日月両把劍 じつげつりょうはのけん (七)

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍


 彼は、この世で一条の我が龍が星を観にゆく後ろ姿が、夜の闇に消えるまで見送った。
 定軍山に陣を敷いてから、彼らは別々の幕舎にそれぞれ眠っている。
(したがお前はそれで、眠れるのか)
 そう案じながらも、彼は龍にこうして好き勝手を許している。
 
 龍は渺茫たる星空に、我が王がついに遠からず王にのぼる予兆を見出していた。
 天文は戦いとおなじである。
 誰の目にも明らかなしるしが現れるまえに、微かで確かなところに誰よりも早く気づくことが勝者になる条件である。
(わたくしは。……我が君の輔佐とはなっても妨げになってはならない)
 今まで以上に王道のただなかを歩んでいくためには、己ひとりが重臣であり寵臣である公然とした状況を、徐々に薄めていく必要があると考え始めた。
 それで、策に集中したいかに見せかけて、別な幕舎で就寝するようにし始めてみたのだ。

 彼はいまだ王ではなくても、龍にとっては出会った時から王であった。
 密かに付け加えることを許されるなら、ただの大王ではなく帝王であった。
 それが現実になる日を小さな失策で遠のけてはならぬと思えば思うほど慎重になり、四六時中、頭が回転していて、葭萌関のあたりから、臥し慣れた君側であるというのに夜中にはっと目覚めることが多くなった。
 眠れずに床によこたわって夜を明かすのは誰でも辛い。
 彼がそれに気づかぬはずがなく、我が王の眠りを妨げているであろうことがなお辛かった。 
 
 もちろん、龍の個人的な感情は別なのである。

 おのれの理が導き出した答えに従って変化に踏み出したつもりが、夜の餐を摂りおえてから彼の幕舎を辞去するときにはもう後ろ髪をひかれ、星を観て雑務を終えて寝に就くときは、彼のお下がりの寝衣の長い袖を抱きしめんばかりの寝相でうとうととし、翌朝の餐が待ち遠しくてならないのだ。
 つまりは、重臣寵臣云々は、龍がおのれを納得させるための理屈にすぎない。
 おそらくどれも龍の取り越し苦労で、そして彼に心配をかけたくないという見栄にすぎないのだ。

 そんな心のなかを、きっと彼はお見通しのうえで、あえてこうさせているのだろうと思い至ると、その涯しもない懐の深さに頭が下がるとともに、慕わしさが溢れ出でて尽きることも知らない。
(既に四十も近くなり。……もう十二年も我が君とご一緒にいるというのに、わたくしときたら)
 飽きるどころか、狎れるどころか、彼の傍でなければ生きられぬおのれに全く変わりはなかった。
 
 この君臣のちいさな変化に、真っ先に気づいたのは趙子龍である。
 趙子龍は、ほんのすこしずつ窶れるような軍師の様子に気がつき、折を見て彼に問いかけた。
「殿」
「なんじゃ」
「このごろの軍師どのは。殿にのみお明かしの策をお持ちの上でのことと心得ますが」
「なんじゃ。腹蔵なく申せ」
「直言をお許しください」
 何事においても習慣とはおそろしいものである。
 どこの世界に、陣中ですらも我が軍師と起居を共にする君主がおろうか。
 而るにまさにここに一人いるので、いまの平和すぎる軍中で目立ってしまう変化なのだが、当人はそうは思っていなかったようだ。
「ハハ、そうか」
 と、短く笑い飛ばすと立ち上がり
「あるいはそうなのかも知れんがな。儂は、計略だとは聞かされておらん」
 彼は長い腕を後ろ手にして、数歩を繰り返しゆっくり往来して、少し考える風情があった。
「なにか考えがあってそうしておるのだろうから、好きなようにさせておくがの」
「はっ」
「それにな、計略ならば共に飯も食わんほうが、効くのではないか。軍議でも争って見せたり、じゃ」
「……左様でございます」
「ここだけの話な。……あれは意外に『こわっぱ』じゃからの」
 複雑な表情をして同時に余裕を漂わせて含み笑い、彼は趙子龍の肩をかろく敲き、その先は言わなかった。
 公子のことを語る時に、彼はこのような表情はしない。

