先帝が永の眠りに就き給う成都にはもう秋風が舞い込んでいように、南の国は毎日が盛夏のようである。蝉は日の出とともに一日中騒ぎ、密林の奥からは小動物の奇怪な鳴き声が谺する。
漢の丞相に位してこの世に遺された一条の龍は、既に何ヶ月も南蛮に起居して夢の中まで熱帯の植物が生い繁るようになったというのに、今日はどうしたことか大樹の陰の、朝露で潤う大きな青い草の上に涼しく横たわっていた。あたりは静まり、かすかに鈴を転がすような虫の音が耳に心地よく、草は磨きぬいた玉のように冷涼なのに、不思議と寝衣は少しも湿り気を帯びない。
ほのかな、ひんやりと清涼な香りを聞いて龍は自然と呼吸が深まり
(かりそめの夢であっても、いまは心の渇きまで癒えるような)
と、儚くもいますこし人の音せぬあかつきの夢の中をたゆたっていたいと思うおのれを許そうとした時である。
「やれやれ。龍の世話は骨が折れるばかりじゃ。まったくのう」
忘れえぬ懐かしき温雅な聲が樹の陰から聞こえた。いよいよこれは夢だと思い、眸をあけたならたちまちに夢から覚めて不毛な熱帯の景色が映ろうことを、それよりも聲の主が消え去ろうことを恐れて、龍は息を殺した。
「なんじゃ。ようよう出てきてみれば、狸寝入りか。儂の十八番だぞ、それは」
聲の主の気配が傍らに移動して屈みこむ気配がした。草を踏む音が聞こえなかったのは、夢である証拠か、現実である証拠なのかは断じかねた。
「陛、下」
先帝の姿を仰ぎ見るのが怖くて、臥していた龍は居住まいを正してそこへ跪くのがやっとであった。叢の虫たちは、とりなすように声を低めて鳴き続けている。
「この、馬鹿者が。痩せおって」
「……申し訳、ございません」
「おのれひとりの身と思うでない。我が身をおろそかにするは、そなたを大事に考える余の者をおろそかにすると同じことぞ」
「……はい……」
「まあよい。倅のように肥えすぎるよりはよしとしよう。立つがよい」
先帝が在りし日と同じような調子で小言を言い、礼を免じたのに、龍は俯いて足元の草ばかり見ている。
その様子を先帝は喉の奥で笑うと
(『見たならそのあとが辛い』というわけか)
彼しか知り得ぬこの賢者の一面を憎からず思った。
黄泉の客になったなら、誰しもが生きている者のことを見通せるわけではない。先の世も後の世も、彼以上に龍を理解できる巡り合わせの者がないだけである。
「まあ楽にせよ。儂も座ろう」
花に触れるほどのかすかさで白い手を誘う。
「無理をしおって。熱があるではないか。いかんぞ」
彼は、我が身の朧なるをよいことに、秀でた額に唇を寄せて微熱を検めた。
「わたくしなど、日陰深き幕舎に居り、車に乗り、兵たちの辛苦を共にしているとは申せませぬ」
俯くばかりの龍の、それとも気づかぬ萎れた花のようなかおばせに、彼は
(あいも変わらず、困った奴)
と、ゆかしくも不憫に思いながら生前とかわりもせずに
「籌策を帷幄の中に運らし勝ちを千里の外に決するのがそちの役目じゃ。気に病むでない」
夜でもない朝でもないほの明るさの中で、雲霧ほどの重さをようやく保ち得る頼りない軆で、龍を庇った。
「我が不徳の致すところを恥じ入るばかりでございます」
彼とともにここへ来ていれば、毒の泉を通って深くわけ入って来るまでもなく、南蛮王は王徳に感じて進んで臣服していたに違いない。龍には、巨きな耳を左右にして、長い腕を伸べてみずから南蛮王の縄を解き、酒数献が和やかにめぐる様子を思い描くことさえできる。
猛獣をすら驚かす智謀はあっても、先帝のごとき高徳が備わっておらぬ以上は、その日が来ることを願ってただ許すことを繰り返すばかりである。もう六度も南蛮王を釈放し、その日を贖うために、可惜あと何千何百の蜀兵を贄にするのかと、日々胸の苦しさに苛まれてやまない。
「わたくしはあと何年」
ささやくような小さな聲を、先帝の巨きな両耳は聞き逃さない。まして、いまやこの耳は、人が聞き得ぬものさえ聞き得るに等しい。桐一葉落ちた音づれから天下の秋を知る以上にである。
