日月兩把劍(十二)

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍

 そのころ諸葛邸の奥では、あたらしい図面を引いていた黄月英が、小筆をひょいと耳に挟んで疲れ目を指でつまんでいた。
 大きな布の向こう側では、璉璉が計算をしていた手を止め、泣き出しそうに下がった眉をした顔をあげる。
「あのう。月……。おくさま」
「月英とお呼び」

 幼くして孤児となった璉璉であったが、旅の途上の黄承彦に拾われ、風変わりな少女月英の小間使いとなった。
 月英のお転婆は、普通の少女とは全く違ったので家中で手を焼いていたのに、璉璉は何の先入観もなく、すっと馴染んでしまった。
 璉璉は手先が器用で、しかも庶民の出にしては計算の才能がずば抜けていた。これがまた、黄月英が重宝がり、妹のように可愛がっているゆえんでもある。

 屋根によじのぼって凧を飛ばし、楽器を分解し、食事のときに入手した果物の種を裏庭に植え、新奇なことをしてはいつも月英の母に雷を落とされていた。
「璉璉ッ! お前はお目付け役なのですよッ! 何度言ったらわかるのですか! 月英あなたもですよッ、いくつになったら刺繍のひとつもできるようになるというのッ!」
 月英を止めるどころか、一緒になって妙なことに興じる璉璉に苛立っては、今日にも璉璉を追い出しそうな剣幕で、月英の母はしばしば柳眉を逆立てた。

 しかし、母の脅しに屈する月英ではなかった。いつでも父が必ず庇ってくれる確信があったからだ。
 酒が入ると、他人には
「月英が男であったなら」
 とこぼしていたようだが、黄承彦はこの愛娘に対しては
「お前の母が何と言おうが構うものか。お前の一生の大事はわしに任せておけ。必ず、お前に箒など持たせぬ天下の英才を婿にしてやる」
 たびたび、まじめな顔をして誓うように言っていた。それはのちに果たされた。

 ひとかどの男たちならば黄月英の才能をたちどころに理解してくれるのに、女の敵は常に女である。こんな生い立ちであればこそ、黄月英は母ですら理解してくれなかった才能を理解してくれるただ一人の女性である璉璉をとても大切に思っている。

 諸葛家の小間使いとしては気が利かない璉璉だが、黄月英の助手という役回りや身の回りの世話となると、このような来し方を思えば璉璉以外の者には勤まらない。幼いころから月英の母から同じお仕置きを食らって育ってきた璉璉は、まるで黄月英の本当の妹のようなのである。


 今「お茶にいたしましょうか」と璉璉は提案したかったのだが、きりのよいところまで済ませないと気が済まない黄月英の気質を知っているので、強く薦めるのがためらわれて、どうでもよい話をしてきっかけを掴もうとした。 

「月英さま、あの……『けんしょく』は、高く売れたのですか? これくらいの、箱に入った」
 璉璉は、初めて淘盡堂へお使いに行った時のことを手振りで示した。
 目から鼻に抜ける黄月英はすぐに察して
「あら。珍しい。璉璉が宝玉のことを言うなんて。今夜は雪だわ」
 と、からかうので
「夏に雪なんて。降りませんよ」
 璉璉は、泣きそうな顔立ちにちょっとふくれっ面を作って見せる。
「あれはね。高く売るためじゃなくて、探してたの」
「探して?」
「本当は四個ひとそろいなんだけど、一個だけ、違うものだったのよ。……父も探してたんだけど、宛もなくてね。それが、まさか益州でね」
「こじり、とかっていうやつですか?」
「そうよ」
 黄月英は、耳に挟んだ筆を硯に置いて、大きく伸びをして立ち上がった。
「ちょっと、おやつにしましょうか。……見てみる?」
 簪ひとつ飾りもせず、藍色の短袖短丈の作業着を着ていて、こんな時の黄月英は小柄な大工にしか見えない。
 それを機に、璉璉はこの図面室の隅の炉に飛んできて茶を淹れなおし、素早く戻ってきた。
 このごろのお茶は、眼に効くという菊花茶にしている。
 お茶請けは、隆中から届いた干し無花果で、月英の好物だ。

