騒がずとも必ず手がかりがつかめる確信も同じく感じていたし、そうだとすると、また「昨夜に」仕込んで今日はいないのかもしれないのだ。
「わぁ、おいしいね!」
「給食のとちがう!」
「色もキレイ」
「スゲーうまい!」
「俺おかわりしてくる!」
「三杯目かよ!」
よその学校から参加している子女が口ぐちに絶賛するなか、ふたりの脳裏に、縁があれば必ず会えると請け合った水鏡老師の言葉が去来する。
「金星ってさぁ、月みたいに満ち欠けしてたんだね、ぼく、知らなかったよ」
「僕も、望遠鏡で見たの初めて」
「月より大きいのに、あんなに小さく見えるって、すごーく遠いってこと、わかった」
「そうだね」
「月も、デコボコなのテレビとか写真で知ってたけど、3Dメガネかけたみたいだったよね」
「うん。月も、望遠鏡で見たの初めて。ニュートンってすごいな」
「ニュートン?」
「いまの反射望遠鏡って、ニュートンが作ったのが元だって、本に書いてあったよ」
「へえー。りんごが落ちる話しか知らなかったな」
「まっすぐ見るのはガリレオで、横から見るのはニュートンの発明、って」
「姜くんすごーい」
「そんなことないよ」
「カッコよかったね。横から見るの」
「うん。レンズもすごく大きかった。日本製だったね」
「日本人すごい」
「知ってる? 10等星まで見えるプラネタリウム作ったのも日本人だよ」
「えー?! 今日見えたのってギリギリ5等星ぐらいでしょう、って、解説員の人言ってた。今日の2倍ぐらいってこと?」
「たぶん、見た目のかんじだと5倍とか、もっとの感じじゃないかな……」
「王立科学館にある? それ。今度行こうよ」
「国内にはないんだ」
「えっ、ないの?」
「日本には、たくさんあるみたい。あとは、南米と東欧と、オーストラリアと、インドだったかな」
「外国かあ……遠いね」
あの人の、それとも父上のカレーを不意に味わったあとにしては、だんだんと会話が弾む姜少年に安心して、子息はいつもの調子でよびかける。
「ねえ、姜くん」
「……なぁに?」
子息がさっそくカレーのことを言い出すのだろうかと、心の準備ができにくい姜少年は毛布の下ですこし身構えた。水鏡先生が9月に言った『誰なのか知ってどうしたいのか』の答えを少年はまだ得ていない。
「姜くんは、北極星すぐみつけられる?」
「うん、たぶん」
賢い姜少年は、たぶんどころか、北半球の晴れた夜ならば春夏秋冬、5秒もあれば北極星を探し当てられるだろう。だのに、今日はじめて北極星の探し方を学んだばかりの、二歳年上のちょっと鈍いくせに思いやりというものを人一倍持ち合わせている劉家の子息のコンプレックスに触れない答えを返す。
いまや、気をつけてそうしているのではなく、互いの得手不得手や長所短所を理解しあって、時に一歩出たり一歩ひいたりできる関係が築かれつつあった。
「ぼくね、今日教わった北極星の見つけ方、ずっと覚えていようと思うんだ。場所がかわっても平気なように、家に帰っても練習する」
「練習?」
星空は、市内の移動ぐらいでは変わらない。星空を見慣れている者と見慣れていない者には、同じものでも違って見えるのかもしれない。
「うん。大人になってケータイとか持ったら、バッテリーあって電波来てたら何でもわかるから平気なのかもしれないけどね」
ときどき、子息の話は著しく飛躍することがあるのだが、姜少年はもう慣れた。
「どこにいても自分だけの力で北極星がわかったら、大きくなって誰かと離ればなれになって、もしバッテリーなくても、ちゃんと会える気がするんだ。……もし姜くんとはぐれることがあっても探しに行ける、って」
「そんなこと、考えてたの?」
「うん。そうだよ。もしその時海のうえだったとしてもさ。……ジラフィーなら匂いとか音でわかるのかもしれないけどね」
少年は愛犬のくだりを聞いていなかった。その前に聞かされた部分に瞳を見開いていた。
夕方に金星を見ている時はもちろん、食後の星空教室で流星があらわれる合間に北極星の見つけ方を教わっているときも、姜少年はこの星空をあの人が海の上で見ていたかもしれないということには思い至らなかった。自分の心の中の父上が、まだ知り得なかった父上とリアルになにか接点が生まれるかもしれないことばかり凝視してしまっていた。
子息はごそごそと寝返りを打つと、眼鏡を外していてよく見えないであろう姜少年の瞳をまっすぐに見た。
「あのさ。帰ったら、今日また図書館のカレーを食べたって、父上に話してみてもいいかな?」
