日月両把劍 (十)じつげつりょうはのけん

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍

 遠からず大王と呼ばれるであろう今上の叔父は、この世でただ一条の龍を陪乗させ、成都への帰路にあった。

「お目覚めか。臥龍先生」
 智謀を秘めた重い頭を肩に預かり、彼は龍に眠りを与えていた。
 彼の隣で車に揺られ、安心して眠ってしまうとは体調がよい証拠である。
 もし車酔いをしていたり、そもそも具合が悪ければ、寝付けないのだ。

 以前であれば
「また、わたくしは何という不調法を……」
 と、君前で居眠る非礼を詫びていたものだが、どうしたことか
「我が君のお心ひろきに甘え、酔う間もございませんでした。感謝いたします」
 と、俯く晧いかおばせに長い睫の翳をひきながら囁いた。
(ほほう……。それでよい)
 その言葉を巨きな耳の中で聲を大にして再び味わい、彼はたちまちにご満悦なのであるが、さあらぬ風に
「そうか。それは重畳じゃ」
 と、穏やかに応じた。
 こたび、なぜか我が龍は幕舎を別に構えたがったので、彼は好きにさせていたが、どうやらようやく観念したかと、それを責めるでもなく目尻に皺をたたえて微笑んだ。

 彼は肩にかかっていた智謀の重みに未練を残しながら、互いの袖の端がまだ重なり触れあっていることを慰めに揺られている。
 病み上がりの我が龍のためを思えば、おのれは騎馬して龍に車を与えれば良いのに、彼は陪乗させる。狭い車内に、我が龍の懐中の香嚢の薫りが淡く満ちゆくのを聞きながら揺られ、そのうちに肩を貸すことになるのが好きなのだ。
 惜しむらくはすぐに鼻が慣れてしまうのではあるが、いままで居た場所をあとにし、目的地へ向かうという単なる移動のはじまりに対して、その薫りは風景に感慨を添えるがごとくで、彼は龍を陪乗させて発したかの日あの日を、いくつも覚えている。
  
「鉄竜の話の続きを聞かせよう」
 勇ましい名は、あの狗の名であった。
 彼は、車内での徒然に、このあいだの出来事を我が龍に語り聞かせているのだ。


 あの日の厩で、彼は物言わぬ的盧が明らかに物言いたげであることを察した。
「どれ。ちょっとその辺を一回りすれば、的盧の気も鎮まろう」
 と、戦いが終結したばかりのこのあたりに物騒を覚える左右を宥めて愛馬に鞍を置かせた。
 あまり皆が危ぶむので、仕方なく侍従が捧げ持っていた剣を手にすると、護衛どもに伴をさせようと連絡のために小走りする侍従の背に
「走るに及ばん。歩いてゆけ。あとで来させい」
 と叫びながら的盧の腹を軽く蹴った。

 狗はワンワンと快活に鳴きながら弾むように走り出す。
 それを的盧は追ってゆく。
 ときどき振り返る狗と的盧は、どうやら目と目を交わしている様子だった。

(仔狗……。かのぅ。やはり)
 彼は愛馬に揺られながら、それが骸になっていなければよいがと念じた。
 あわれ、骸になっていたならば、この狗の前で葬ってやろう、狗は成都に連れ帰って趙子龍の邸ででも飼わせたら良かろうと思案しつつ、的盧が走りやすいように手綱を緩めていた。
 このたびの合戦で、とくに夏侯妙才との一戦での夥しい屍の大部分は、当然野ざらしである。
 仔狗を厚葬したところで、この殺生が帳消しになどなりはしないし、そのようなつもりもない。
 ただ、声なきものの訴えに気づいたならば、それが人であろうと狗であろうと手も心を尽くしたい。せずに後悔するより、して猛省するほうがよい。それだけのことだ。
 彼のこのような行動を偽善と見る向きもあるが、それは同時に、愛馬が凶相を持っていると知った上で敢えて我が生涯から遠ざけようとしない先進的な豪胆さが醸し出す一面であるともいえる。

