今上の叔父と呼ばれ、漢室復興を宿願として今日も王道を踏む彼は、夜風がやや肌寒さをふくみ始めた頃、この世で一条の龍とともに、夜の餐を摂るついでに菊花酒を酌んでいた。
成都にはよい水が湧くので、自然と酒も旨い。
夏は遠くに去り、早咲きの金木犀の香も芳しく漂うて、朝晩の虫の聲も日に日に数を減じている。
「思えば、いつの頃からか、いつが重陽であったかなど、気づくいとまもなかった」
「……乱世に、ございますれば」
龍は、いまだ彼のもとに天下が帰せざるを恥じ入るように、巨きな両耳のみがかろうじて聴きとるほどの小さな声をつむいだ。
弦月に磨かれた白皙をこれほど近くに寄せながら、彼は、年をとるごとにいよいよ我が龍を手放せなくなるばかりの己を感じずにはいられない。
つい数年前を思えば、龍に言われるがまま説客として江東へ遣ったり、または渋りながらも危険な弔問にも遣ったりしていたというのに、
馬孟起と対陣したおり
「我が君、この舌先三寸で錦馬超をお味方に加えてご覧に入れます」
と、龍は請うたというのに
「それは、相ならん」
彼はついに許さなかった。任に足るものを選んで使者にたてた結果、馬孟起は臣従したのだが
「孔明。そちをやらねば降せぬなら、まことに惜しいが馬超は諦める」
と、彼はそこまで言うて危ぶんで頑として譲らなかったのだった。
虫の声がとぎれてふと傍らを見れば、我が龍の黒い衣の下には、いつぞや下賜した蜀の錦が覗いている。彼は、おのれの見立てに間違いがなかったことに満足して、頬を緩めた。
盛夏に、淡い色合いの装束が薄い黒い上衣から透けて見えるのも、いかにも水という趣の涼しさで眸にこころよいのだが、月夜の名残を慕うように香炉の煙が立ち上るような、灰色がかった抑え目の色合いに地紋が浮かぶ錦に、若やいだ帯や小物をとりあわせて、静けく座っている姿は、いつまでも見ていたいほどの心地である。
おなじ生地を、彼は色違いで渋い藍色に染めさせており、既に愛用してこの日も着ていた。
襟のあたりに視線を感じて、龍はそっと白い羽の扇の先を口許に寄せる。
まるで、この装束を今日おろしたことを彼に知られたくないような風情で、賢者らしからぬはにかみ屋な一面が、彼にはいまだにゆかしく感ぜられる。わざと知らぬふりをしてやることも忘れない。
指を折ってみれば、成都に入って二度目の重陽である。
当時、成都の城に入ってみれば、車で量るほどの美姫たちが蒐集されていたというのに
「女が不必要に多いは物入りの種じゃ。身の立つよう、よきに計ろうて暇を出せ」
と、傾城の美女らを適当に引見してみる単純な興味すら見せずに再縁を斡旋させ、帰るところがある者には当座の金を持たせ、賄い得る少しの女官を残してほとんどを去らしめた。
彼女らが後苑を出る日、彼女らは今の益州牧に暇乞いをするために、あらかじめ決められた日時にうち揃って、文官に引率されてぞろぞろと広間にあらわれた。
「主公にお目通りいたします」
ひときわ美しく着飾った豊満な女が小さな声で挨拶して腰をかがめると、後ろに控える女たち全員がそれに倣った。二百人はいたであろう、廊と階の下にも、お仕着せの装束をまとった女たちが同じような姿かたちで整列していた。
「苦しゅうない、礼を免ずる」
「おそれいります」
挨拶を発した女は、その色香が彼の目にとまることを恐れているのか、それともそれを期待しているのかわからぬ風情で俯いていた。彼は彼で、誰に関心を向けるでもなく、今日までの労をねぎらう言葉を選びながら
(しもうたわ。何度かに分けるべきであったかもしれん)
漂ってくる粉黛の香りを知覚すると、考えてあった言葉を、おろそかにならぬ程度の早めの口調で述べ
「みな、大儀であった。達者で暮らせ。ゆくがよい」
と、未練のひとかけらもなく穏やかに言って文官にめくばせするので、あまりのあっけなさに満座は軽い驚きの態であった。
「主公のご温情に感謝いたします」
一同はふたたび礼をして、漣のようにしずしずと立ち去る他はない。彼はもちろん、生まれつき繊細で鋭敏で何ごとも淡いことを好む我が龍が、粉黛の匂いに噎せて加減を悪くしかねぬことを慮ったのだ。
