二月の日本庭園での、夜咄茶会のあとのことである。
「どうだ、久々に一杯やって帰らんか。少し疲れたではないか」
帰り道に、彼は閣下に誘われた。閣下は茶会の正客で、彼は相客だった。
「次弟のことは酒の肴になさいませんよう」
「ハハハ。その話はせん。今でも未練たらたらではあるのだがな」
「約束ですぞ」
「くどい。二言はない」
いまだに閣下が、彼の次弟を配下に加えたいと念願していることに釘をさした。彼の次弟にその気がない以上、何も心配はいらないのだが、次弟がその話題を聞きたがらないことに配慮したのだ。
閣下の赤いベンツ二台のうしろを、劉家の黒いハイブリットカーが追う。珍しい光景である。
黒い車の中では
「なんで俺サマが、赤い車の尻につかなきゃならねぇんスか! アーッ! お天道サマっ!!」
と、三弟が虎髭を逆立ててハンドルを切っていたので、彼は心得たもので、懐からスマートフォンを取り出した。老眼にはスマフォが便利だ。彼は分厚い人差し指で「趙子龍」ではなく「自宅」を押す。
「静かに運転せんか。お電話だ」
助手席から、長髯の次弟がすかさず三弟を黙らせた。
「ああ、常山の。茶会は無事に終わった。いま閣下に誘われてな。ちょっと一杯飲んで帰る」
事務的なやりとりを簡潔にかわしてから、急に彼の聲音がうきうきと高めになった。
「うむ。そうしてくれ。いや、起きておるならば、じゃが」
常山の好漢は、なぜ自分の携帯にかかってこなかったのか察して、『孔明先生におかわりしますか?』と尋ねたのだ。それを見越して、この通話ははじめから子機で受けている。先生は携帯電話を持たない。
ややあって相好を崩した甘いおっとりとした聲が、黒い車の後部座席を占める。
「おお、孔明。まだ起きていたのか。今宵は冷える。夜更かしはほどほどにな」
先生が訥訥と応じているのであろう、彼は、ふむ、うむ、と、短い相槌を打ちながらときどき喉の奥で笑い、先生の聲を耳の中で転がして悦に入っている。
三弟は耳をダンボにしつつ、会話の半分に操られてなんとなく「先生乗せてるモード」の慎重運転になる。奥手な次弟は意味もなくダッシュボードの継ぎ目を指でなぞったりしている。
黒い車の中は、赤い車に従っているという面白くはない状況が、どうでもよくなってしまいそうな幸せムードに必然的に満たされてゆくのだった。
赤い車と黒い車は、新進気鋭の建築家がデザインした新築ホテルの車寄せに相次いでとまった。
ホテルのラウンジでは、ヤマハの小型のグランドピアノの蓋が薄く開いていて、控えめなボリュームでジャズが奏でられていた。演奏者は、音大の学生という趣の若い娘だ。閣下は、(二の腕が太い)と、腕前よりも容姿をチェックしてから、互いに供につれている大男たちにはソファ席をすすめ、閣下はカウンター席を選んで彼を隣にしてちんまりと腰かけた。
「いつものを、こ奴にもな。この男の連れには、ノンアルコールを適当に……。いや、髯の長い男にだけは85年の赤を開けてやれ。余の供にはいつもので良い。つまみは上から7つ」
メニューには高額順で酒肴の名が並んでいる。上から7つというのは、メニューの中のチーズや生ハム類を上から順番に一つずつ7品目オーダーするという意味だ。
そして閣下はいつも、彼にメニューを見せずに自分の酒に彼をつきあわせる。自分がその店で一番美味いと認める酒をすすめるのだ。彼は、美食家の閣下のもてなしかたに否を言わない。
「今日の茶会は退屈だった。道具もこれといって名物が出たわけでもなく」
「しかし、飯と茶はうまかったですぞ」
「茶会は夏の、冷房の効いた室内の立礼に限る」
彼らの背後で
「85年だとぉ? まだ孟徳をたらしておるか貴様」
「誑してなどおらん。昔も、今も」
「ちょっとよこせや。85年」
「てめぇら、人が飲めねぇ目の前で呷りやがって……!」