 益州は曇りがちな土地柄だが珍しく青空が広がったので、きっと今日は夕焼けが美しい。
 兵事ではない時に的盧と鄙びた大地を駆けたのはいつのことだっただろうかと彼は少しく反省しながらも、いまは漢室も皇叔も益州牧もなく、絵の中に入ったようなおのれが心地よかった。
 もちろん、もし我が龍が轡を並べておったなら、申しぶんない。
 
 やがて、北から流れ来たる河に沿って岸辺を進む。
 どこの梢に休んでいるのか、小鳥の好音が耳にとどく。
 前方には切り立った崖が淡い墨色の陰影を描きはじめたその時である。

 狗は河岸から逸れて、枯れ木ともつかぬ樹の根元をぐるぐると回り、地面のあちこちを嗅ぎ回って、岩がちな丘の方角を見定めて迷わず走って行った。
 彼は常歩でゆっくりと狗狗のあとを追う。
 うっすらと、煙の臭いが彼の鼻を掠める。
「鉄竜? ほんとに鉄竜か! 生きてたのか?!」
 若い男の喜ぶ声と、狗の鳴き声が重なった。
 辺りに柵や什器道具は見当たらず、見渡すかぎり民家もなく、この男がここに独居しているのだとは思えない。

 彼は馬を下りて、狗狗が走りこんでいった岩のかげへ歩み寄った。
「……! だ、誰だ!」
 腰が引けた仁王立ちをして、若い男は先ほどの平和な声音と打って変わった怯えた口調で誰何した。 
 頭髪はきちんと結いあげ、顔にも泥汚れなどはなく、衣服には破れもないが、旅塵にまみれた風があった。声が若く感ぜられたが、卅すぎの年の頃とみえる。
 河原からでも拾ってきたのか、朽ちかけた桶状の容器が地に直に置かれて水が貯めてあり、底のあたりの地をじんわりと黒くそめていて、うら寂しく水漏れを示していた。河の水を運んで用いているのだろうか。
「この狗を助けた者だ。矢瘡であった」
 彼は、この男を飼い主とみて、共通の話題を口にして安心を誘った。彼のこういう時の機転は天性のものである。
 狗は彼の言葉を請け合うように、クゥンと鳴いて彼の足もとに行儀よく座って若い男を見あげた。
「仔狗でも探しているのではと思ってついてきたのだが。どうやら、そちを探していたようだな」
 飼い主の男の警戒が解けない理由のひとつが剣であろうと考え、彼は右手に掴んでいた剣をさりげなく岩屋の入り口に立て掛けてから屈みこんで長い腕を伸ばし、狗を撫でて別れを惜しみつつ
「もう戦は終わった。家はいづこじゃ。儂の手の者に送らせよう」
 すぐ後から追いすがってくるのであろう護衛どもに命じるつもりで、彼はそう言った。

(この……耳のデカい親爺さん、何者だ。間が良すぎる)
 初対面でこのようなことを言いだすほど親切な男など、この世にはなかなか居るわけがない。
 巨きな耳を左右にした異相は長者かとも思えるが、召使いではなく手下がいるのだとは、あるいは盗賊や侠客の頭領だったりするのかもしれない。
 飼い主の男はいよいよ怪しんで彼を観察する。

 庶民ではないぐらいは分かる。
 整った髯をたくわえ、白髪まじりの豊かな髪を結って小さい冠を戴き、ちょっと貫禄がある。
 儒者にしてはおかしい。なにしろ使い慣れた様子の剣を持っている。
 もしそこそこ裕福な商人なら自分では武器など持たず、腕の立つ者を雇って傍に置くし、冠など滅多に戴かない。
 やはり盗賊か侠客の頭領なのかといえば、このおっとりとした柔らかな人あたりではありえまいと思える。
 あるいはお役人様の筋かもしれないが、清廉なだけの役人なら数人知っているものの、贈賄もなく親切な役人となると、お目にかかったことはない。
 