「ほら。ご覧」
 黄月英が、黄承彦の形見の品のひとつである件の箱を開いて待っていた。
 その箱の中には、楕円形の白玉、分厚い長方形の白玉、薄い長方形の白玉、また厚い方形に似た白玉の四点が品よく納まっていた。
 どれも、雲を思わせる揃いの意匠が施してある。
 璉璉は、どれが鐺なのかをすぐには思い出せなかったが、このうちのどれかが鈍色をしていて金属製だった。お使いに行ったときはそういうものなのだと思っていたが、本来はそういうものではなかったらしい。

「……どうして、黄の旦那様が持っていらした宝物とはぐれたものを、あの鍛冶屋のお爺さんが持っていたのでしょう?」
「なぜかしらね……。この世って、こういう不思議が時々あって、計算では測り知れないわ」
(こういうことを『臥龍先生』がちゃんとわかってて献策できているのか、わたしはいつも不安だわ)
 理に傾きがちで、情さえも理で計算しようとする龍の悪癖を黄月英も気づいていて、姐のような表情を浮かべた。

「ああ、おいしい」
 黄月英は熱い茶を喫してから、小さく縮んで甘みを増した無花果を噛み締めた。微かな種の歯触りも好きなのだ。
「そうそう。箱の裏のここね。読んでご覧なさいな」
 墨汚れのない小指の先で、黄月英が蓋裏を辿るので
「月英さま、わたし、難しい漢字は……」
 璉璉は、はにかんで頭を振った。数字のほうが得意で、知っている文字には限りがある。
「平気よ。古い字ですけど、読めます」
 彫り付けて厳めしく金で塗った跡がある八文字は、意外に平易な文字だった。

「水ヲ得テ而シテ生キ……水ヲ失ヒ而シテ死ス……?」
(どういう意味なのかな)
 読めはしたが、格言かそれとも秘密の合言葉なのかさえ璉璉にはわからない。
 確かこれら四つの玉の塊は、剣の飾りだったはずで、それにしては勇ましさに欠けるようだということだけは璉璉にも感じとれた。
「わたしも、意味はわかりません。一応は『三略』という兵法書の一節です」
「さん、りゃく……? ですか」
 兵法書といえば『そんし』とかいう有名な書があって、臥龍先生は全部暗誦できるらしい、ぐらいしか知らないし、『そんし』の有名なくだりなど一つも知らない。

「三略はね、留侯が授かったと伝わる兵法書なんですよ」
「あっ。じゃあ、沓を拾ってこさせたお爺さんの……」
 璉璉は徐州の東の国の出身なので、例の橋での留侯の伝承については流行歌の類を含めてよく耳にする機会があったとみえ、目を輝かせた。
「そう。うちの黄は、黄石公の黄らしいのよ」
「えっ……。ほんとですか?」
「父が言うにはね。証拠はないわ」
 黄月英は茶碗を傾けて、湯気を疲れ目の瞼にも飲ませて続けた。

「臥龍先生が、主公に水と言われたらしいと聞いてから、いつかこれが揃うんだろうという気はしてはいたのよね。だからあの時、手放しても帰って来そうなこれを、持って行ってもらったのよ」
(月英さまって、すごいわ)
 璉璉は、感心して口も挟めずに黄月英の聡明な容貌にみとれたようになっている。

 黄月英は美女ではないが、この聡明さが全身のすみずみまで光を宿しているかのようで、美醜など超えた凛凛しさの如きが感ぜられる存在である。歳を重ねれば重ねるほど、若くて美しいだけの女とは別世界に住む人に思えて、璉璉は誇らしい。

 美しいのは、どちらかといえば臥龍先生のほうだ。
 白皙を俯けて琴を弾いているか、呼吸も僅かに昼寝をしているか、涼しい佇まいで天文を観ているか、隆中でのどの点景もが一幅の絵であった。
 そして、璉璉の目には、臥龍先生は隆中の頃から今まで、歳をとったようにさえ見えない。
 そんなことを考えて、三略の八字のことなど余所事になっている璉璉に、黄月英はなおも語りかけた。