香りの発生源を去らしめて、彼はほっとしかけたが、廊の端に居た小柄な宮女が少し遅れて、皆と歩調を合わせようと、三歩ほど急ぎ足になったのをみとめ、はっと注意をひかれた。
しかし、その理由をたちどころに解すと、疲れ目を装って目を閉じ、彼は眉間のあたりを分厚い指で抓んでみせた。
「……お疲れでございますか、我が君」
常に傍に控えている龍が遠慮がちに問いかけた聲音を、彼は巨きな両耳のなかで何度も反芻した。
粉黛に悪酔いしておらぬか、そして、ほんの一瞬、先ほどの宮女に彼が注意を向けたことに気づいていないかを耳の中で探ったが、どうやら我が龍の関心は、彼の疲れ目の方へ向いているようだった。
「む、昨夜、つい調子に乗って竹簡を遅くまで見ておった。そのせいであろう。年には逆えん」
五十を過ぎてから疲れ目はいつものことで、嘘ではない。そのついでに瞼を揉みほぐして血行を促し、普段のまなざしに深みを加えて我が龍と視線を通わせた。
龍はまんまと騙されて
「お早めではございますが、お茶になさいますか」
と、気遣わしげな色を浮かべた。
「そうするとしよう」
彼は、おっとりと立ち上がって我が龍の手をひいて、午まえに茶を喫する場合に用いている小亭へ向かったのだった。
その時なぜ彼が、小柄な宮女に目を引かれたかといえば、急ぎ足をする様子や、その際の袖や裾のさばきかたが、決して目だとうとしているわけではなく地味であるのに品がよく、我が龍によく似ていたからだ。
加えて、長く遠く離れ離れになったあとや、用務から帰った龍を、彼はいつでも首座で待ち呆けていることなどできず、能うかぎり近くまで迎えに出るのだが、彼の姿を認めるや否や、常ひごろ落ち着き払って小走りひとつしないこの一条の龍は、ほんの二、三歩、急ぎ足をするのだった。それが思い出された。
その際、彼はといえば、三歩と言わず、更に駆け寄ってしまい、変わらぬ君寵に一向に馴れない龍が拝跪しようとするたびに
「挨拶は無用じゃ」
と、膝が地に着く前に扶け起こして、あわよくばその生真面目さに乗じて衆目も憚らずに、ひしと懐にさえしてしまうのであるが。
後苑を出た女たちから次第に流布する噂話が巷に洩れ聞こえて
「あたらしいお殿様は、酒色に迷わぬ律儀なおかた」
と、仁政の触令に加えて彼の人格を高からしめたが、彼にしてみれば、側女どころではない。
先の戦では鳳雛を失った。鳳雛だけではない。挙兵してから、数えられぬ程の血を流してきた。
いったい、いつになったら最後の一戦を決して漢室を復興し、祖先の御霊を安んじ、その後は隆中で筵を織る余生を許されようかと、ため息が出そうである。廿年前にはただ三騎と同然であった彼にとって、益州領有は難事業ではあったとしても、決して目的ではなく手段に過ぎない以上は、喜び浮かれておられようはずもない。
「さあ、一献まいろう。最近は辛口が流行りゆえ、そなたの好みに合うておるかはわからんが」」
「ご相伴に与ります」
「このごろは、儂はすっかり菊尽くしじゃな」
彼は目を癒すため、最近は龍のすすめで茶は菊花茶を多く用いるようになった。
「ご養生に越したことはございませぬ」
「はは、そなたはまだ若いゆえ、儂にあわせずともよいのだぞ。茶ぐらいは、好きなものを飲め」
そう言いながら、彼は龍があまり丈夫ではない性質を庇うのだ。
「われらが漢室の弥栄を」
このような時でさえも、彼は今上の宸襟を思いまいらせるのだった。
龍は書生の頃に、学友たちと重陽を過ごしたことがあった
「管子が千年に一度なら、桓公だとて千年に一度だ。この乱世に居るかね、そんな主公が」
酔った誰かが龍にそう戯れかかったことを、明晰な頭脳は忘れもしない。
龍が夢見た桓公はこうして実在している。しかも、彼は管子の死後に身を持ち崩して非業の最期を遂げた桓公とは明らかに器量が違った。また、歴史に鑑みれば彼は高祖にも似通った部分があったが、やはり高祖でもなかった。漢室復興の悲願を果たし、籌策が必要ない世が来たあとも、彼は龍を用済みになどしないのだろう。