 いままで何度も危険な局面はあり、そのたびごとに
「万一の時は、倅ではなく孔明を連れて一目散に落ち延びよ」
 と命じられている趙子龍は、成都を立つときのことが思い出された。


 朝駆けに出たあと、みずから愛馬を厩へ牽いていったときのことである。
「趙雲。早いのだな」
 薄い朝もやの中、柳の下に阿斗公子の姿をみとめた。傍に侍女がただ一人低頭して控えている。
「これは、公子。お早うございます」
 堂堂たる益州の上将は、公子に対して丁寧に拱手して礼を施した。
「うん。いつもなら、まだ寝ている」
 羞かみながらも、公子は本当のことを口にする。
 臣下とはいえ命の恩人である趙子龍に対しては、自分を実際以上に見せようなどという気負いはもったことがない。
 まだ将器もわからぬ三歳だった自分を懐に、雲霞のごとき敵陣深くからただ一騎生還したこの全身胆の男に、取り繕って何になろう。
「御用でしたらお呼びくだされば参上いたします」
 待っていたのだと察して、それとなく公子に率直に告げる。
「ううん。だって。……多分、わたくしごと、っていうやつだから」

 この辺は、生き別れた義理の母である孫夫人に教わった知恵だ。
 呼びつけると、早晩、主君の巨きな耳に入る。
 普段おっとりと寛容な主君に見える彼は、些細な私事で大事な上将たちを煩わせることをひどく嫌う。
 叱られはしないが、叱られないことと咎められないことは必ずしも同義ではない。
『趙雲に会いたいのならば趙雲をそれとなく観察し、一人でよく現れる場所と時刻を狙って覚えておくことです。ばったり会ったということなら、父上も何もおっしゃらないでしょう? ……趙雲に聞いては、ダメよ』
 公子を支持する孫夫人は、いたずらっぽい色を大きな瞳にやどし、彼女が哥たちを翻弄してきた要領というものを公子に教えてくれた。
 あの男勝りの気性の孫夫人が今も奥に居てくれたなら、あるいは公子の不安も軽減していたかもしれなかったが、それは公子ひとりの感情にすぎない。

「父上はもちろんだけど……。趙雲、こたびの出陣も必ず無事に帰ってくると約束してくれないだろうか」
「さて……。全力を尽くしますとお答えするのみでございます」
 武将は戦場で果てるこそ本懐である。それゆえ趙子龍は誠実にこう答えたが、公子はまだ十二歳でもあり、確かな約束が欲しかったようで、この言葉には不満げであった。
 賢い馬が鼻を鳴らして、とりなすように飼い主の袖に触れてきた。
 その鼻面を無意識に撫でてやりながら、趙子龍は言葉を補う。
「……公子。こたびの戦は、いままでとは違います。戦う前から勝ち目が見えております。ご安心ください」

 公子は学問ができるわけでもなく、武勇に優れるわけでもなく、父ほどの人望が備わっているかどうかはまだわからず、ただ父が戦い抜いてきた過酷な運命と父の偉大さについてだけは年ごとに理解を深めている。
 あの恐ろしい曹操に対抗し得るのがこの世で呉侯とそして父の二人のみだというところに着眼すれば誇らしく、これを次代も保ち得るかと俯瞰すればただ項垂れるのみである。
 万一のときは、軍師とそして股肱の将を頼みにする以外にないと思うと、気が気ではない。
 なりたくてなった嫡子ではない。
 幼いころは、義兄の封哥を頼りにして安心しきっていたが
「当然、お跡目は阿斗様に」
 と、特に義叔父たちが日ごろから強く主張しているらしきことと、義叔父たちの存在感と影響力とを考え合わせると、自分は成長とともに暢気に構えてはいられなくなるであろうことを薄薄察している。

 史書の勉強の時間に、賢い弟に位を譲って身を引く兄の故事をみつけては、このようになりたいと思い、父には一日も早く戦の決着をつけて、賢い弟をたくさん儲けてもらいたいと思い始めている。
 記憶にも若く美しい母であった孫夫人でさえ公子の弟を儲けなかった。
 孫夫人よりもあきらかに年嵩の正夫人には、弟が授かるかどうか、いよいよ判じ難い。
 まだ子供の公子には、子がどこからどう授かるかなど分かりもしないが、夫婦が鴛鴦のように一緒にいなければ赤子はやってこないようだということぐらいは何となく分かる。

