政財界の黒幕と囁かれる閣下の邸は、紅牆屋敷と呼ばれている。実際は紅というよりも丹に近い牆なのだが、語呂がよいのと、何より派手好みの閣下に似つかわしいからであろう。その名称は曹府の代名詞として既に定着している。
「ご息女のご婚約おめでとうございます」
「閣下の益益のご健康とご多幸をお祈りいたしまして」
「いや諸君、娘は持つものだな。紅事の日には嬉しくて泣きそうだ」
「そうでございましょうとも」
「お日取りはいつでございますか」
やや紫がかった艶を含んだ燕尾服に蝶ネクタイを結んだ愛嬌のある小男の周囲には、祝辞をのべる客が途絶えない。この男も始終上機嫌で、宴はいつお開きともわからぬ具合であった。
彼はめずらしく曹府に招かれていた。閣下はついに、さる王族とわが長女の縁談をまとめ上げて婚約にこぎつけたのだ。宿願のひとつを揺るがないものにするために、婚約の公式発表の前に横槍を入れようとする者どもの機先を制するための宴である。
もとより何に臆するわけでもなく、また、閣下との長年のしがらみを、閣下の令嬢の慶事を慶ぶべきかどうかを迷う原因に数えるという考え方を彼は持たない。この夜は内祝いということで、令嬢も王族もあらわれなかったが、たとえ政略色が強かろうとも、馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、である。幸せは当人同士の心がけ次第でいかようにも築いてゆけるものだ。
権門の生まれは何不自由なく育つと引き換えに、一門の単なる螺子釘やその繁栄のための鎹としての一生を至上と思えない日が来た場合、絶大な権力者と対峙せねばならない宿命をも負うているといえる。彼女がこの縁談を機に、どのように自己と婚家と曹家に向き合ってゆくか、薔薇色が約束されているとは断じ難いが、伴侶とともに苦楽を共にして全うすることを彼は祈らずにはいられない。
また、閣下にしてみれば、招待客に彼の名を挙げることは側近に進言されるまでもなく計画的であった。たとえ赤貧洗うがごときとはいえ、家柄は卑しからず、人望もあり、そして衆目を集める場において、口惜しいほどに客ぶりのよい彼を、リストから外すわけがない。招けば彼が必ずやってくることも分かっていた。
このたびは王族と外戚になるという慶事で、とくに婚家の筋における印象を良くしてゆきたい狙いがある。
「なんでも、このあいだの内祝いの宴には、公叔も見えていたそうですよ」
「それは意外な」
「お聞き違いでは?」
「閣下とは不和とのお噂も仄聞しますが」
「いや、衝突があるということは、接触があるということです」
「左様、いがみ合う間柄ならば、招きも招かれもせぬ」
「あのおかたと話していると、いつも誰しもを心にかけているということが伝わって、ほんとうに良い心地になります」
「いつお会いしても、明朗で公正で。かといって融通がきかぬわけでもなく」
「失礼ながら、特に財産も権力もお持ちでないのに、まったく不思議なおかたです」
「金や権力でどうにもならぬことを、ときどき、どうにかしておしまいになりますからな」
「しかも、世間がそうと知るのは随分と先のことで、まことに陰徳とでも申しましょうか」
「そういえば、最近、一躍ベストセラーとなった『西夏物語』の、王菫ですが」
「あれは、本屋の思惑は別にして、なかなか面白かった。本業は言語学者でしたかな」
「そうです。何でも一時期、記憶喪失だったらしく、王氏が今ああして活躍できるのも、公叔のお骨折りがあったればこそと、あとがきにそれとなく書いてありましたよ」
「ほほう」
王菫は、諸葛子瑜のペンネームである。
「閣下が一目おいていらっしゃるというのも、その不思議なお力にあるのかもしれませんな」
「ご人脈にあのかたがおいでなら、この先なにかと心強いのでは」
「いまは、呑まれるような不安が大きいのではありますが……」
「もしあのかたがお越しなら、今後の宴にちょっと顔を出すぐらいは吝かではない」
「同感ですな」
閣下としては、インテリで頭の古い王家のうるさ型の面面から、このようなムードを買っておく必要があった。これは、金を積んでも買えるものではない。