「なにか、予言のようなものかもしれないと、わたしは思っています。あるいは高祖の水が、留侯だったのかもしれないし……今の主公と臥龍先生のことを何か言いたいのかも、ね」
 とはいえ揃った剣飾をどうすべきなのか、さすがの黄月英も考えていない。
 報告すべき父は既に身罷った。
(父上、どうしましょうかねえ。これ)
 考えたくはないが、水を失うという日まで持っていろということなのかと仮に想像すると、黄月英の心の中は珍しく曇りかけたが、璉璉に心配をかけまいとして話題を転じた。
「璉璉もおあがり。若先生の無花果は本当においしいわ」
「はい。いただきます」
 菓子を食べているこの時だけ、二人は歳相応の、少し年増の仲良しの姉妹に見えた。 
 

 その日の夕方、常山趙子龍は長坂坡以来の最大の危機に瀕していた。

 目の前には白髪の老人だが、その右手に握っている抜き身は、趙子龍が決して争いたくない剣である。

(まさか、民が殿の剣を抜いて向かってくるなど……)
 さすがは趙子龍、不意打ちの一撃を見事に躱したが、門と家の間の狭い空間で生じたこの睨み合いの末に、どう勝機を見出すかを考ている。
 否、頭の中で策を講じているというよりも、次の一撃をかわして百歳翁の懐に入るための體の動きについての瞬時の閃きのとおり、誤差なく実行する己の姿を既に見たかの如くに脳裏にえがいているのだ。

 ひゅう、と、一陣の風が両者のあいだを無邪気に吹きすぎてゆく。
 風に応じたのは、百歳翁の白髪と趙子龍の外套の裾だけである。両者、微動だにしない。

 民間人を無礼討ちにする気はない。かといって、むざむざ主君の剣のもとに斃れるつもりもない。
 したがって趙子龍は剣を抜かずに事を収めたい。

 同居しているはずの老剣匠の姿がないところを見ると、留守なのかもしれない。
 この白髪の百歳翁の眼光を見れば呆けているとは思えず、どちらかといえば狂気走っている。
 しかも、本当は百歳ではないこの翁の豊かな白髪は、まるで武功成った老練な剣豪の趣すらあり、剣に心得以上のものがある様子が歴然としている。
 若いころに身につけたものは、たとえ呆けてもその身を離れぬのだろうか、もしそうであれば己も白髪の翁となった暁にかくこそありたしと、たった一呼吸しか許されぬほどの間に趙子龍は廿年後に思いを致した。

「待たれよ。弟御はいずれに。話せばわかる」
 呆け老人に刃物のこの状況では、よけいに話など通じないであろうに、律義者の趙子龍は会話を試みた。
「覚悟せい夏侯恩ッ!」
 向こう三軒に響き渡ろうという問答無用の一喝とともに、老人の足の親指に力が籠る気配を感じ、趙子龍は一瞬早く全指で地をとらえた。

「大哥、大哥! 人違いだ! 剣をひいてくれ!」
 右足を引きずりながら、母屋から老剣匠が出てきた。
 まさか斬られているのではあるまいかと趙子龍はこの危機的状況の中でも、このあとどうするかの優先順位を忖度する。
「騙されんぞ!」
 百歳翁は、後ろを振り返りもせずに趙子龍を睨みつけたまま
「青釭剣の声がする!」
 肚から、一生分の声を絞り出したほどの叫びをくれた。 
「あ……」
 趙子龍の視界のなかで、怒髪天を衝くような形相の百歳翁の向こうで、老剣匠がへたり込み力なく笑いを浮かべたかと思うと、次第に声を上げてオイオイと泣き始めた。
 だが老人の泣き声ごときでは緊張した膠着はおさまらず、趙子龍は論より証拠とばかりに意を決して挙に出ようとしたその時である。
「ワン!」
 風のように鉄竜が走りこんできたので、趙子龍は乗じて踏みだした。
 その後、趙子龍に対して無関心になったように見えた鉄竜であったので、主人の味方をするつもりかもしれず、もしそうならば心ならずも鉄竜を蹴り飛ばす一投足が必要になるかもしれない。
 無用な殺生の可能性を減じるためにも今しかなかった。
 だが、意外にも鉄竜は百歳翁の足もとに纏わりつき、その裾を咥えて引っ張り、趙子龍を助けた。