 父は公子よりも漢王室というよくわからない目に見えぬ物をいつも重んじているようにも見え、それをひしひしと感じると、かつて命を救ってくれた趙子龍には父がわりの如き思い入れを持ち、頼みに思わずにはいられない。
 それがわからぬ趙子龍ではないが、かといってやはり趙子龍は臣下以上であろうとはしない。 


 趙子龍は戦場において、歩兵に紛れて夕餉を摂ることを好む。

 武将が上将にすすむと疎かにしがちなことであり、また、上将ともなれば
「歩兵どもとおなじ食事を」
 と命じて運ばせることもできるが、それでは半分以上の意味が消失するうえに
「将軍は歩兵と同じ食事を摂っている」
 ことを殊更に吹聴して士気をあげることに利用しようという姑息な小賢しさの匂いもぬぐえぬことを嫌って、趙子龍はこの「紛れる」という方法を採っている。
 
 幕舎の中で、それこそ汝南のあたりに居た頃の古着に着替える。
 懐中の物が床に落ちて、軽い物音を立てた。
(持ち慣れぬものを持つと)
 趙子龍は、それを拾いあげた。老剣匠からの預かりものだ。
 戦のついでに、人探しがそう都合よく運ぶとも思えなかったが
「ついては、なにか手がかりの品を」
 と請うて借りてきた品で、例の鐡の哥貴が幼き我が子とともに託した銀子が入っていた嚢だった。
 物音がしたのは、まだほんの少し銀子が残してあるからだった。
(ご老人にとっては掛け替えのない品だ。落とさぬように)
 これを持っていることを忘れぬよう、じっと掌のうえを見つめてから、しっかりと懐中した。

 舎の横側の幕の下をめくってこっそり抜け出し、新野以前の古参がいない部隊を見極めると、配給の列に並んで焼餅と碗を受け取り、焚火を囲んでいる賑やかな一団のそばによる。

 一団の末席にもぐりこんで黙黙と飯を食らったあと、誰からともなく勧められて回ってきた酒の容器を持って、声が一番大きな男の傍に移動する。
「兄貴。さあもう一杯」
「ん? おう」
 訝しそうな視線を受けながらも、趙子龍は微笑を返して男に酌をしてやる。
「それからどうなったんです?」
「俺たちは、長江の上流のどまんなかで、早船のうえで待っていた。驚いたことに、風は軍師さまが言ってよこしなさったように、東南の風に変わっていた」
「軍師様かっこいいぜ!」
「じりじりして待っていると、岸から小舟がやってきて、俺たちの趙将軍が見事、軍師様を連れ帰ってきなすった」
「好し!」
「名調子!」
 話の顛末を知っていそうな面面が、新入りに聞かせてやろうという親切心で合いの手を入れる。
「一目散に江夏へ向かったが、そうは問屋がおろさねぇ」
 もったいをつけて、ここで声の大きな男はまた酒をぐびりとやった。
「呉のやつらが軍師様のお命を狙って追いかけてきやがった」
「連中は船が得手だからな」
「しかも俺たちはたった一艘、やっこさんは船団で来なすった」
「寿命が縮むぜ」
「そのとき俺らの趙将軍、少しも慌てず、さっと強弓を取り出すと、ひょうーーふっ! とな、なんと追っ手の船の帆の綱を射切っておしまいになったって寸法だ!」
 不格好な構えで、しかし実際に見ていたとみえて、かなり角度をつけて架空の矢を放って見せた。
「呂布かよ!」
「スッゲエ!」
「痺れるぜ」
「イカす」
「覚えていやがれと叫ぶ呉のやつらの悔しそうなザマといったら!」
「ハハハハハ!」
「どっちが敵かわかりゃしねぇやな」
「まったくだぜ」
「それでだ、江夏に着いたらだ。主公がみずからお出迎えにお越しでだ。もう、その、何だ」
「なあ」
「ありゃ、何だってんだろうな全く」
 皆、一様に、頭を掻いたり背を掻いたりして、柄にもなく照れている。
 向日葵の種を煎ったものを、栗鼠のように殻を巧みに割る音をしきりに立てている者もある。
 趙子龍はといえば、配給の他には廉い酒とおそらく銘銘で携帯してきた豆類で火を囲む有様に、略奪の匂いがないことに安堵していた。

