日月両把劍 (九)

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍

「子龍と一緒にゆくのではなかったのか。ん?」
 ずいぶんと趙子龍に慣れていたように見えたが、趙子龍は既に成都へ向かったはずである。
 あの好漢が仮そめの愛玩欲を持つわけもなく、さりとて無碍に棄ててゆくはずもなく、行くも去るも狗の自由に任せて出立した結果がこれであろうと彼は見た。


 狗には狗の都合があったであろうに、この戦いの流れ矢が狗の運命をさえ変えてしまったのかもしれず、彼は膝の上の小さな温もりが不憫になってその背を撫でてやる。
 狗は、つぶらな黒目を彼に向けて一声鳴いた。
 彼は口元に人差し指をたててみせ
「静かにな。いま、先生はお伏せりなのでな」
 と、やや眼光を鋭く聲音ひくく諭すと、狗は無言で首を傍らへ巡らせたので
(孔明に別れでも言いに来たか)
 と思えた。

 黄漢升の塗り薬がどれほど効いたか密かに見たいという軍師の希望で、先日、常山趙子龍は撤兵のまえに狗を連れて本陣を訪れた。
 我が龍が狗を抱き上げて創の具合を検めていると、その白皙を瞳に映すや狗はしきりに尻尾を振り、得意げであった。
 彼は、物言わぬ花ひとひら蝶一羽すらも我が龍に止まりたがることを知っているので、狗であればさもありなんと思いながら、その感情を無邪気に尻尾に表して許される狗が少々うらやましかったのを覚えている。 

 その時、趙子龍はといえば
(お前という奴は)
 手負いだったとはいえ、黄漢升の時は微動だにせず俑の如くに固まっていた狗を思い出し、笑いがこみあげそうだったが、そこに居合わせない黄漢升に悪い気がして奥歯を噛んで我慢していた。
 我慢したのはほんの一瞬で、黄漢升が牽いて行った捕虜を思えば心は曇った。
 捕虜のうち、若干数が夏侯妙才との一戦で捕えた兵や僕だ。
 天晴、夏侯軍の兵は降兵ではない。
 降る者も逃げる者も、一人もいなかった。
 残兵の生け捕りは困難を極めた。無傷でとはゆかない。 
 兵を分断しては、なるべく追い詰めぬうちに足を掬い縄を投げ、棒で殴っては梯子で辛くも絡め捕り、あとは斃れた中から息のある者を拾い集めたようなものである。

 激闘の経緯などど関わりのない狗が一命をとりとめた出来事は、思えばこの戦いの終局に至っては一つの慰めであったといえた。
 この時、狗にまで一目ぼれされていることに気づかなかったのは、この世で最も賢いはずの一条の龍だけであった件が、趙子龍としてはちょっとした発見であった。
 

 狗は、牀によこたわる白皙を見ると、鼻をうごめかせた。
 昼間だというのに仄暗いからかもしれない。
 こういう時は香を焚くのを控え、灯火は脚下のみを照らし、窓から差し入る光を枕頭の帳で遮る。
 暗めに、温かく安静にして、薬湯の他ときどき茶水を与えるように指図し、彼は眠れる龍を一両日待つのだ。 
 
 このようにしておれば心もち回復が早いようだと、龍は詳しく述べたこともないのに、彼と彼の左右は長年の経験ですっかり心得てしまっている。
 まるで隆中の長椅子に伏していて
「兄上。どうですか、お具合は」
 と、末の弟がひょっこり覗き込むのではないかと思えてくるほどで、いまここでこうしていることが赤の他人の、しかも主君の気遣いが齎しているに他ならぬことに、龍の眸は潤むばかりである。
 しかし、隆中に居た頃とは明らかに違う点があった。

 仄暗い中でも定かに見える我が王のかおばせと、静けきうちに低く渡る落ち着いた聲音が、このような時とくに身に沁み入ってくるように感ずるのだ。
 年年白髪を増す以上に王風を加え、歳歳衰えぬ朗朗とした聲には重みと深みを添えてゆく彼の佇まいに接し、手を取り合い眸を交わすと、伏していても慕わしさは募るばかりで、眸の奥の辛い眩みや頭の中の霞みも和らぐ心地がする。
 経年によって症状が軽快しているがためではなく、ひとたび発すればむしろ重くなってきている自覚があるというのに、こうして我が王の見舞いを受けると、滞っていた何かが緩く巡りはじめて薬湯の効果も顕れ易くなるのだった。

 彼ら君臣の情感のたゆたいを知ってか知らずか、狗は突然に身を乗り出すと、柔らかな衾のうえの白い手の甲を舐めた。
「これっ、狡いぞ。儂の孔……」
 彼は慌てて狗を膝の上に抑え込んで牀から遠ざけたが、いま口を衝いて出てしまった言葉に気づくと、いまさら誤魔化しも効かぬというのに無意味な咳払いを連ねて周囲に聞かせた。