長い髯と眼帯と虎痴と虎髭が、辺りを憚りながら平和的にじゃれている光景は、寂びた茶会の帰り道とは到底思えなかった。
(さすがの閣下も、すこし緊張なさっておったのだろうかな)
彼はそう踏みながら、閣下とおなじ酒をちびりと啜った。
「左様。料理は出ませんが、椅子が出ますでな」
背もたれのない日本式の折りたたみ椅子、床几のことを指している。布一枚の座面は心もとないが、正座の姿勢を強いられるよりも、彼らにとってはずっと楽だ。
「畳のフルコースはこたえる。痺れるのはもちろんだが、床に座るのは抵抗がある。もう一年は行かん」
「そうもゆきますまい」
「確かにな。経済衰えたりとはいえ、日本と故意に疎遠になる気まではない以上はな。日本の名士はたいてい、茶を嗜んでいる」
閣下の息女が王族と婚約中であることは、もうニュースではなくなった。今日は婚家が昵懇にしている名士の招きだったので、閣下は畳であろうがなかろうが応じないわけにはいかなかった。娘かわいさには、畳に膝を屈することができる閣下の一面を、彼は好ましいと思っている。
しかも、皮肉屋の自分をよく知っているので、想定内の粗相を未然にフォローできる布石として「ぜひ相客には劉公叔を」と、娘を通じて請うてまであった夜咄茶会だったのだ。
もちろん結果は上々で、閣下の辛口が出そうになるところで、彼は閣下の審美眼が引き立つようなコメントを加えて、亭主の閣下に対する好感度を上げるのに一役買った。
閣下はカウンターに肘をついて、人差し指でこめかみを押さえながら、凡庸にみえて喰えない彼を斜めに見た。
「夏の、おぬしの倅の絵。なかなかだったではないか」
「お褒めをいただき、恐縮です」
「巧くはない。だが、良い絵だった」
「ご三男こそ、絵も詩も大人顔負けのご才能ではありませんか」
「この世は、才能だけではだめだ。おぬしも分かっておろうが。絵の話はいい。飲め」
思いがけず、人の親らしい表情をのぞかせてから、閣下はグラスを取り上げて何気ない風に囁いた。
「例の料理人だがな。そこに居る。金髪の男だ」
「えっ」
閣下の囁きに、彼は小さく驚きの聲をあげた。バーテンダーの隣に、確かに眉毛まで金髪に染めたアジア人の若い男がいる。
「余にできぬことなど、この世界で三つだけだが、苦労したぞ」
その三つを、閣下は誰にも言わない。ユンが厨房に隠れるタイミングを見計らって、閣下は続けた。
「同じ店で、一年と続いたことがない。別に、トラブルがあるわけではない。ユンが厨房に立つとその店は例の格付けランキングに必ずと言ってよいほど載る。載ると霞のように立ち去る。どうやら星付きの店は嫌いなようだ。『ユン』は、雲という意味ではないのか」
「閣下」
「おっと。礼はいらん」
親しみのこもった気軽さで、閣下は彼の背を手のひらで軽く叩いた。
「これは貸しではない。借りを返しただけだ。……悔しいが、ほんの少しだ。今後も娘がらみの招きに応じてくれ。王孫のお歴々の前では、おぬしのような人当たりのよい貧乏貴族は必要だ」
「貧乏暇なしとはこのことですな」
「持ちつ持たれつといったところだ。地位とコネは買えても人望と血筋は買えん」
紅墻屋敷に閣下が戻ったのは、日付の変わる少し前だった。閣下は寝室へ直行したかったのだが、今日は2月14日なので書斎に寄った。先に帰った荀文若が、書斎を整えているはずだった。閣下は赤いベンツを十二台も所有している。今日の二台のうち一台は囮で、いつも荀文若が乗車して非常時に備えているのだ。行き先によって必要なら、残りの十台も使う。
赤と黒を基調にしたドラマチックな雰囲気の書斎の、黒檀のデスクの上は整然としていたが、サイドテーブルには美しいラッピングの菓子の小箱が山積みになっている。もちろん、バレンタインデーのチョコレートだ。