今宵のやや辛めの菊花酒が、君臣ふたりにはなぜか甘やかに感ぜられた。
成都にはよい水が湧くので、自然と酒も旨い。
夏は遠くに去り、早咲きの金木犀の香も芳しく漂うて、朝晩の虫の聲も日に日に数を減じている。
「思えば、いつの頃からか、いつが重陽であったかなど、気づくいとまもなかった」
「……乱世に、ございますれば」
龍は、いまだ彼のもとに天下が帰せざるを恥じ入るように、巨きな両耳のみがかろうじて聴きとるほどの小さな声をつむいだ。
弦月に磨かれた白皙をこれほど近くに寄せながら、彼は、年をとるごとにいよいよ我が龍を手放せなくなるばかりの己を感じずにはいられない。
つい数年前を思えば、龍に言われるがまま説客として江東へ遣ったり、または渋りながらも危険な弔問にも遣ったりしていたというのに、
馬孟起と対陣したおり
「我が君、この舌先三寸で錦馬超をお味方に加えてご覧に入れます」
と、龍は請うたというのに
「それは、相ならん」
彼はついに許さなかった。任に足るものを選んで使者にたてた結果、馬孟起は臣従したのだが
「孔明。そちをやらねば降せぬなら、まことに惜しいが馬超は諦める」
と、彼はそこまで言うて危ぶんで頑として譲らなかったのだった。
虫の声がとぎれてふと傍らを見れば、我が龍の黒い衣の下には、いつぞや下賜した蜀の錦が覗いている。彼は、おのれの見立てに間違いがなかったことに満足して、頬を緩めた。
盛夏に、淡い色合いの装束が薄い黒い上衣から透けて見えるのも、いかにも水という趣の涼しさで眸にこころよいのだが、月夜の名残を慕うように香炉の煙が立ち上るような、灰色がかった抑え目の色合いに地紋が浮かぶ錦に、若やいだ帯や小物をとりあわせて、静けく座っている姿は、いつまでも見ていたいほどの心地である。
おなじ生地を、彼は色違いで渋い藍色に染めさせており、既に愛用してこの日も着ていた。
襟のあたりに視線を感じて、龍はそっと白い羽の扇の先を口許に寄せる。
まるで、この装束を今日おろしたことを彼に知られたくないような風情で、賢者らしからぬはにかみ屋な一面が、彼にはいまだにゆかしく感ぜられる。わざと知らぬふりをしてやることも忘れない。
指を折ってみれば、成都に入って二度目の重陽である。
当時、成都の城に入ってみれば、車で量るほどの美姫たちが蒐集されていたというのに
「女が不必要に多いは物入りの種じゃ。身の立つよう、よきに計ろうて暇を出せ」
と、傾城の美女らを適当に引見してみる単純な興味すら見せずに再縁を斡旋させ、帰るところがある者には当座の金を持たせ、賄い得る少しの女官を残してほとんどを去らしめた。
彼女らが後苑を出る日、彼女らは今の益州牧に暇乞いをするために、あらかじめ決められた日時にうち揃って、文官に引率されてぞろぞろと広間にあらわれた。
「主公にお目通りいたします」
ひときわ美しく着飾った豊満な女が小さな声で挨拶して腰をかがめると、後ろに控える女たち全員がそれに倣った。二百人はいたであろう、廊と階の下にも、お仕着せの装束をまとった女たちが同じような姿かたちで整列していた。
「苦しゅうない、礼を免ずる」
「おそれいります」
挨拶を発した女は、その色香が彼の目にとまることを恐れているのか、それともそれを期待しているのかわからぬ風情で俯いていた。彼は彼で、誰に関心を向けるでもなく、今日までの労をねぎらう言葉を選びながら
(しもうたわ。何度かに分けるべきであったかもしれん)
漂ってくる粉黛の香りを知覚すると、考えてあった言葉を、おろそかにならぬ程度の早めの口調で述べ
「みな、大儀であった。達者で暮らせ。ゆくがよい」
と、未練のひとかけらもなく穏やかに言って文官にめくばせするので、あまりのあっけなさに満座は軽い驚きの態であった。
「主公のご温情に感謝いたします」
一同はふたたび礼をして、漣のようにしずしずと立ち去る他はない。彼はもちろん、生まれつき繊細で鋭敏で何ごとも淡いことを好む我が龍が、粉黛の匂いに噎せて加減を悪くしかねぬことを慮ったのだ。