 左右の者どもが平静に見えるのは、彼は左様な心をなるべく秘してはいるつもりであろうことを察しているがためが半分、もう半分は、これしきのことは既に聞き慣れ見慣れているがゆえに他ならない。
 ながらく彼から遠ざかって起居していた軍師は、その意図がどうであったにせよ、おそらくこの持病が小康のあと主君と共に車に乗って成都に帰り、また益州のあるじの寝室で眠るのであろうことは明白であった。

 ただひとり牀上によこたわる白き龍ばかりが、微熱のためとは思えぬ色を頬に加えて
(……狡い、などと仰せ遊ばして……)
 とばかりに、狗に舐められた手の甲をどうしたものかと心を乱している様子である。
 ひくりと、ためらいがちに五指がわずかに動いたのを見てとり
(儂が舐めたわけでもあるまいに)
 彼は内心、苦笑を禁じ得ないのであった。

「狗狗よ。儂の臥龍先生はこの通り今日はご不予じゃ。別れを告げたいのなら、明後日にせい」
(成都に帰ったならば……。鳥など飼うのも一興かもしれぬ)
 今度は重重しく『儂の』を言い放って狗に言い聞かせる態を装うと、物憂げなはずの我が龍が長い睫を瞬いていたのが視界の隅に見えたので、彼は上機嫌になってそう思いついたが、やはり何か飼うのはやめておこうと思った。おそらく彼はまた、その何かを嫉視せざるをえないであろう。

 どこをうろついていたか分からぬ狗の背を迂闊にも撫でてしまった以上は、素手で我が龍に触れることなど憚られて、もう少し会話をしたあと再び夕刻にでも見舞おうかと彼が腰を浮かしかけたとき
「申し上げます、湯媼(ゆたんぽ)をお持ちしました」
 と、小者が扉のそばに控えて低頭した。彼が見舞っているので、後にすべきかどうかの伺いをたてる意味も含んでいる。
 もちろん、彼が我が龍の介抱を何事よりも優先することを知っていて、あえて常に礼に適った振る舞いができる所が、彼の徳の醸すところであり、側仕えの者どもの美点でもある。

「苦しゅうない。早う、これへ」
 彼は牀に腰かけたまま直ちに許可する。
 小者から注意深く湯媼を受け取った者が近づいてくると、壁際から侍従が一人歩み寄り、牀の足元の衾を遠慮がちにめくった。
 そこには、同じ型の湯媼が置いてある。
 侍従は今まで褥を温めていた湯媼の取っ手をあげて重たげに持ち上げた。熱い湯を注いでよい塩梅になった湯媼と取り替えて、手早く慣れた様子で衾をかけなおす。
「ああ、待て。それでな。先生の御手を拭いて差し上げよ。……あとでな」
 彼は思いついて、ぬるま湯の使い道をそう決めることで、狗が我が龍の手を舐めた件についておのれを納得させた。
 しかしそれだけではどうも不足で、龍に問いかける。
「して、どうじゃ。足は、温まっておるのか」
「はい」
「ム、お前の『はい』は信用ならんな。特に斯様な時はだ。どれ」
 彼は、膝に狗を捻じ伏せたまま、右手を徐に衾の足元へ差し入れて、白い袜子に覆われているのであろう爪先を掴んで手づから確かめた。
「……冷たいのう」
「今朝は、冷えましたゆえ」
(儂と寝ずにいると、途端にこうではないか)
 彼のすぐ傍らで就寝していさえすれば、彼がそれこそ「湯爺」なのである。我が龍の時として頑なな点を苦苦しく思いながら
「果たしてな。そればかりではあるまい」
 いったい、おのれ自身の體のことをどれほど理解しているつもりかと苛立ちかけたが、このような詮無い感情が何かを解決し得るわけもなく、彼は、よほど効果のありそうな小さな治療を施すことにした。

(……あっ)
 と、朔の次の日の月ほどに薄く開いていた我が龍の眸の端に微かに狼狽の色が掠めて瞼を閉じたのを彼は見逃さなかった。
 その長い腕を悪用してし、冷たい足首から脛から、腿にかかるあたりまでをそれこそ舐めるように布越しにじわりと撫で上げてやったがゆえだった。
 龍は、首から頭の部分に重苦しく淀んでいた何かが、血流とともにぐるぐると巡りはじめる感覚を覚える。
 我が王の掌が意地悪にも這った痕跡が、湯媼よりも熱い気さえして、足の指先までがにわかに脈動を始めた如きである。

 この世のどこに、臣の持病を見舞うついでに、下肢を撫で擦ってやる主君がおろうか。詩にも史書にも、先の例などない。
 動悸を鎮めようと息を整えながら彼の掌の感触を温めるにつけて込み上げるのは、この想いを伝え得る言葉など詩にも史書にも載っていないという切なさと、例えば漢室復興の日までに見つけられるだろうかという心もとなさと、もしもその言葉が終に見つからずとも彼は許してくれるのであろうという底知れぬ頼もしさである。