「送り主をチェックして、ホワイトデーに三倍返しにしておけ。品選びは任せる」
「かしこまりました」
王佐と呼ばれる秘書の荀文若は、毎年のルーチンワークなので事務的に応じる。基本的に赤いバラの花束を手配すればよいのであるが、まずリストを作って閣下の最近のご執心の度合いにかんがみて、たとえば今年は
「倉舒さまの御母堂には、いかがいたしましょうか」
と、お伺いを立てるのが吉であることは言うまでもない。
荀文若は、閣下より八つ年下だが、十は若く見える。背が高くて細身で、若いのにチベット僧のようにストイックな雰囲気を持っている。
特に美男でもなく小柄でもう若くもないのに、その財力と権力と、そして奸雄の評価にふさわしい不遜なまでに自信に満ちた堂堂たるオーラで、閣下は女に不自由したことがないし、狙った女は必ずものにしている。色恋に全く興味がない荀文若が居合わせているせいで、今宵の書斎に漂う愛人たちの気配が閣下には濃く感ぜられた。
「失礼いたします」
控えめなノックとともに、荀文若の甥があらわれた。閣下の三男の子建の目付役である。
「公達か。何か報告か。珍しいな」
「全国小中学校絵画コンクールで、子建さまが大賞をおとりになりました」
「ふん、そうか」
「おめでとうございます」
「うむ。でかした。後日褒めよう」
閣下は喜んだ様子もない。
「今宵は少しお疲れだ。詳しくはまた明日にでもお目にかけよう」
荀文若が穏やかな声でとりなし、銀盆の上の分厚い封筒を受け取った。明日になれば受賞者はニュースにながれるので、荀公達はその前に報告しておこうと思ったのだろう。
「……夜分に失礼いたしました」
音も微かに、荀公達は行儀よく書斎を去った。
荀文若は白い封筒を両手で持ったまま閣下の様子をうかがったが、閣下に読む気がないことを見て取ると、明日のための書類箱に納めた。そのあいだの沈黙が、だんだんと重苦しさを増して、さきほどまで書斎に満ちていた大人の甘さが薄れてゆく。
「最近の審査員どもは徽宗社に毒されている」
ぽつりとこぼれた閣下の声音に微かに苛立ちが混ざっているのを、荀文若は聞き逃さなかった。こういう時は、あまり口をさしはさまないほうがよい。
「あの絵は、描きたいものがなかった絵だった」
椅子から立ち上がると、獲物を探す虎のような威圧的な雰囲気を纏って、閣下は紅いペルシャ絨毯をゆっくりと踏み、歩を進める。
「確かに、審査員受けする巧い絵だった。だが、プロを目指すなら、描けないなどという甘えは許されん。描けない時にこそどうするかを考えて描け」
「閣下」
「言いすぎだというのか」
「子建さまはまだ小学生です」
「馬鹿者。『もう』小学生だ。幼児ではない。あれのライバルは、周りのガキどもに非ず。いま画壇で大きな顔をしている奴らの上をゆくぐらいの気概がなくてはならん。親の七光りと言わせぬためにもな」
閣下は長男を亡くしている。加えて、ともすれば、次男よりも三男に愛情を傾けているのではないかという普段の可愛がりようを知っているだけに、あの才能をこれほど突き放して見ることができる冷酷さに、荀文若は微かに背を震わせた。
(子建さまの一番のお幸せは、閣下がお父上であったことだ。さもなくば……)
と、偉大な父を持ってしまったプレッシャーよりも、閣下が父でなかった場合の不吉がなかったことに、安心を覚えるのだった。
もしも閣下が父でなかったなら、そしてもしも我が子を阻む才能に目を付けたなら、パトロンのふりをして近づき、遠からずその者が自滅することを買うに違いない。閣下は金と女を与えるだけでいいのだ。何も違法なことはしない。目先の富と色に溺れて、才能の意味を考える暇を奪われ目を晦まされ努力を妨げられていることに気づくことができる人間は少ない。気づいて抜け出せる者はもっと少ない。閣下は人間の弱点を知り抜いている。