また、結婚するのが自分自身ではなく娘である以上は、幸せになってほしい親心は庶民の親と何ら変わらない。学問も稽古事も並以上に身につけさせており、甘いだけの良家にありがちな、留学先で身持ち崩して同棲というような破廉恥とは最も遠いところにいる自慢の娘である。どこへ出しても恥ずかしくない愛娘が、自分と同一視されぬ材料を増やすためにも、婚約発表後は詩文会や音楽会などを催しては、たびたび彼を招いておいて損はなかろうと思うのだった。
互いに、彼を知り己を知れば百戦あやうからずという趣で、彼らは乾坤一擲の決着など付けようと思っていないふしがある。あるいは、引き分けの百戦を互いに楽しんでいるのかもしれなかった。
このような思惑の宴から帰る車中は、珍しく静かだった。彼の義弟たちは彼の疲れを察して、口数少なく
「兄者、お疲れだったら眠ってください。『先生乗せてるモード』で、三倍静かに運転シまス」
饒舌な三弟までが、ルームミラーごしに気遣いを見せるので
(そんなに疲れた顔をしているだろうか)
と、彼は意外に思いながらも笑顔で三弟の配慮に応じた。邸に着く前に恩賜公園のそばの通りで赤信号にかかって停車したとき、街路樹が街灯に映えて緑の葉が妙に眩しく感じて、眸を閉じると両の目頭を分厚い指先で押さえた。瞼の裏の毛細血管を走る脈が見えるようだった。それは、眼の奥で赤の残像が障ったのでもあったが、彼はそこまでは気づいていない。
「お帰りなさいませ」
アイボリーとダークブラウンを基調にした主寝室の扉を開くと、眸が洗われるような白皙が彼を出迎えた。彼は、赤い砂漠の旅の果てにオアシスに辿りついた心地で「ただいま」を言うことも忘れて先生を抱きすくめて
「……起きていてくれたのか」
心の奥底までひといきに潤う感覚に、自覚した以上の疲労を今更に認めた。
「きっとお疲れと思いまして……せめて少しお寛ぎになってからお休みになれますようにと……」
「では夜更かしをさせてしまったな。ちと、引き止められてしまった」
「いいえ、お会いして、安心して眠りたかったのでございます」
低い聲音で言葉をかわしながら手を携えて部屋の中へ移動すると、人工的な明かりは家電のディスプレイ部分の点灯のみで、小さな卓上とナイトテーブルの上とに、ティーライトの控えめな揺らぎが見える。ほの暗い中で、先生は黒い紗のガウンから袖と裾の長いマオカラーの麻混の寝巻を涼しげに透かして、さらりとした空気を部屋に与えているかのようだった。彼はほっと息をつく。
(曹府へゆくとなぜか疲れることを、覚えていてくれたのか)
彼はいつ言ったのか忘れたが、いまどきはホテルやハコ物でのパーティーの方が多く、そう頻繁に曹府へは招かれてはいないので、繰り返し言ってはいないはずだということだけは分かった。先生は一度聞いたことは本当にすべて覚えているのかもしれない。
彼が整った浴室で疲労を洗い流して主寝室のソファへ戻ってくる頃合を見計らい、先生はガラスのポットに湯を満たして待っていた。
先生は曹府へ行ったことはないが、彼の話からおおよその構えを思い浮かべることができる。今宵の宴の規模からみて、以前に聞き知った中広間での宴会だったのではないだろうかと。
その広間は長方形の間取りで、張り出した柱の前には大ぶりの赤絵の壺が配され、天井まで届こうかという大窓は、たっぷりと襞をとった真紅のカーテンが金色のタッセルで彩られ、その窓と交互に金色の縁飾りを重たげにあしらった縦長の大きな一枚鏡を何十面も並べてあるらしい。どうやら向かいの壁と合わせ鏡になっていて、広間の絢爛は幾重にも広がる趣向と思われた。卓上には瑕疵ひとつない選りぬきの赤いバラのアレンジメントである。
そのしつらいは、あの男の富と権力をも無限にしようとする意志のあらわれでもあろうが、同時にそれらを支えるために発生する負の感情や、たとえばあの男の身のうちの宿痾までも映し出して増幅することでもあろうと思えた。荀文若ほどの賢者が傍についていなければ、あのような部屋を邸内に持つことは、本来は不吉かもしれなかった。
「お好みに合えばよろしいのですが」