香りの発生源を去らしめて、彼はほっとしかけたが、廊の端に居た小柄な宮女が少し遅れて、皆と歩調を合わせようと、三歩ほど急ぎ足になったのをみとめ、はっと注意をひかれた。
しかし、その理由をたちどころに解すと、疲れ目を装って目を閉じ、彼は眉間のあたりを分厚い指で抓んでみせた。
「……お疲れでございますか、我が君」
常に傍に控えている龍が遠慮がちに問いかけた聲音を、彼は巨きな両耳のなかで何度も反芻した。
粉黛に悪酔いしておらぬか、そして、ほんの一瞬、先ほどの宮女に彼が注意を向けたことに気づいていないかを耳の中で探ったが、どうやら我が龍の関心は、彼の疲れ目の方へ向いているようだった。
「む、昨夜、つい調子に乗って竹簡を遅くまで見ておった。そのせいであろう。年には逆えん」
五十を過ぎてから疲れ目はいつものことで、嘘ではない。そのついでに瞼を揉みほぐして血行を促し、普段のまなざしに深みを加えて我が龍と視線を通わせた。
龍はまんまと騙されて
「お早めではございますが、お茶になさいますか」
と、気遣わしげな色を浮かべた。
「そうするとしよう」
彼は、おっとりと立ち上がって我が龍の手をひいて、午まえに茶を喫する場合に用いている小亭へ向かったのだった。
その時なぜ彼が、小柄な宮女に目を引かれたかといえば、急ぎ足をする様子や、その際の袖や裾のさばきかたが、決して目だとうとしているわけではなく地味であるのに品がよく、我が龍によく似ていたからだ。
加えて、長く遠く離れ離れになったあとや、用務から帰った龍を、彼はいつでも首座で待ち呆けていることなどできず、能うかぎり近くまで迎えに出るのだが、彼の姿を認めるや否や、常ひごろ落ち着き払って小走りひとつしないこの一条の龍は、ほんの二、三歩、急ぎ足をするのだった。それが思い出された。
その際、彼はといえば、三歩と言わず、更に駆け寄ってしまい、変わらぬ君寵に一向に馴れない龍が拝跪しようとするたびに
「挨拶は無用じゃ」
と、膝が地に着く前に扶け起こして、あわよくばその生真面目さに乗じて衆目も憚らずに、ひしと懐にさえしてしまうのであるが。
後苑を出た女たちから次第に流布する噂話が巷に洩れ聞こえて
「あたらしいお殿様は、酒色に迷わぬ律儀なおかた」
と、仁政の触令に加えて彼の人格を高からしめたが、彼にしてみれば、側女どころではない。
先の戦では鳳雛を失った。鳳雛だけではない。挙兵してから、数えられぬ程の血を流してきた。
いったい、いつになったら最後の一戦を決して漢室を復興し、祖先の御霊を安んじ、その後は隆中で筵を織る余生を許されようかと、ため息が出そうである。廿年前にはただ三騎と同然であった彼にとって、益州領有は難事業ではあったとしても、決して目的ではなく手段に過ぎない以上は、喜び浮かれておられようはずもない。
「さあ、一献まいろう。最近は辛口が流行りゆえ、そなたの好みに合うておるかはわからんが」」
「ご相伴に与ります」
「このごろは、儂はすっかり菊尽くしじゃな」
彼は目を癒すため、最近は龍のすすめで茶は菊花茶を多く用いるようになった。
「ご養生に越したことはございませぬ」
「はは、そなたはまだ若いゆえ、儂にあわせずともよいのだぞ。茶ぐらいは、好きなものを飲め」
そう言いながら、彼は龍があまり丈夫ではない性質を庇うのだ。
「われらが漢室の弥栄を」
このような時でさえも、彼は今上の宸襟を思いまいらせるのだった。
龍は書生の頃に、学友たちと重陽を過ごしたことがあった
「管子が千年に一度なら、桓公だとて千年に一度だ。この乱世に居るかね、そんな主公が」
酔った誰かが龍にそう戯れかかったことを、明晰な頭脳は忘れもしない。
龍が夢見た桓公はこうして実在している。しかも、彼は管子の死後に身を持ち崩して非業の最期を遂げた桓公とは明らかに器量が違った。また、歴史に鑑みれば彼は高祖にも似通った部分があったが、やはり高祖でもなかった。漢室復興の悲願を果たし、籌策が必要ない世が来たあとも、彼は龍を用済みになどしないのだろう。
今宵のやや辛めの菊花酒が、君臣ふたりにはなぜか甘やかに感ぜられた。