「今のうちに、幼さや若さを付加価値とする悪い癖と、道具に頼る怠惰を叩きなおさねば。『なんとなく』描いて、それなりにウケをとれるのは今だけだと分かった上で逃げている確信犯と余は見る。メンタルが弱すぎる」
「……閣下」
「お前、気づいていてあの絵を出したな。文若」
「……申し訳ございません」
荀文若は素直に認める。怒っているときの閣下に言い逃れを試みると、火に油を注ぐ。
「あれが熊猫牌の12色絵具を混ぜて描いた絵なら、まだ褒める余地はある。だが!」
熊猫牌は、大手文具メーカーのひとつで、画材専門の徽宗社とは商品開発のコンセプトが全く違う。
「あの絵から、徽宗社のアンティーク・バイオレットと黄金律を除いたら、何が残るというのか! あるなら言ってみよ!」
閣下は、黒檀の机を平手で叩いた。荀文若は嵐に耐える。
「……」
徽宗社は、中国画系の画材の会社だ。天然顔料由来の、5mlあたり15ユーロもする水彩絵具を販売している。展覧会の後援に徽宗社が入っていたことも閣下は気に入らない。見る者が見れば分かる。結果的に後援会社に阿った形になっているのも屈辱的だ。
「余を謀れると思ったか!」
「滅相もございません。……出品しないよりはずっと宜しゅうございましょう。いくら金を積んでもタイトルをあとから獲ることはできません」
王佐と呼ばれるこの片腕が、閣下の目を欺くつもりもなく、絵の出来不出来でもなく、単純明快な数値的成果に着目した意見を述べたので、閣下の怒りもいささか和らいだ。
「まあよいわ……」
閣下がようやく椅子に戻ってきたので、荀文若は心得ていてお茶を献じた。
「そこへいくと、あ奴の倅の絵は実に良かった。あれが金賞どまりとは」
(あの稚拙な、黄色いレストランの絵が……?)
王立図書館のカフェレスはシックな木調で、黄色ではない。荀文若には、劉家の子息の絵がそれほど良くは映らなかった。
「あの絵の黄色は、カレー粉だ」
「えっ」
「あの絵には料理は描かれていなかった。だが、おそらく王立図書館のあのカレーを食ったことが余にはすぐにわかった」
「カレー粉……」
王佐らしからぬ、虚を衝かれた表情を珍しく浮かべた荀文若を前に、閣下は饒舌になる。
「カレー粉の発色の耐久など知らん。しかも、パースも無きがごとし。しかし、評価など気にしていない。何かはわからんが『その瞬間』を描いて留めたかったことが分かった。良い絵とは、そういうものだ。巧いだけの絵など、いくらでもある」
(閣下は意外に、劉家のご子息を買っておられる)
同じ絵を見ていたのに、その時の閣下の心を読めなかった自分を荀文若が冷静に反芻していると、やや甘えた声で閣下は荀文若を呼んだ。
「……文若」
「はい」
「……頭が痛む」
「かしこまりました」
閣下は、自分が難問をかかえているときには「痛い」と言い、実際に頭痛がするときには「痛む」と言い分けていることに気づいていないが、荀文若はこれをよく理解している。
緋色のダマスク織の布を張った猫足のアンティークソファに閣下を誘導してから
「すぐに参ります。御辛抱ください」
と、持ち前のソフトな声を更にひそめて断り、天井のライトの調光をダウンにして、いつも用意してある『お頭痛三点セット』をとりに部屋を後にした。
荀文若は、閣下がこの世でできないことの一つを見破っている。それは、「閣下の持病を根治すること」だ。何人もの高名な医師に診せたが、頭痛の原因はいまだにわからない。
今日の閣下の怒りの三分の一は親心から、また三分の一は閣下の芸術家の部分が、残りの三分の一は頭痛による不快が言わしめたのだから、荀文若は、他の側近が恐れるほどには閣下が怖くないのだった。
<五行五色で五題> 全9話一気読みへのショートカットは →こちら