 口調は北方人だが、いまどきの北方の者とは服装の具合が少し違う。
 かといって南方かといえば断ずる決め手はない、地味な装いである。
 だが、襟元や袖口のあたりの刺繍の意匠と色合わせには歳に似つかわしい気品が漂うに加えて、古い外套が意外によい品で、おそらく紐を替え裾を繕いながら長年にわたり大事に着つづけている風があった。
 
 誰にせよ、そういう男は、およそ名より実を重んじる。
 羽振りはよくなくても、棺の蓋が閉まる日まで揺らぎもせぬ何かを心の中に据えている。
 そして、身の回りを調えるにはじまり、何事も支え続けようとする者たちに恵まれていることが多い。
 宮仕えは御免だが、もし誰かにお仕えするならそんなお殿様がいい、と父がよくそう言っていたこことを不意に思い出す。それは彼のような男なのではないか。信じるに値するほうへ判断が大きく傾いた。
 飼い主の男は彼の見かけを信じたのではない。
 正しくなくてもよい、ただ大きく間違えないための知恵を少ない経験と親の意見に求め、まばたきを三つする間に見るべき点に着目しておのれの目を信じたのだ。

「狗めの恩人に拝礼します」
 鉄竜の飼い主は意を決して跪いた。
「何をなさる。起ちなさい」
 彼は即座に扶け起こして
「して、家はどこか。送らせよう」
 当座の銀子もいくばくか遣わそうかと思いながら問いかけた。
「あの。奥に病人が一人・・・・・・。どこか近くの小鎮でいいので、医者の居るところまでお送りいただけませんでしょうか。ちょっとなら、銭もあります」
「それを早う言わぬか」
 銭のことなど耳に入らず、彼は病人のことで頭がいっぱいである。見て見ぬふりなどできない性分なのだ。
 なぜなら、天も地もすべてお見通しだと幼いころから信じている。

 広くもない岩屋の隅に、旅塵にまみれた枯葉色の破れ衣の背がある。
 彼は、大股に駆け寄ってその枯葉色の人の傍にかがみこんだ。
 百歳かと見紛うほどの見事な白髪の翁である。
 岩屋のなかで頼りない焚火が揺れているが、たえず隙間風が吹き込んで少しも暖を感じない。
 彼は居ても立ってもいられず、外套の紐をほどいて、それを百歳翁に着せ掛けた。
「いつからこうなのだ」
 翁の手を触ると冷たい。だが幸い息はある。頑丈な質なのかもしれない。
「もう、七日ぐらい……。もう歩けねえ、って」
「ここはよくない。日も暮れる。とにかく、儂のところへ来るがよい」

 ひごろ領国の主をしていると、「儂のところ」と言えば「最も安全」と同義であるので言い慣れていたが、いま初めてまみえた相手に伝わるはずもない。
「儂は益州牧の劉備じゃ。こたびの出兵ではまた殺生をした。恩人などと言わないでくれ」
 神妙な表情で鉄竜の飼い主に向き直ると、先ほど立て掛けた剣がバタリと倒れた。
 彼はそれを取り上げるついでに、裾を翻してさらに歩を進め、後続の者どもが到着していないかと河岸の方へ目を凝らした。
(こんなことなら、すぐに来いと命じるべきであった)
 という彼の後悔は彼だけのもので、あの侍従はもちろん小走りに知らせにゆき、護衛団は機敏に点呼をとり馬具をととのえて猛然と出発していた。
「え……。まさか」
 鉄竜の飼い主は、彼の名乗った名があまりにも思いがけなかったため、その名の意味を理解するのに時間がかかった。
「まさか、あの、劉……こう、しゅく、です、か」
 背後からおずおずと問われたので彼は振り返って力強く頷いた。
「儂じゃ」
 その表情には、漢中を制した自信に裏付けられた王風がすでに備わっている。