在りし日の彼と同じように、寡黙な龍のことばを急かしもせず、おのが理と情の絡みに思いをつけることを待っている気配に、龍は嘘をつくことが難しくなる。壽の画りを聞きたくてならぬところを、少し強がってようやく問いを続けた。
「あと何年、御遺志をお支えすることが叶いましょうか」
「今それを知って何とする」
彼には龍の本心がありありと見えて、眼光をやや厳しくあらためた。
漢室を復興するために十分な年月を告げられることを期待しているのではない。もしも耐え切れぬであろう程の年月ならば、いまの重任に輪をかけた上に、彼を欺ける程度の不摂生を更に加えて、今日から壽を縮めるつもりに相違ないことを瞬時に察した。
「もしも」
龍の脳裏には四月の永安宮の龍床があった。
みな、今とは異なる容貌と聲をして、戦いのない世の中に、馬も繋がれていない車に乗って、幸せそうに話しているのだ。そんな夢を見たと、先帝は崩ずる少し前に語ってきかせてくれたのだった。
「あの時おおせの御夢が、もしも遠い日のある日に、確かに起こるのならば」
先帝は龍の訥訥としたことばを遮って
「のう、孔明」
臣の字を呼ぶだけしては慈しみ溢れてやまぬ聲で龍を呼んだ。
「人は、おのれを全うしてこそ、おのれが何ゆえこの世にやってきたかを微かに知ることができる。そしてはじめて、遠い他日に何をすべきか悟り、安心して瞑目することができる。それを忽せにしては、遠い日のある日は、脆くも確かでなくなるぞ」
先帝は龍が生きることを望み、温かくも強く諭すかのようで、たしかに在りし日の彼だった。龍は、このあまりに過ごし難い三年の間に我知らず
『よしよし。それほど辛ければ、ここへ来よ』
とさえ言おう、愚かに甘いだけの老爺の如くに彼のおもかげを歪めていた己を、先帝から隠したかった。隠せなかったとしても、在りし日の彼ならば、黙って騙されたふりさえし通してくれるのだ。
龍を底なしに甘やかす懐の深さに釣り合うに足る、この少し狡くて芯の強い果てしもない優しさに触れて、龍は心を締め上げていた鎧がほどける心地で、ほそい双肩がふっと軽くなるのを覚えずにいられない。この感覚は、世に背を向けていて良いとは考えていなかったのに、諦めかけて世捨て人を装っていた頑なさを、もう脱ぎ捨てて良いのだと、彼をして許された時に初めて覚えたあの感じが蘇った如くであった。
「そなたは言うておった。儂の運命は星に支配されているのではない。儂の考えや選択が予兆として現れるに過ぎないと。儂次第で、状況はいかようにも変わった。そなたも、星や予測のみに惑わされてはいかんぞ」
龍は、先帝とともに戦場にたって、心細いことなど一度もなかったことを思い出す。不利な戦況や、間一髪の危険な時もあるにはあったが、彼とともにあるだけで、何も怖くなかった。彼の許でしか生きられないと同時に、彼のためならば如何ようにも頭脳を巡らすことができ、それが生きる喜びでもあった。
「では、せめてあと何度、南蛮王を解き放てば、漢土への心服を得られますものか……星も教えてくれませぬ」
「そなたがみずから信じずに何とする」
先帝は、不安の翳を帯びる曇った声音に対して、答えになっていないかのような答えをよどみもなく強く言い切った。
「信じてみよ。力や財で捩じ伏せようなどと思っておらぬその思いは、必ずや通じる。案ずるな。必ず、じゃ」
かつて三度も駕を枉げて隆中の草庵に龍をたずねた先帝は莞爾として
「取り越し苦労をする。そなたの悪い癖じゃ。たった三年で、儂の小言を忘れてしまうとは、つれない奴め」
冗談を交えてまた明るいお小言を連ね始めると、ぱらりと乾いた音とともに、急に、頭上の葉の上から俄か雨が降ってきた。まだ話したいこと、聞きたいことがあるのに、夢が覚めてしまう予感がした。
「またお目もじ叶いましょうか」
さまようばかりだった白皙をあげて、龍は先帝を仰ぎ見た。そこには崩御した頃の病み衰えたかおばせはなく、福福しく巨きな耳を左右にして、優しげな笑い皺を目尻にたたえ、鬢にも髭にも白いものが混じり始めた、漢中王にのぼったころの彼が、よく好んだ蒼い袍を着て、紗の帳を隔てたような淡さを呈していた。