「どうだ、久々に一杯やって帰らんか。少し疲れたではないか」
帰り道に、彼は閣下に誘われた。閣下は茶会の正客で、彼は相客だった。
「次弟のことは酒の肴になさいませんよう」
「ハハハ。その話はせん。今でも未練たらたらではあるのだがな」
「約束ですぞ」
「くどい。二言はない」
いまだに閣下が、彼の次弟を配下に加えたいと念願していることに釘をさした。彼の次弟にその気がない以上、何も心配はいらないのだが、次弟がその話題を聞きたがらないことに配慮したのだ。
閣下の赤いベンツ二台のうしろを、劉家の黒いハイブリットカーが追う。珍しい光景である。
黒い車の中では
「なんで俺サマが、赤い車の尻につかなきゃならねぇんスか! アーッ! お天道サマっ!!」
と、三弟が虎髭を逆立ててハンドルを切っていたので、彼は心得たもので、懐からスマートフォンを取り出した。老眼にはスマフォが便利だ。彼は分厚い人差し指で「趙子龍」ではなく「自宅」を押す。
「静かに運転せんか。お電話だ」
助手席から、長髯の次弟がすかさず三弟を黙らせた。
「ああ、常山の。茶会は無事に終わった。いま閣下に誘われてな。ちょっと一杯飲んで帰る」
事務的なやりとりを簡潔にかわしてから、急に彼の聲音がうきうきと高めになった。
「うむ。そうしてくれ。いや、起きておるならば、じゃが」
常山の好漢は、なぜ自分の携帯にかかってこなかったのか察して、『孔明先生におかわりしますか?』と尋ねたのだ。それを見越して、この通話ははじめから子機で受けている。先生は携帯電話を持たない。
ややあって相好を崩した甘いおっとりとした聲が、黒い車の後部座席を占める。
「おお、孔明。まだ起きていたのか。今宵は冷える。夜更かしはほどほどにな」
先生が訥訥と応じているのであろう、彼は、ふむ、うむ、と、短い相槌を打ちながらときどき喉の奥で笑い、先生の聲を耳の中で転がして悦に入っている。
三弟は耳をダンボにしつつ、会話の半分に操られてなんとなく「先生乗せてるモード」の慎重運転になる。奥手な次弟は意味もなくダッシュボードの継ぎ目を指でなぞったりしている。
黒い車の中は、赤い車に従っているという面白くはない状況が、どうでもよくなってしまいそうな幸せムードに必然的に満たされてゆくのだった。
赤い車と黒い車は、新進気鋭の建築家がデザインした新築ホテルの車寄せに相次いでとまった。
ホテルのラウンジでは、ヤマハの小型のグランドピアノの蓋が薄く開いていて、控えめなボリュームでジャズが奏でられていた。演奏者は、音大の学生という趣の若い娘だ。閣下は、(二の腕が太い)と、腕前よりも容姿をチェックしてから、互いに供につれている大男たちにはソファ席をすすめ、閣下はカウンター席を選んで彼を隣にしてちんまりと腰かけた。
「いつものを、こ奴にもな。この男の連れには、ノンアルコールを適当に……。いや、髯の長い男にだけは85年の赤を開けてやれ。余の供にはいつもので良い。つまみは上から7つ」
メニューには高額順で酒肴の名が並んでいる。上から7つというのは、メニューの中のチーズや生ハム類を上から順番に一つずつ7品目オーダーするという意味だ。
そして閣下はいつも、彼にメニューを見せずに自分の酒に彼をつきあわせる。自分がその店で一番美味いと認める酒をすすめるのだ。彼は、美食家の閣下のもてなしかたに否を言わない。
「今日の茶会は退屈だった。道具もこれといって名物が出たわけでもなく」
「しかし、飯と茶はうまかったですぞ」
「茶会は夏の、冷房の効いた室内の立礼に限る」
彼らの背後で
「85年だとぉ? まだ孟徳をたらしておるか貴様」
「誑してなどおらん。昔も、今も」
「ちょっとよこせや。85年」
「てめぇら、人が飲めねぇ目の前で呷りやがって……!」