「……でもな、最近、主公と軍師さまのお仲が、どうもいままでと違うんじゃねぇかって話で、それが不安っちゃ不安かな」
「違うって、何がだよ」
「幕舎の護衛部隊のダチの話だと、最近ご一緒にお休みじゃないって話さ」
「マジ?」
「マジらしいぜ」
「ガセだろーどうせ」
「軍師様がいなきゃメシも喉を通らない主公がかよ?」
 正しくは「通らない」ではなく「美味くない」なのだが、正確に教えてやる必要もないので、趙子龍は黙って聞いている。
「喧嘩でもなさったかね」
「鼾がうるせえだけじゃねえの?」
「バッカ野郎、俺たちじゃあるめえし」
「なんせ、俺たちの勝ち戦は全部、あの軍師様のおつむから出てくる作戦にかかってるって話だからな」
「困るよ……。お仲違いとか、勘弁だぜ」
「仲良くしてくださらねえと、俺たちの命にかかわる」
「主公は情け深いおかただけど、強いか? 金持ちか? っていうと……疑問だからな」
「軍師さまほど賢いおかたなら、魏でも呉でも誰でもほしがる。高禄で召し抱えるだろう、ってな」
「そうかなあ……。軍師さまとしては、いままでさんざん懲らしめてきた敵方になんて今さら買われていけるかね?」
「軍師さまがいなくなったりしたら。主公も益州もそっくり、軍師さまを手に入れたヤツの物だろ。ぶっちゃけ」
「ばーか。そんなことあるかよ。高禄で結局ご自分の首を売るようなものじゃねえのか」
 皆、度胸と腕っぷしには自信があるが、智者の考えることなどわからないので、押し黙って杯を呷るのみになってしまった。
 いままで全く耳に入ってこなかった、別な一団の歌声や談笑が、急に高らかに聞こえてくる。

「……それも、軍師さまの策略かもしれませんね」
 趙子龍はぽつりと言った。
「え?」
「なんのことだ?」
「わざと主公と不和に見せる、っていう」
 士気が揺らぐのをおそれて、趙子龍は故意に発言して操作を試みたが、皆の視線が集まってしまったので、俯いて地面の上に目を泳がせ、落ちていた小枝を焚火の中に投げた。
「……じゃ、俺たちにみせてるんじゃなくて」
「曹軍に見せてるって意味かよ?」
「いわゆる、敵を欺くにはまず味方から、ってやつか?」
「孫子とかかよ、スゲーな」
「へへへ、受け売りー」
「てゆーか生兵法!」
「気をつけろ火傷するゼ、おにいちゃーん」
 満座は、明るい酔いに支配されてドッと笑い声をあげた。
「兄弟、なかなか穿ったこと言うじゃねえか」
「一杯つがせてくれよ」
 わいわいと盛り上がる一団の雰囲気が居心地良く、趙子龍は笑みとともに杯を含んだが、視界の端に怪しい人影をみとめて瞬きもせずに横目で注視しながら酒を飲みほして、やおら立ち上がった。
「おいおい、どこ行くんだ兄弟」
「はばかり」
「早く帰ってこいよ。まだ宵の口だぜぇ」
 気のよい士卒に右手を挙げて応えると、悠悠と柵のほうへ向かうと見せかけて大回りし、怪しい人影が消えた幕舎のあたりを忍び歩いて、ひとつひとつに聞き耳をたてて回った。

「おい。しっかりしろ。水だぞ。……どうだ。だいじょぶか?」
 じつに怪しい語り口が聞こえた。
 傷病兵ならば後方の一カ所に集めて看病し、治療に専念させている。
 趙子龍は、粗末な布の隙間をみつけて、眼光厳しく中を窺った。




---------------------------------------------------