「む。それは約し難いが。約そうとする証に、きっとそなたは気づくだろう」
先帝は風の力を借りて、白い頬を微かに撫でたようだった。
「ここに居ながらにして、黄泉の客とともに生きようとしては辛い。儂を、いまひととき、現つのおまえに宿すように心せよ。賢いお前なれば、意味はわかろうぞ」
玉体に縋るいとますらなく涙ながらに双眸をあけると、見慣れた幕舎の中だった。まだ夜は明けておらず、草木は眠っている様子で、いつになく静まり返っている。
頬を確かめるように掌を添わせて、この頬を撫でたのは、きっとあの拇指だったのだと、思い出そうとすればするほど、世を隔てる辛さは募るばかりである。
ふと夢の中の香りを聞いて、龍は南蛮の酷暑に泳ぎがちだった視線を枕頭の花台に向けた。過日、孟節が薤葉芸香とともに贈ってくれた植木である。いま少し夢の中の香りと比して確かめようと、起きいでてかがみ込む。すっと通り抜けるような芳香が、身も心も拭い清めるかのようだった。
銀丹草と言う名で、暑気を避けて屋内で育て、葉に湯をそそいで茶のかわりにたびたび飲むようにと勧められたのに、我が身ばかり楽をするために葉を摘む気になれないでいたのだ。
そんな考え方を見通してなお余りある先帝のおもかげを白い瞼に浮かべて思わず涙をこぼすと、涙は銀丹草に落ちて、柔らかな広い葉を頷かせるほどに揺らした。
『約し難いが約そうとする証に、きっとそなたは気づくだろう』
不意に、先帝の言葉と、銀丹草が符合する直感に、龍は瞬きを忘れる。
あの夢の中の香りといい、さきほどの俄か雨といい、偶然に銀丹草に涙を落とした今のことといい、既に見たと思われた夢は、この葉の上でいままさに起こったことであったかもしれなかった。信じればそうであり、信じざればそうではない。
龍は、今日は日が昇ったならば、かならず銀丹草の葉を摘んで茶水を喫し始めようと思い立つ。我が身ひとつのためばかりでなく、これよって約し難い約束を信じる証に応じようと思うことができそうだった。
思えば、あと七日もすれば建興三年も九月になる日の暁のことである。
漢の丞相に位してこの世に遺された一条の龍は、既に何ヶ月も南蛮に起居して夢の中まで熱帯の植物が生い繁るようになったというのに、今日はどうしたことか大樹の陰の、朝露で潤う大きな青い草の上に涼しく横たわっていた。あたりは静まり、かすかに鈴を転がすような虫の音が耳に心地よく、草は磨きぬいた玉のように冷涼なのに、不思議と寝衣は少しも湿り気を帯びない。
ほのかな、ひんやりと清涼な香りを聞いて龍は自然と呼吸が深まり
(かりそめの夢であっても、いまは心の渇きまで癒えるような)
と、儚くもいますこし人の音せぬあかつきの夢の中をたゆたっていたいと思うおのれを許そうとした時である。
「やれやれ。龍の世話は骨が折れるばかりじゃ。まったくのう」
忘れえぬ懐かしき温雅な聲が樹の陰から聞こえた。いよいよこれは夢だと思い、眸をあけたならたちまちに夢から覚めて不毛な熱帯の景色が映ろうことを、それよりも聲の主が消え去ろうことを恐れて、龍は息を殺した。
「なんじゃ。ようよう出てきてみれば、狸寝入りか。儂の十八番だぞ、それは」
聲の主の気配が傍らに移動して屈みこむ気配がした。草を踏む音が聞こえなかったのは、夢である証拠か、現実である証拠なのかは断じかねた。
「陛、下」
先帝の姿を仰ぎ見るのが怖くて、臥していた龍は居住まいを正してそこへ跪くのがやっとであった。叢の虫たちは、とりなすように声を低めて鳴き続けている。
「この、馬鹿者が。痩せおって」
「……申し訳、ございません」
「おのれひとりの身と思うでない。我が身をおろそかにするは、そなたを大事に考える余の者をおろそかにすると同じことぞ」
「……はい……」
「まあよい。倅のように肥えすぎるよりはよしとしよう。立つがよい」
先帝が在りし日と同じような調子で小言を言い、礼を免じたのに、龍は俯いて足元の草ばかり見ている。
その様子を先帝は喉の奥で笑うと
(『見たならそのあとが辛い』というわけか)