長い髯と眼帯と虎痴と虎髭が、辺りを憚りながら平和的にじゃれている光景は、寂びた茶会の帰り道とは到底思えなかった。
(さすがの閣下も、すこし緊張なさっておったのだろうかな)
彼はそう踏みながら、閣下とおなじ酒をちびりと啜った。
「左様。料理は出ませんが、椅子が出ますでな」
背もたれのない日本式の折りたたみ椅子、床几のことを指している。布一枚の座面は心もとないが、正座の姿勢を強いられるよりも、彼らにとってはずっと楽だ。
「畳のフルコースはこたえる。痺れるのはもちろんだが、床に座るのは抵抗がある。もう一年は行かん」
「そうもゆきますまい」
「確かにな。経済衰えたりとはいえ、日本と故意に疎遠になる気まではない以上はな。日本の名士はたいてい、茶を嗜んでいる」
閣下の息女が王族と婚約中であることは、もうニュースではなくなった。今日は婚家が昵懇にしている名士の招きだったので、閣下は畳であろうがなかろうが応じないわけにはいかなかった。娘かわいさには、畳に膝を屈することができる閣下の一面を、彼は好ましいと思っている。
しかも、皮肉屋の自分をよく知っているので、想定内の粗相を未然にフォローできる布石として「ぜひ相客には劉公叔を」と、娘を通じて請うてまであった夜咄茶会だったのだ。
もちろん結果は上々で、閣下の辛口が出そうになるところで、彼は閣下の審美眼が引き立つようなコメントを加えて、亭主の閣下に対する好感度を上げるのに一役買った。
閣下はカウンターに肘をついて、人差し指でこめかみを押さえながら、凡庸にみえて喰えない彼を斜めに見た。
「夏の、おぬしの倅の絵。なかなかだったではないか」
「お褒めをいただき、恐縮です」
「巧くはない。だが、良い絵だった」
「ご三男こそ、絵も詩も大人顔負けのご才能ではありませんか」
「この世は、才能だけではだめだ。おぬしも分かっておろうが。絵の話はいい。飲め」
思いがけず、人の親らしい表情をのぞかせてから、閣下はグラスを取り上げて何気ない風に囁いた。
「例の料理人だがな。そこに居る。金髪の男だ」
「えっ」
閣下の囁きに、彼は小さく驚きの聲をあげた。バーテンダーの隣に、確かに眉毛まで金髪に染めたアジア人の若い男がいる。
「余にできぬことなど、この世界で三つだけだが、苦労したぞ」
その三つを、閣下は誰にも言わない。ユンが厨房に隠れるタイミングを見計らって、閣下は続けた。
「同じ店で、一年と続いたことがない。別に、トラブルがあるわけではない。ユンが厨房に立つとその店は例の格付けランキングに必ずと言ってよいほど載る。載ると霞のように立ち去る。どうやら星付きの店は嫌いなようだ。『ユン』は、雲という意味ではないのか」
「閣下」
「おっと。礼はいらん」
親しみのこもった気軽さで、閣下は彼の背を手のひらで軽く叩いた。
「これは貸しではない。借りを返しただけだ。……悔しいが、ほんの少しだ。今後も娘がらみの招きに応じてくれ。王孫のお歴々の前では、おぬしのような人当たりのよい貧乏貴族は必要だ」
「貧乏暇なしとはこのことですな」
「持ちつ持たれつといったところだ。地位とコネは買えても人望と血筋は買えん」
紅墻屋敷に閣下が戻ったのは、日付の変わる少し前だった。閣下は寝室へ直行したかったのだが、今日は2月14日なので書斎に寄った。先に帰った荀文若が、書斎を整えているはずだった。閣下は赤いベンツを十二台も所有している。今日の二台のうち一台は囮で、いつも荀文若が乗車して非常時に備えているのだ。行き先によって必要なら、残りの十台も使う。
赤と黒を基調にしたドラマチックな雰囲気の書斎の、黒檀のデスクの上は整然としていたが、サイドテーブルには美しいラッピングの菓子の小箱が山積みになっている。もちろん、バレンタインデーのチョコレートだ。