「主公ー!!」
 という叫び声と団を成した蹄の音が近づいてきた。
 的盧が嘶いて場所を教えている。
 馳せ参じた者どもに
「こなたへ車を回すよう伝令せよ。病人がおる。水と、手軽な飯も積んで参れ。吉先生もお連れせよ。行け」
 遠慮する暇も与えずに彼が素早く短く下知したので
「もったいないことでございます」
 呆然としていた鉄竜の飼い主も、彼が「大哥」でも「旦那さま」でもなく確かに主公と呼ばれ、その呼びかけに自然に応じて拱手を受ける姿を目の当たりにして、ようやく跪くほか何もできない。百度でも跪きたいほどだった。
「よいのだ。もう心配いらぬぞ。起ちなさい」
 彼はその腕を引き上げてから大きな掌であたたかに叩いて励まし、岩屋を出た。出ねば鉄竜の飼い主がいつまでも跪いていると思ったのだ。

 物語るうちに馬車は既に雒城の近くまで進み、成都は目と鼻の先なのであるが、五年前にこの近くで萬箭に斃れた鳳雛を思うと、ふたりの心は沈みがちであった。
(だが、五年前と今の儂は、ちと違おうぞ) 
 と、九泉の下で飲んだくれておろうあの憎めない不細工な仏頂面を思い浮かべてみた。
(いや。そうでもないな)
 彼はおのれの心を偽らず、徐に我が龍の白い手を取って、膝の上で握った。
 龍は狼狽えるように羽の扇の柄を握りしめてしまったが、ここがどこなのかを思い合わせて、彼の心と鳳の思い出ばかりが胸に込み上げた。
 あのとき、鳳は龍と碁を打ちながら冗談めかしてずばりと言った。

 ーーおぬしかわたし、どちらかの命と引き換えのヤマだとしたら、どうだ。

 ヤマとは、益州に援軍を進めて最後は領有までもって行こうとする謀りごとであった。

 ーー仮にそれがおぬしならば、おぬし亡きあとのご主君を、わたしは支えきれない。
  必ず、すぐに面倒くさくなる。而れども……この逆は、可。

 彼はこの会話を知らないが、盡きることなく注がれる君寵のゆえんには、いつの日か龍を遺してゆかねばならぬこと、それとも遺してゆくべき覚悟のごときからも発するのではないか。それを鳳は面倒くさそうな視線で既に見通していたのかも知れない。

(鳳兄はよい。而るに、わたくしは)
 龍だとて、彼の傍以外では生きられぬのだ。このたびの出兵で彼と距離を置こうと試みてみたが、無駄なことだった。

『おぬしなぁ、その頭をちょっとは自分のために使ったらどうだ』
 ときどき、真面目な顔で忠告され続けたその意味がようやく分かりかけてきて、無駄なことを認めようと今更にして始めるとは、自分の愚かさが疎ましく、龍は微かなため息をつく。

 粛粛とすすむ馬の蹄の音ばかりに聴き入っていると、馬車は大きく跳ねた。
 鈍く乾いた異音がしたので馬車は直ちに止まり、物の具の音をたてて兵士たちが慌ただしく検分している様子だった。
「いかがした」
 彼はみずから窓の帳を掲げておっとりと車外に問いかける。
「申し上げます。石塊を車輪で轢きましたため揺れた模様でございます。申し訳ございません」
「修理が必要か」
「石のほうが砕けており、大事ないようではございますが……」
 副車には病の翁と狗と飼い主を乗せている。
 実は、代わりの車はないのだ。
 護衛隊長としては庶民らを荷車にでも移して、念のため彼と軍師を副車に乗せたい。
 だが、情け深い彼がこの提案に肯うとも思えず言いよどんだ。
「構わん。的盧を牽け。軍師の栗鹿毛もな」
「かしこまりました」

 そうやり取りする間も君臣は手をずっと携えたままで、車を降りるときには彼が先に降り、当然のように振り返って車内の我が龍に長い腕を伸べるのだった。






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