カレーを作った主を探そうという意味であることを、俐発な姜少年はすぐに察した。
あの日のことを母に話して頼もうにも、証拠は味覚だけで、しかも王立図書館などというところに何のコネもない。9月のカレーを作ったシェフのプロフィールを求めえる強い事由はない。それに、何の接点もないただの偶然だったり、姜少年の記憶違いだったら母も気まずかろう上に、結局なんの手がかりでもなかったら、その冷然とした事実に自分が傷つくのも怖かった。期待よりも恐怖が大きく、母にはいまだに話せていなかった。
『母上。……父上のお友達とか知り合いとか、遠い親戚とかに、コックさんっていた?』
『コックさん? さぁ……。母の知る限りではいませんけれど……。どうして?』
『ううん、なんでもないんです』
という会話をしただけで、散歩の時に愛犬のジラフィーにはその続きを打ち明けた。
「母上も、父上のカレーのつくり方知らないから、母上が誰かに教えたという可能性はないんだ。やっぱり、つくりかた覚えるぐらい、父上と一緒にいた誰かだよね……」
少年の母だとて、あれほど急に別れが来るとは思いもよらず、カレーはずっと夫に作ってもらうつもりでいたのだ。
飼い主に似て賢い犬は、無言で少年に体温を寄せるしかできない。カレーのことを知っているのは劉家の面面と水鏡老師だけなのだ。
「でも……、公叔はお仕事もお忙しくて。それに、あの人が誰なのかは分からないし、迷惑かもしれないし、僕の父を探すわけでもないのに」
「だって今の姜くんの北極星は、あのカレーだと思うんだ。みつけようよ」
こんなところで北極星を持ち出すとは、本当に公叔の子息は、クラスメイトが言うように「鈍い」のか、姜少年には疑問である。
「どっちみち、王立図書館はぼくたち子供じゃだめなんだから、大人の力を借りてみようよ。難しいことは、その人に会ってからまた考えるっていうのは、ダメかな」
子息は、いつでも誰に対しても、自分の父が公叔であることを嵩に着たりしない。もとより財も権力もなきに等しいのだが、驚くべき人脈と強運を持つ「公叔の力」を恃むようなことを決して言わない。
そして、自分の利には鈍いくせに、家族や友人のためには力を尽くし心を砕こうと、普段のマイペースからは考えられないほどの粘り強さを発揮する。
「……ありがとう。劉くん」
「オッケーって思ってもいい?」
「……うん」
「よかった。ほっとしたら、なんか眠くなってきちゃったよ……」
となりから聞こえる素直そうな寝息と、階下の大人たちのさざめきは、どれも他人のものなのに、姜少年の心にじんわりと温かく沁みこんでくるようだった。
「……劉くん、もう寝た?」
「ぅうん、なー……に……?」
あくびまじりの返答を聞いてから、少年は呟いた。
「いつも僕のこと、誘ってくれてありがとう。母の日も、大雨の日も、プールも、音楽の発表も、図書館も、今日も。……僕、テストは得意だけど、こういうの、どうしたらいいのかまだ全然わかんないんだ……。それなのに」
まだよくわからないのに妙に大人びている子供である結果、自分も傷つきたくなくて、相手も傷つけたくなくて、しまいには自分で自分の本当の気持ちがわからなくなって、よく少年は黙りこくってしまう。そんな場面に遭遇すると
「なんだよ。口きかない、ってか?」
「なんとか言えよ」
「どうせ、自分よりバカなヤツには言ってもわかんねえ、って思ってんだろ」
「ふざけんな」
「よせよ。いいじゃんか、こんなヤツ。ほっとこうぜ」
「優等生は、先生と大人だけに頭なでられてろ」
「今だけだぜ。大人になったら、誰も頭なんかなでてくれなくなるんだぜ」
少年を扱いにくく思うクラスメイトは、たとえばこのように次第に敬遠してゆくのに、この子息だけは違うのだ。少年は、口を噤む自分を一度でも見られたらその者とはもうだめなのだと思いこんでいて「仲直り」の方法もわからないというのに、この子息は何度でもやり直そうとするのだ。
となりのベットから答えはない。あすの朝、子息が覚えていなくても良かった。もし、少しいい間違えていたとしても、胸のうちに育っていたことを実際に言葉にできただけで、今は満足だった。
姜少年の聡明な頭脳は徐々に眠気に霞みながらも、いまこの屋根の下に居る人間は全員が赤の他人であることに思い及んで、それなのになぜこんなにも温かいのかと、閉じた瞼のなかは淡い涙でいっぱいだった。
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