「送り主をチェックして、ホワイトデーに三倍返しにしておけ。品選びは任せる」
「かしこまりました」
王佐と呼ばれる秘書の荀文若は、毎年のルーチンワークなので事務的に応じる。基本的に赤いバラの花束を手配すればよいのであるが、まずリストを作って閣下の最近のご執心の度合いにかんがみて、たとえば今年は
「倉舒さまの御母堂には、いかがいたしましょうか」
と、お伺いを立てるのが吉であることは言うまでもない。
荀文若は、閣下より八つ年下だが、十は若く見える。背が高くて細身で、若いのにチベット僧のようにストイックな雰囲気を持っている。
特に美男でもなく小柄でもう若くもないのに、その財力と権力と、そして奸雄の評価にふさわしい不遜なまでに自信に満ちた堂堂たるオーラで、閣下は女に不自由したことがないし、狙った女は必ずものにしている。色恋に全く興味がない荀文若が居合わせているせいで、今宵の書斎に漂う愛人たちの気配が閣下には濃く感ぜられた。
「失礼いたします」
控えめなノックとともに、荀文若の甥があらわれた。閣下の三男の子建の目付役である。
「公達か。何か報告か。珍しいな」
「全国小中学校絵画コンクールで、子建さまが大賞をおとりになりました」
「ふん、そうか」
「おめでとうございます」
「うむ。でかした。後日褒めよう」
閣下は喜んだ様子もない。
「今宵は少しお疲れだ。詳しくはまた明日にでもお目にかけよう」
荀文若が穏やかな声でとりなし、銀盆の上の分厚い封筒を受け取った。明日になれば受賞者はニュースにながれるので、荀公達はその前に報告しておこうと思ったのだろう。
「……夜分に失礼いたしました」
音も微かに、荀公達は行儀よく書斎を去った。
荀文若は白い封筒を両手で持ったまま閣下の様子をうかがったが、閣下に読む気がないことを見て取ると、明日のための書類箱に納めた。そのあいだの沈黙が、だんだんと重苦しさを増して、さきほどまで書斎に満ちていた大人の甘さが薄れてゆく。
「最近の審査員どもは徽宗社に毒されている」
ぽつりとこぼれた閣下の声音に微かに苛立ちが混ざっているのを、荀文若は聞き逃さなかった。こういう時は、あまり口をさしはさまないほうがよい。
「あの絵は、描きたいものがなかった絵だった」
椅子から立ち上がると、獲物を探す虎のような威圧的な雰囲気を纏って、閣下は紅いペルシャ絨毯をゆっくりと踏み、歩を進める。
「確かに、審査員受けする巧い絵だった。だが、プロを目指すなら、描けないなどという甘えは許されん。描けない時にこそどうするかを考えて描け」
「閣下」
「言いすぎだというのか」
「子建さまはまだ小学生です」
「馬鹿者。『もう』小学生だ。幼児ではない。あれのライバルは、周りのガキどもに非ず。いま画壇で大きな顔をしている奴らの上をゆくぐらいの気概がなくてはならん。親の七光りと言わせぬためにもな」
閣下は長男を亡くしている。加えて、ともすれば、次男よりも三男に愛情を傾けているのではないかという普段の可愛がりようを知っているだけに、あの才能をこれほど突き放して見ることができる冷酷さに、荀文若は微かに背を震わせた。
(子建さまの一番のお幸せは、閣下がお父上であったことだ。さもなくば……)
と、偉大な父を持ってしまったプレッシャーよりも、閣下が父でなかった場合の不吉がなかったことに、安心を覚えるのだった。
もしも閣下が父でなかったなら、そしてもしも我が子を阻む才能に目を付けたなら、パトロンのふりをして近づき、遠からずその者が自滅することを買うに違いない。閣下は金と女を与えるだけでいいのだ。何も違法なことはしない。目先の富と色に溺れて、才能の意味を考える暇を奪われ目を晦まされ努力を妨げられていることに気づくことができる人間は少ない。気づいて抜け出せる者はもっと少ない。閣下は人間の弱点を知り抜いている。
