日月両把劍(八) じつげつりょうはのけん

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍

「よしよし。ゆっくりだぞ」 
 声の主は趙子龍に背を向けて蹲って、やさしげに足元に声をかけている。肘のあたりの動きを見ると、撫でてさえやっているようだ。
 いよいよ訝しみながら、趙子龍は暗い幕舎のなかを注視している。
 急に、クウンという短い呻きが聞こえた。
「あっゴメン。痛かったか?」
 どうやら水を与えられているのは狗だ。
(なぜ戦場に)
 禽獣は事前に危険を察知するもので、戦場になど現れない。
(逃げ切れぬ仔でも居たか)
 と、狗に同情しそうになったが、気を取り直して趙子龍はその幕舎の正面に回って堂堂と声をかけながら大股に踏み込んだ。
「いるかい、兄弟」
「だ、誰だ」
 反射的に座り込んで背後に狗を庇った男を見れば、まだ若い。若いどころか、やっと十六、七かという面立ちだ。成都であらたに徴兵に応じた者かもしれない。
「おいおい……ヤバいぞ、狗は」
 趙子龍は少年に向かい合って胡坐をかき、その背後を確かめようともしない。なるべく丸く収めたいのだ。
「……だって、助からないなら食っちまおうっ、て思われたら可哀そうで……」
「拾ったのか」
「はい。怪我してるんです」
「お前、新入りか」
「……はい」
 食えなくて軍に入ってきた口だろうと、趙子龍は踏んだ。少し灸を据えてやる必要がある。
 だが、少年が武器をとらねば生きて行けぬ世の中など、そろそろ終わりにしたいのが本心である。もしも自分に子があったなら、これぐらいの年頃かもしれぬという憐憫も湧かぬでもなかった。
「お前。命はないぞ」
 趙子龍は立ち上がり、青釭剣を左手に持ち替えた。いつでも抜けるという構えである。身を窶していても一介の兵卒にはとても見えない。
「えっ。狗、助けちゃいけないんですか。……おいら、どうなるんですか」
 少年は趙子龍が握った剣を見て目を泳がせ、今時の若者らしく慌てて言い逃れようと口走りながら、青くなった。
「戦場に庇いたいものが居るということは、それだけで甚だ危険なのだ。わかるか。戦は物見遊山ではない」
「お許しください!……おいら、そんなこと考えなくて……。お許しを」
 どんな処分が自分に待っているのかという恐怖で、少年は小刻みに震えて涙を浮かべ、さっと跪いて地に額をすりつけ命乞いをした。
「今日のところは新参の不注意として許す。今後は気をつけろ」
 少年の肩を起こして趙子龍は拝礼をやめさせる。
「ありがとうございます」
 命は助かるとみて、少年の顔色はわずかに戻った。
「そのかわり、狗はわたしに寄越せ」
「えっ」
 さきほど、狗一匹で命の危険にさらされたというのに、いままたその元凶の狗の行く末を案ずるとは、甘いが心優しい少年である。戦場にいると荒みがちであるが、この純な心持ちやよしと趙子龍は内心で好ましく思っている。
「心配するな、食ったりしない。馬医を知ってるから。預けてやろう」
「ほんとですか!」
 少年は、ぱっと明るく笑んだ。笑窪が幼い。足元から狗を抱き上げると、趙子龍に素直に渡した。
「よし。傷が治ったら放すぞ。いいな」
「はい。ありがとうございます」
 ようやく、少年は趙子龍の年の頃を推し測ろうとしてその容貌に注意を払ってみたが、服装からは察しがつかなかった。
 また、先ほどからの立ち居振る舞いを思えば、その辺によく屯している伍長程度ではないと思うし、歳もいっていそうなのに、白髪の一本さえ見当たらないので、オヤジさんと呼ぶのは憚られた。
「あの、おいら肖っていいます。……アニキ、のお名前は?」
「常山趙子龍」
(まさか)
 と、顔に書きつけて、ぽかんとした表情の少年兵を置いて、趙子龍は狗を懐に小さな幕舎を立ち去った。


「ほほう、矢瘡か。しかも前足とは、狗にしては見上げた度胸じゃ。仔でもおったのかのう」
 軍中において今廉頗と異名をとる黄漢升は目を細めて、趙子龍の幕舎で狗を抱き、上機嫌である。
「名は」
「狗です」
「それは分かっている。トラとかクマとか」
「名はつけません」
 さすがの趙子龍も、名をつけたら情が移りそうなのである。
「ふん。じゃ、狗狗にしとくか。よーしよし」
 狗は老将が怖いのか、鳴き声もあげず俑のように固くなったまま、趙子龍へしきりと視線を送ってくる。
 それが
(食われる。助けて)
 とでも言いたげに、ありもしない眉すら下がって見えて、趙子龍は苦笑を禁じ得ず、助け船を出した。
「まだ痛むようです。お手柔らかに」
「しかし、雄だな。こういう場合、雌かと思ったが」
「将軍」
「聞こえておるわい。まだ耳も達者じゃ。……狗狗が、ちょっと気に入っただけじゃい」
 老将軍は渋渋と狗を籠に戻した。
「こいつが治るころには、凱旋じゃ」
「はい」
 ついにあの奸雄の親征となったが、敵の名将夏侯妙才は既にこの老将に討たれている。 ここまで彼らの龍の軍師の神算に狂いはない上、彼らには歴戦の勘というものに裏打ちされた負ける気がしない直観がそれぞれにある。
 てっきり、また今後の先陣争いの話で押しかけてきたかと思いきや、老将はそっぽを向きながら懐から木箱を取り出した。
「これな。試してみてくれい。狗には強かろうから、ほんのひと塗りな」
 趙子龍が受け取って、上蓋を滑らせて中身を見れば、麻布に包まれた黒い粘土状のものが入っている。黄漢升みずから調合している秘伝の金瘡薬・廉頗膏である。かなり滲みるが、驚くほどよく効く。
「将軍みずから。恐縮です」
「弓矢がらみのことは、ほっとけない性分なんじゃい。……おのれでもお節介だとわかっとるが」
 黄漢升は、白い鬢を掻いた。
「こたびの戦では、おぬしに借りを作った」
「相身互いでござる」
「あわや大将馘の交換になるところ、おぬしのおかげで拾った命じゃ。いずれ戦場で、借りを返す」
「それはどうぞ殿の御為に」
「無論じゃ」