そんな空間から帰ってきた彼に、先生は紅牆屋敷の広間の謎解きをするわけでもなく、ガラスのポットから淡い緑色の茶を注いで供した。
「いただこう」
茶碗からたちのぼる湯気は、爽やかな香気を含んで彼の鼻腔を潤す。
「龍井にしては、ちと、はっきりとした味わいのようじゃが」
身近なミントや薄荷よりも、深みのある清涼感の由来を、彼は問うた。
「いつもの龍井に、公孫さまのハーブを入れてみました」
ガラスのポットには、ひらいた龍井の葉とともに、松に似たひと枝がよこたわっている。
「ほほう、すると最近は園芸に凝りはじめたのだな、そなたは」
彼は、視線を和ませた。眼の奥の残像が散じて、自然にそうなったのかもしれない。
「お見通しでございますね」
「よいものをいただいたではないか」
「雨期の前に、思い切ってたくさん剪定いたしましたので、よく乾きましたら公孫さまへお礼に差し上げたく思うのです」
「それはよい。あのおかたは、特別な日に限らず、むしろ日頃からの小さな心尽くしを喜ぶおかたじゃ」
「……上手にできましたらよいのですが」
「なに。気は心じゃ。はじめから専門家のようにはゆくまい。公孫の兄者を心にかけて丹精してくれる気持ちが、儂は嬉しいぞ」
公孫花壇がティーサロンを開店する前に、『淑女画報』に打った広告記事に彼らは協力したことがある。ティーサロンは公孫総経理が狙ったとおりの静かな繁盛で早くも経営を軌道にのせた。広告がいかほどの効果をあげたかは定かではないが、総経理は「何ごとも初めが肝心」と口癖のように言うようになり、この春、ささやかな礼として何か鉢植えを何ダースか、二階のテラス用に贈ろうと言って寄越した。高価なバラを所望してもいいというのに、先生は暑さにも寒さにも強いハーブの苗木を希望したのだ。
「なんと、欲のない」
と、公孫総経理は、バラが選ばれなかったことに若干の落胆を覚えつつも、彼の家族としてますますしっくりと見える先生の希望に沿い、淡い紫色の花をつけるローズマリーを十二株ほど、端正な背丈を揃えて納入した。
どうやら先生は、もしも自分が四、五日ほど体調を崩しても、水なしで耐えうるような、そして花期が来て花が落ちても清掃の労をとらぬに等しいような、そんな種を望んだのだろう。この控えめなハーブは先生の手ですくすくと育っては、おりおりに摘みたての葉を先生の茶碗に恵み、先生の軆をひそかに助ける役割を担うようになったというわけである。
「ほんとうは、朝のうちの摘みたてが、いちばんよいのでございますが」
「それはそなたが服したらよい。儂はな、こうして差し向こうて茶を喫するだけで、癒える心地がするぞ」
先生は、ただ一杯の茶だけでこの世の幸せを掌にできる彼を、誇らしくも眩しく思う。おそらく先生が感じ取る以上に、たとえば、先生が安全な水に心尽くしを加えて彼に差し出すことができるという今そのものと、今宵その心遣いを招いた紅牆屋敷の主とのかかわりにすら、蒼天に感謝しているのかもしれない。彼の考え方は信仰とは少し違うものの、彼一個人の持って生まれた個性と、歴史と経験に学んで得た信念があるところは、たとえ軆がなくなっても連なっていることができそうなほど、寛くてとらえどころがないもののようだった。
そんな彼に、こうして特別に想いを懸けられているとは、血のつながらない赤の他人であればこそ、なおのことこの巡りあいの不思議には、原因や理由すら求めたくなるほどである。それを知って納得したいのではなく、それがゆえにもう離れることなどないという確かな証が欲しいのかもしれなかった。
先生が、聡明な頭脳をもってしても理で解き得ぬ情を思うとき、よく涙ぐむことを知っている彼は、どうしたのだと問いもせず
「今宵は、ひさびさに寝物語などして休めそうだ。……何の話がよいかな」
こぼれそうな双眸を覗き込んでから、先生の薄いガウンの紐をやわらかにほどいて手を取り、寝台へいざなった。
「……月下老人のお話を……」
先生が俯いてそう囁いたので、彼は喉の奥でくすりと笑ってから、細い足首に足首を絡めてやった。どういう巡り合わせか、どうやら今宵は紅尽くしの趣のようだった。