彼しか知り得ぬこの賢者の一面を憎からず思った。
黄泉の客になったなら、誰しもが生きている者のことを見通せるわけではない。先の世も後の世も、彼以上に龍を理解できる巡り合わせの者がないだけである。
「まあ楽にせよ。儂も座ろう」
花に触れるほどのかすかさで白い手を誘う。
「無理をしおって。熱があるではないか。いかんぞ」
彼は、我が身の朧なるをよいことに、秀でた額に唇を寄せて微熱を検めた。
「わたくしなど、日陰深き幕舎に居り、車に乗り、兵たちの辛苦を共にしているとは申せませぬ」
俯くばかりの龍の、それとも気づかぬ萎れた花のようなかおばせに、彼は
(あいも変わらず、困った奴)
と、ゆかしくも不憫に思いながら生前とかわりもせずに
「籌策を帷幄の中に運らし勝ちを千里の外に決するのがそちの役目じゃ。気に病むでない」
夜でもない朝でもないほの明るさの中で、雲霧ほどの重さをようやく保ち得る頼りない軆で、龍を庇った。
「我が不徳の致すところを恥じ入るばかりでございます」
彼とともにここへ来ていれば、毒の泉を通って深くわけ入って来るまでもなく、南蛮王は王徳に感じて進んで臣服していたに違いない。龍には、巨きな耳を左右にして、長い腕を伸べてみずから南蛮王の縄を解き、酒数献が和やかにめぐる様子を思い描くことさえできる。
猛獣をすら驚かす智謀はあっても、先帝のごとき高徳が備わっておらぬ以上は、その日が来ることを願ってただ許すことを繰り返すばかりである。もう六度も南蛮王を釈放し、その日を贖うために、可惜あと何千何百の蜀兵を贄にするのかと、日々胸の苦しさに苛まれてやまない。
「わたくしはあと何年」
ささやくような小さな聲を、先帝の巨きな両耳は聞き逃さない。まして、いまやこの耳は、人が聞き得ぬものさえ聞き得るに等しい。桐一葉落ちた音づれから天下の秋を知る以上にである。
在りし日の彼と同じように、寡黙な龍のことばを急かしもせず、おのが理と情の絡みに思いをつけることを待っている気配に、龍は嘘をつくことが難しくなる。壽の画りを聞きたくてならぬところを、少し強がってようやく問いを続けた。
「あと何年、御遺志をお支えすることが叶いましょうか」
「今それを知って何とする」
彼には龍の本心がありありと見えて、眼光をやや厳しくあらためた。
漢室を復興するために十分な年月を告げられることを期待しているのではない。もしも耐え切れぬであろう程の年月ならば、いまの重任に輪をかけた上に、彼を欺ける程度の不摂生を更に加えて、今日から壽を縮めるつもりに相違ないことを瞬時に察した。
「もしも」
龍の脳裏には四月の永安宮の龍床があった。
みな、今とは異なる容貌と聲をして、戦いのない世の中に、馬も繋がれていない車に乗って、幸せそうに話しているのだ。そんな夢を見たと、先帝は崩ずる少し前に語ってきかせてくれたのだった。
「あの時おおせの御夢が、もしも遠い日のある日に、確かに起こるのならば」
先帝は龍の訥訥としたことばを遮って
「のう、孔明」
臣の字を呼ぶだけしては慈しみ溢れてやまぬ聲で龍を呼んだ。
「人は、おのれを全うしてこそ、おのれが何ゆえこの世にやってきたかを微かに知ることができる。そしてはじめて、遠い他日に何をすべきか悟り、安心して瞑目することができる。それを忽せにしては、遠い日のある日は、脆くも確かでなくなるぞ」
先帝は龍が生きることを望み、温かくも強く諭すかのようで、たしかに在りし日の彼だった。龍は、このあまりに過ごし難い三年の間に我知らず
『よしよし。それほど辛ければ、ここへ来よ』
とさえ言おう、愚かに甘いだけの老爺の如くに彼のおもかげを歪めていた己を、先帝から隠したかった。隠せなかったとしても、在りし日の彼ならば、黙って騙されたふりさえし通してくれるのだ。
龍を底なしに甘やかす懐の深さに釣り合うに足る、この少し狡くて芯の強い果てしもない優しさに触れて、龍は心を締め上げていた鎧がほどける心地で、ほそい双肩がふっと軽くなるのを覚えずにいられない。この感覚は、世に背を向けていて良いとは考えていなかったのに、諦めかけて世捨て人を装っていた頑なさを、もう脱ぎ捨てて良いのだと、彼をして許された時に初めて覚えたあの感じが蘇った如くであった。