 黄漢升は去り際に拱手して、趙子龍をみつめた。
 それこそがあの時の礼だとすぐに察して、趙子龍も無言で丁寧な拱手で応じる。
 いったい、齢六十をすぎてなお戦場で陣頭にたつのみならず、しばしば先鋒争いに絡み、強弓を以てみずから戦力たり得るなど、常人のなし得るところではない。時に多少の劣勢を招こうとも、この老将軍には頭が下がる。また、荊州劉氏の軍勢が新野以前からの本物の古参兵に劣らぬ忠誠心と強さを発揮しているのは、黄漢升が臣従したがゆえであろう側面も見逃せない。

 この気持ちは自然と加勢の際にもあらわれて、趙子龍の援護をうけると口惜しい反面、少しも恩着せがましさを感じないのだ。
 いままた年長者の礼をただ受けるのではなく、礼に敬意であい対する趙子龍を、黄漢升は内心で、気に入っている。
 しかも、おのれが趙子龍ぐらいの歳の頃を思えば、果たして己が立功をさしおいて全軍の利に資する働きを優先する沈着さを持ち合わせていたとは言い難く、ひそかに、近い将来の蜀の一の将は趙子龍であろうと見ている。惜しいかな、彼らの主君の義兄弟にはこの大将の器に欠けている。
「狗狗、さらばだ。達者で暮らせよ」


 黄漢升の言のとおり、狗が走り回るようになった頃、曹軍は陽平関へ退き、結局は兵を返さざるを得なかった。
 ついに漢水を手に入れて皇叔の美称に重みを加えた彼は、一旦葭萌関のあたりへ戻り、凱旋の前に我が龍を見舞っていた。よくある微熱と眩暈なのである。
「具合はどうじゃ」
「あ……。我が君」
 主公の御成りです、という取次の声を耳にして
(それはこの一年のうちに、大王の御成り、となるであろう)
 という感慨に胸を盈たしながら 起き上がろうとする我が龍を、彼は長い腕を伸べて制し
「寝ておれ。さすれば明後日頃には出立できるであろう」
 彼は、我が龍の體の具合が芳しくないときのことに既に慣れているので、おっとりと笑んだ。
(それみたことか。儂と寝ぬからじゃ)
 と、冗談にかこつけて本音を言いたかったが、さすがに大人げないと思って彼は呑み込んだ。
「わたくしは、後詰めと共に帰ります。我が君にはどうぞお先に成都へ」
「されば、儂が後詰めの大将になろう」
「……」
「これ、孔明。よからぬことを考えておるな」
 大戦を思惑通りに終えて油断したのだろうか。あっさりと読まれて、龍はただ眸を伏せた。
「無理をして、明日車に乗るというのはならんぞ。途上で酔うたらどうする。寝ておれ」
 五界山で、当世の奸雄に堂堂と対峙して勝利した彼は、更に王風が加わっている。だというのに、こうして相も変わらず、我が龍の不予の枕頭にかろやかにやってきて親しく牀に腰かけて手を取り、労うのだ。
 龍は、彼がずっと変わらずにこうして世に在りつづけていることがまばゆく、微熱のためだけではない潤みを眸に感じた。
 彼は彼で
(初めて会うた時も、お前は躺(よこたわ)っておった)
 と、隆中での献策が献策であったのかそれとも予言であったのか分からぬ風になりながらも、あの頃から一向に変わりもせぬ白皙に見惚れかけ、無意識に、病鉢巻のそばの髪ひとすじのほつれを撫でつけてしまい、気づけば吐息がその額にかかるほど近づいてしまっており
(いかん)
 と、狼狽していた。それなのに、病臥して寝乱れているはずのこの白い龍の懐からは微かに春の野の花の如き薫りが漂い、彼はその香をさらに深く聞きたい思いに駆られる。
(誰か、邪魔をしに来ぬか)
 胸を高鳴らせて彼が祈るようにしていると、急に茶色い塊が恐ろしい勢いで彼の足もとに飛んできた。

「こら、無礼者」
「主公、申し訳ございませぬ」
「これ、シッシ」
 扉の付近まで狗を追ってきた者どもと、控えの侍従たちが追い払おうとしているが
「構わぬ」
 彼は天の助けと長い腕をあげ
「狗狗ではないか。どうしたのだ」
 足元の狗を抱き上げた。