<五行五色で五題> 全9話一気読みへのショートカットは →こちら
「ご息女のご婚約おめでとうございます」
「閣下の益益のご健康とご多幸をお祈りいたしまして」
「いや諸君、娘は持つものだな。紅事の日には嬉しくて泣きそうだ」
「そうでございましょうとも」
「お日取りはいつでございますか」
やや紫がかった艶を含んだ燕尾服に蝶ネクタイを結んだ愛嬌のある小男の周囲には、祝辞をのべる客が途絶えない。この男も始終上機嫌で、宴はいつお開きともわからぬ具合であった。
彼はめずらしく曹府に招かれていた。閣下はついに、さる王族とわが長女の縁談をまとめ上げて婚約にこぎつけたのだ。宿願のひとつを揺るがないものにするために、婚約の公式発表の前に横槍を入れようとする者どもの機先を制するための宴である。
もとより何に臆するわけでもなく、また、閣下との長年のしがらみを、閣下の令嬢の慶事を慶ぶべきかどうかを迷う原因に数えるという考え方を彼は持たない。この夜は内祝いということで、令嬢も王族もあらわれなかったが、たとえ政略色が強かろうとも、馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、である。幸せは当人同士の心がけ次第でいかようにも築いてゆけるものだ。
権門の生まれは何不自由なく育つと引き換えに、一門の単なる螺子釘やその繁栄のための鎹としての一生を至上と思えない日が来た場合、絶大な権力者と対峙せねばならない宿命をも負うているといえる。彼女がこの縁談を機に、どのように自己と婚家と曹家に向き合ってゆくか、薔薇色が約束されているとは断じ難いが、伴侶とともに苦楽を共にして全うすることを彼は祈らずにはいられない。
また、閣下にしてみれば、招待客に彼の名を挙げることは側近に進言されるまでもなく計画的であった。たとえ赤貧洗うがごときとはいえ、家柄は卑しからず、人望もあり、そして衆目を集める場において、口惜しいほどに客ぶりのよい彼を、リストから外すわけがない。招けば彼が必ずやってくることも分かっていた。
このたびは王族と外戚になるという慶事で、とくに婚家の筋における印象を良くしてゆきたい狙いがある。
「なんでも、このあいだの内祝いの宴には、公叔も見えていたそうですよ」
「それは意外な」
「お聞き違いでは?」
「閣下とは不和とのお噂も仄聞しますが」
「いや、衝突があるということは、接触があるということです」
「左様、いがみ合う間柄ならば、招きも招かれもせぬ」
「あのおかたと話していると、いつも誰しもを心にかけているということが伝わって、ほんとうに良い心地になります」
「いつお会いしても、明朗で公正で。かといって融通がきかぬわけでもなく」
「失礼ながら、特に財産も権力もお持ちでないのに、まったく不思議なおかたです」
「金や権力でどうにもならぬことを、ときどき、どうにかしておしまいになりますからな」
「しかも、世間がそうと知るのは随分と先のことで、まことに陰徳とでも申しましょうか」
「そういえば、最近、一躍ベストセラーとなった『西夏物語』の、王菫ですが」
「あれは、本屋の思惑は別にして、なかなか面白かった。本業は言語学者でしたかな」
「そうです。何でも一時期、記憶喪失だったらしく、王氏が今ああして活躍できるのも、公叔のお骨折りがあったればこそと、あとがきにそれとなく書いてありましたよ」
「ほほう」
王菫は、諸葛子瑜のペンネームである。
「閣下が一目おいていらっしゃるというのも、その不思議なお力にあるのかもしれませんな」
「ご人脈にあのかたがおいでなら、この先なにかと心強いのでは」
「いまは、呑まれるような不安が大きいのではありますが……」
「もしあのかたがお越しなら、今後の宴にちょっと顔を出すぐらいは吝かではない」
「同感ですな」
閣下としては、インテリで頭の古い王家のうるさ型の面面から、このようなムードを買っておく必要があった。これは、金を積んでも買えるものではない。