「そなたは言うておった。儂の運命は星に支配されているのではない。儂の考えや選択が予兆として現れるに過ぎないと。儂次第で、状況はいかようにも変わった。そなたも、星や予測のみに惑わされてはいかんぞ」
龍は、先帝とともに戦場にたって、心細いことなど一度もなかったことを思い出す。不利な戦況や、間一髪の危険な時もあるにはあったが、彼とともにあるだけで、何も怖くなかった。彼の許でしか生きられないと同時に、彼のためならば如何ようにも頭脳を巡らすことができ、それが生きる喜びでもあった。
「では、せめてあと何度、南蛮王を解き放てば、漢土への心服を得られますものか……星も教えてくれませぬ」
「そなたがみずから信じずに何とする」
先帝は、不安の翳を帯びる曇った声音に対して、答えになっていないかのような答えをよどみもなく強く言い切った。
「信じてみよ。力や財で捩じ伏せようなどと思っておらぬその思いは、必ずや通じる。案ずるな。必ず、じゃ」
かつて三度も駕を枉げて隆中の草庵に龍をたずねた先帝は莞爾として
「取り越し苦労をする。そなたの悪い癖じゃ。たった三年で、儂の小言を忘れてしまうとは、つれない奴め」
冗談を交えてまた明るいお小言を連ね始めると、ぱらりと乾いた音とともに、急に、頭上の葉の上から俄か雨が降ってきた。まだ話したいこと、聞きたいことがあるのに、夢が覚めてしまう予感がした。
「またお目もじ叶いましょうか」
さまようばかりだった白皙をあげて、龍は先帝を仰ぎ見た。そこには崩御した頃の病み衰えたかおばせはなく、福福しく巨きな耳を左右にして、優しげな笑い皺を目尻にたたえ、鬢にも髭にも白いものが混じり始めた、漢中王にのぼったころの彼が、よく好んだ蒼い袍を着て、紗の帳を隔てたような淡さを呈していた。
「む。それは約し難いが。約そうとする証に、きっとそなたは気づくだろう」
先帝は風の力を借りて、白い頬を微かに撫でたようだった。
「ここに居ながらにして、黄泉の客とともに生きようとしては辛い。儂を、いまひととき、現つのおまえに宿すように心せよ。賢いお前なれば、意味はわかろうぞ」
玉体に縋るいとますらなく涙ながらに双眸をあけると、見慣れた幕舎の中だった。まだ夜は明けておらず、草木は眠っている様子で、いつになく静まり返っている。
頬を確かめるように掌を添わせて、この頬を撫でたのは、きっとあの拇指だったのだと、思い出そうとすればするほど、世を隔てる辛さは募るばかりである。
ふと夢の中の香りを聞いて、龍は南蛮の酷暑に泳ぎがちだった視線を枕頭の花台に向けた。過日、孟節が薤葉芸香とともに贈ってくれた植木である。いま少し夢の中の香りと比して確かめようと、起きいでてかがみ込む。すっと通り抜けるような芳香が、身も心も拭い清めるかのようだった。
銀丹草と言う名で、暑気を避けて屋内で育て、葉に湯をそそいで茶のかわりにたびたび飲むようにと勧められたのに、我が身ばかり楽をするために葉を摘む気になれないでいたのだ。
そんな考え方を見通してなお余りある先帝のおもかげを白い瞼に浮かべて思わず涙をこぼすと、涙は銀丹草に落ちて、柔らかな広い葉を頷かせるほどに揺らした。
『約し難いが約そうとする証に、きっとそなたは気づくだろう』
不意に、先帝の言葉と、銀丹草が符合する直感に、龍は瞬きを忘れる。
あの夢の中の香りといい、さきほどの俄か雨といい、偶然に銀丹草に涙を落とした今のことといい、既に見たと思われた夢は、この葉の上でいままさに起こったことであったかもしれなかった。信じればそうであり、信じざればそうではない。
龍は、今日は日が昇ったならば、かならず銀丹草の葉を摘んで茶水を喫し始めようと思い立つ。我が身ひとつのためばかりでなく、これよって約し難い約束を信じる証に応じようと思うことができそうだった。
思えば、あと七日もすれば建興三年も九月になる日の暁のことである。