 彼は狗を片手に、上半身を傾けもせずにしてのけたので、牀から少し離れて侍する者どもは、今のこの沈黙の間に彼の手がどこでどうしているかなど知る由もない。
「これで多少は、冷えも和らごう」
 したがって、彼が神妙な表情でそう言えば、左右には湯媼を取りかえた件に関する事としか聞こえぬ。
 人払いもせずに白昼の牀のうえで秘密めいたことを持って、彼は狗など大きく出し抜いた満足に、密かに頬を緩めたのだった。

 彼は、狗をすら嫉視していたおのれの心の中に多少おののきつつも、おっとりとした所作で狗をかかえたまま牀を立ちあがり、動揺する我が龍に退路を与えるべく余裕綽綽という調子で左右の者に命じた。
「先生のお髪をほどいてさしあげよ」
「かしこまりました」
 眩暈や頭痛など頭部の患いについては、髪を結いあげていると辛いものらしい。
 彼は齢五十を越えても、幸いなことに髪をほどきたくなるほどの病に伏したことがないが、我が龍と歳月を共にしてそれを既に知っている。
 そして、寝乱れた髪を主君に見せるなど、それこそ生涯に一度、生死の境に居るときぐらいしか許されることではないと思い込んでいる四角四面な我が龍のために、これを言ったならその日はもう彼は見舞いに来ないという暗黙の約束でもあるのだった。  

「さて、ゆこうか狗狗」
 すると狗は思い出しようにまた鳴き声を立てると身をよじり、彼の長い腕から脱した。
「あっ」
「これ」
 彼も周囲も、狗が聞き分けなく牀に上がろうとするのではと危ぶんだが、違った。
 狗は着地すると彼に向って吠え、戸口へ向かって歩むとまた振り返って吠えた。それでも皆がわからぬと思ったか、戻ってきて彼の袍の裾を咥えて引っ張った。
「何じゃ。儂に用だったというか? ……早く言え」


 狗は石敷きの廊へ走り出ると、まっすぐに外へ向かってゆく。
「これ、どこまでゆくというのか」
 彼の数少ない侍従どもも、小走りに従うほかはない。
 狗は、一目散に走ってゆくと彼が追いかけてくるのを待ち、また走る。



「待たんか。儂ぁ、もう五十ぞ」
 走る速さは遅くなるが、持久力は歳をぼやくほどではない。持ち前の強運に加えて、この健脚も多年にわたる彼の逃げ足の早さを助けてきたといえる。付き従う侍従どもなど、角を曲がるたびに一人また一人と脱落している。

 どうやら厩舎に向かっていると分かったときには、彼の愛馬・的盧の嘶きが聞こえた。
(如何したというのじゃ的盧。お前まで)
 いよいよ訝しみながら厩舎へ走ると、狗の出現に対しては驚かなかった馬飼が彼の姿を見つけるや
「こらぁ! ワン公が! 殿様の御前じゃぞ!」
 と、鞭を振りあげて追い払おうとするので
「やめよ」
 彼は聲を張り上げて長い腕をあげて制した。  

 的盧の白い足元で、狗は喉をキュウキュウと鳴らし、何事か訴えているかのようである。
 彼の愛馬は狗に鼻面を寄せては、長い首をあげて彼をみつめブルルと鳴く。
 その様子をしばらく眺めていた彼は傍らに跪く馬飼いを起立させると
「狗はよく来るのか」
 物静かに問うた。
「はいっ、いえ、先日ッ、一度。……と、先ほど、ちょっとばかり」
「随分と的盧に慣れておるの」
 的盧は賢いが、少し気難しい。馬飼いもそれを熟知している。
 そんな的盧が先日一度遊びに来ただけの狗に今日はもう心を許すなど、おかしくはないか。
 事実を報告しているはずなのに、たちまちに矛盾が湧き出でて、馬飼いは背に汗をかいた。
 おのれが彼であったなら、疑念をいだいても当然と思えてくる。

「ちょ、趙将軍の狗と聞きまして、つい厩舎で遊ばせてしまいますた。お許しくだしゃあ」
 明らかに緊張で滑舌が悪くなっているので
「狗の名を知っておるか」
 双眸に笑みをたたえて馬飼いに問いかけた。
「ぞ、存じません」
 馬飼いは直立不動である。
「それがな」
 彼はここで、わざと噴き出して短く笑って聞かせた。
「狗狗というのだ。狗に、じゃぞ」
「……は」
「あ奴らしかろう」
 どの辺が趙子龍らしいのか、そこまでは分かるはずもない馬飼いではあるが、彼がこの狗が趙子龍の狗だということを肯定してしかも軽視せぬ風は伝わる。
「案ずるな。咎めているのではない。的盧を友と思うてのことか狗の気まぐれか、知りたいだけじゃ」
 そう言いながら、彼は愛馬が
「出たい」
 という意思表示をするときの癖を前足に見つけ、どうやら馬飼いの言うことに偽りはない上、的盧のほうも繋がれていてはできない何かに不満がある様子を察した。





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