また、結婚するのが自分自身ではなく娘である以上は、幸せになってほしい親心は庶民の親と何ら変わらない。学問も稽古事も並以上に身につけさせており、甘いだけの良家にありがちな、留学先で身持ち崩して同棲というような破廉恥とは最も遠いところにいる自慢の娘である。どこへ出しても恥ずかしくない愛娘が、自分と同一視されぬ材料を増やすためにも、婚約発表後は詩文会や音楽会などを催しては、たびたび彼を招いておいて損はなかろうと思うのだった。
互いに、彼を知り己を知れば百戦あやうからずという趣で、彼らは乾坤一擲の決着など付けようと思っていないふしがある。あるいは、引き分けの百戦を互いに楽しんでいるのかもしれなかった。
このような思惑の宴から帰る車中は、珍しく静かだった。彼の義弟たちは彼の疲れを察して、口数少なく
「兄者、お疲れだったら眠ってください。『先生乗せてるモード』で、三倍静かに運転シまス」
饒舌な三弟までが、ルームミラーごしに気遣いを見せるので
(そんなに疲れた顔をしているだろうか)
と、彼は意外に思いながらも笑顔で三弟の配慮に応じた。邸に着く前に恩賜公園のそばの通りで赤信号にかかって停車したとき、街路樹が街灯に映えて緑の葉が妙に眩しく感じて、眸を閉じると両の目頭を分厚い指先で押さえた。瞼の裏の毛細血管を走る脈が見えるようだった。それは、眼の奥で赤の残像が障ったのでもあったが、彼はそこまでは気づいていない。
「お帰りなさいませ」
アイボリーとダークブラウンを基調にした主寝室の扉を開くと、眸が洗われるような白皙が彼を出迎えた。彼は、赤い砂漠の旅の果てにオアシスに辿りついた心地で「ただいま」を言うことも忘れて先生を抱きすくめて
「……起きていてくれたのか」
心の奥底までひといきに潤う感覚に、自覚した以上の疲労を今更に認めた。
「きっとお疲れと思いまして……せめて少しお寛ぎになってからお休みになれますようにと……」
「では夜更かしをさせてしまったな。ちと、引き止められてしまった」
「いいえ、お会いして、安心して眠りたかったのでございます」
低い聲音で言葉をかわしながら手を携えて部屋の中へ移動すると、人工的な明かりは家電のディスプレイ部分の点灯のみで、小さな卓上とナイトテーブルの上とに、ティーライトの控えめな揺らぎが見える。ほの暗い中で、先生は黒い紗のガウンから袖と裾の長いマオカラーの麻混の寝巻を涼しげに透かして、さらりとした空気を部屋に与えているかのようだった。彼はほっと息をつく。
(曹府へゆくとなぜか疲れることを、覚えていてくれたのか)
彼はいつ言ったのか忘れたが、いまどきはホテルやハコ物でのパーティーの方が多く、そう頻繁に曹府へは招かれてはいないので、繰り返し言ってはいないはずだということだけは分かった。先生は一度聞いたことは本当にすべて覚えているのかもしれない。
彼が整った浴室で疲労を洗い流して主寝室のソファへ戻ってくる頃合を見計らい、先生はガラスのポットに湯を満たして待っていた。
先生は曹府へ行ったことはないが、彼の話からおおよその構えを思い浮かべることができる。今宵の宴の規模からみて、以前に聞き知った中広間での宴会だったのではないだろうかと。
その広間は長方形の間取りで、張り出した柱の前には大ぶりの赤絵の壺が配され、天井まで届こうかという大窓は、たっぷりと襞をとった真紅のカーテンが金色のタッセルで彩られ、その窓と交互に金色の縁飾りを重たげにあしらった縦長の大きな一枚鏡を何十面も並べてあるらしい。どうやら向かいの壁と合わせ鏡になっていて、広間の絢爛は幾重にも広がる趣向と思われた。卓上には瑕疵ひとつない選りぬきの赤いバラのアレンジメントである。
そのしつらいは、あの男の富と権力をも無限にしようとする意志のあらわれでもあろうが、同時にそれらを支えるために発生する負の感情や、たとえばあの男の身のうちの宿痾までも映し出して増幅することでもあろうと思えた。荀文若ほどの賢者が傍についていなければ、あのような部屋を邸内に持つことは、本来は不吉かもしれなかった。
「お好みに合えばよろしいのですが」
そんな空間から帰ってきた彼に、先生は紅牆屋敷の広間の謎解きをするわけでもなく、ガラスのポットから淡い緑色の茶を注いで供した。