「今のうちに、幼さや若さを付加価値とする悪い癖と、道具に頼る怠惰を叩きなおさねば。『なんとなく』描いて、それなりにウケをとれるのは今だけだと分かった上で逃げている確信犯と余は見る。メンタルが弱すぎる」
「……閣下」
「お前、気づいていてあの絵を出したな。文若」
「……申し訳ございません」
荀文若は素直に認める。怒っているときの閣下に言い逃れを試みると、火に油を注ぐ。
「あれが熊猫牌の12色絵具を混ぜて描いた絵なら、まだ褒める余地はある。だが!」
熊猫牌は、大手文具メーカーのひとつで、画材専門の徽宗社とは商品開発のコンセプトが全く違う。
「あの絵から、徽宗社のアンティーク・バイオレットと黄金律を除いたら、何が残るというのか! あるなら言ってみよ!」
閣下は、黒檀の机を平手で叩いた。荀文若は嵐に耐える。
「……」
徽宗社は、中国画系の画材の会社だ。天然顔料由来の、5mlあたり15ユーロもする水彩絵具を販売している。展覧会の後援に徽宗社が入っていたことも閣下は気に入らない。見る者が見れば分かる。結果的に後援会社に阿った形になっているのも屈辱的だ。
「余を謀れると思ったか!」
「滅相もございません。……出品しないよりはずっと宜しゅうございましょう。いくら金を積んでもタイトルをあとから獲ることはできません」
王佐と呼ばれるこの片腕が、閣下の目を欺くつもりもなく、絵の出来不出来でもなく、単純明快な数値的成果に着目した意見を述べたので、閣下の怒りもいささか和らいだ。
「まあよいわ……」
閣下がようやく椅子に戻ってきたので、荀文若は心得ていてお茶を献じた。
「そこへいくと、あ奴の倅の絵は実に良かった。あれが金賞どまりとは」
(あの稚拙な、黄色いレストランの絵が……?)
王立図書館のカフェレスはシックな木調で、黄色ではない。荀文若には、劉家の子息の絵がそれほど良くは映らなかった。
「あの絵の黄色は、カレー粉だ」
「えっ」
「あの絵には料理は描かれていなかった。だが、おそらく王立図書館のあのカレーを食ったことが余にはすぐにわかった」
「カレー粉……」
王佐らしからぬ、虚を衝かれた表情を珍しく浮かべた荀文若を前に、閣下は饒舌になる。
「カレー粉の発色の耐久など知らん。しかも、パースも無きがごとし。しかし、評価など気にしていない。何かはわからんが『その瞬間』を描いて留めたかったことが分かった。良い絵とは、そういうものだ。巧いだけの絵など、いくらでもある」
(閣下は意外に、劉家のご子息を買っておられる)
同じ絵を見ていたのに、その時の閣下の心を読めなかった自分を荀文若が冷静に反芻していると、やや甘えた声で閣下は荀文若を呼んだ。
「……文若」
「はい」
「……頭が痛む」
「かしこまりました」
閣下は、自分が難問をかかえているときには「痛い」と言い、実際に頭痛がするときには「痛む」と言い分けていることに気づいていないが、荀文若はこれをよく理解している。
緋色のダマスク織の布を張った猫足のアンティークソファに閣下を誘導してから
「すぐに参ります。御辛抱ください」
と、持ち前のソフトな声を更にひそめて断り、天井のライトの調光をダウンにして、いつも用意してある『お頭痛三点セット』をとりに部屋を後にした。
荀文若は、閣下がこの世でできないことの一つを見破っている。それは、「閣下の持病を根治すること」だ。何人もの高名な医師に診せたが、頭痛の原因はいまだにわからない。
今日の閣下の怒りの三分の一は親心から、また三分の一は閣下の芸術家の部分が、残りの三分の一は頭痛による不快が言わしめたのだから、荀文若は、他の側近が恐れるほどには閣下が怖くないのだった。
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