「いただこう」
茶碗からたちのぼる湯気は、爽やかな香気を含んで彼の鼻腔を潤す。
「龍井にしては、ちと、はっきりとした味わいのようじゃが」
身近なミントや薄荷よりも、深みのある清涼感の由来を、彼は問うた。
「いつもの龍井に、公孫さまのハーブを入れてみました」
ガラスのポットには、ひらいた龍井の葉とともに、松に似たひと枝がよこたわっている。
「ほほう、すると最近は園芸に凝りはじめたのだな、そなたは」
彼は、視線を和ませた。眼の奥の残像が散じて、自然にそうなったのかもしれない。
「お見通しでございますね」
「よいものをいただいたではないか」
「雨期の前に、思い切ってたくさん剪定いたしましたので、よく乾きましたら公孫さまへお礼に差し上げたく思うのです」
「それはよい。あのおかたは、特別な日に限らず、むしろ日頃からの小さな心尽くしを喜ぶおかたじゃ」
「……上手にできましたらよいのですが」
「なに。気は心じゃ。はじめから専門家のようにはゆくまい。公孫の兄者を心にかけて丹精してくれる気持ちが、儂は嬉しいぞ」
公孫花壇がティーサロンを開店する前に、『淑女画報』に打った広告記事に彼らは協力したことがある。ティーサロンは公孫総経理が狙ったとおりの静かな繁盛で早くも経営を軌道にのせた。広告がいかほどの効果をあげたかは定かではないが、総経理は「何ごとも初めが肝心」と口癖のように言うようになり、この春、ささやかな礼として何か鉢植えを何ダースか、二階のテラス用に贈ろうと言って寄越した。高価なバラを所望してもいいというのに、先生は暑さにも寒さにも強いハーブの苗木を希望したのだ。
「なんと、欲のない」
と、公孫総経理は、バラが選ばれなかったことに若干の落胆を覚えつつも、彼の家族としてますますしっくりと見える先生の希望に沿い、淡い紫色の花をつけるローズマリーを十二株ほど、端正な背丈を揃えて納入した。
どうやら先生は、もしも自分が四、五日ほど体調を崩しても、水なしで耐えうるような、そして花期が来て花が落ちても清掃の労をとらぬに等しいような、そんな種を望んだのだろう。この控えめなハーブは先生の手ですくすくと育っては、おりおりに摘みたての葉を先生の茶碗に恵み、先生の軆をひそかに助ける役割を担うようになったというわけである。
「ほんとうは、朝のうちの摘みたてが、いちばんよいのでございますが」
「それはそなたが服したらよい。儂はな、こうして差し向こうて茶を喫するだけで、癒える心地がするぞ」
先生は、ただ一杯の茶だけでこの世の幸せを掌にできる彼を、誇らしくも眩しく思う。おそらく先生が感じ取る以上に、たとえば、先生が安全な水に心尽くしを加えて彼に差し出すことができるという今そのものと、今宵その心遣いを招いた紅牆屋敷の主とのかかわりにすら、蒼天に感謝しているのかもしれない。彼の考え方は信仰とは少し違うものの、彼一個人の持って生まれた個性と、歴史と経験に学んで得た信念があるところは、たとえ軆がなくなっても連なっていることができそうなほど、寛くてとらえどころがないもののようだった。
そんな彼に、こうして特別に想いを懸けられているとは、血のつながらない赤の他人であればこそ、なおのことこの巡りあいの不思議には、原因や理由すら求めたくなるほどである。それを知って納得したいのではなく、それがゆえにもう離れることなどないという確かな証が欲しいのかもしれなかった。
先生が、聡明な頭脳をもってしても理で解き得ぬ情を思うとき、よく涙ぐむことを知っている彼は、どうしたのだと問いもせず
「今宵は、ひさびさに寝物語などして休めそうだ。……何の話がよいかな」
こぼれそうな双眸を覗き込んでから、先生の薄いガウンの紐をやわらかにほどいて手を取り、寝台へいざなった。
「……月下老人のお話を……」
先生が俯いてそう囁いたので、彼は喉の奥でくすりと笑ってから、細い足首に足首を絡めてやった。どういう巡り合わせか、どうやら今宵は紅尽くしの趣のようだった。
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