日月兩把劍 じつげつりょうはのけん (最終回)

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍

 雌雄一対の剣は瑕疵ひとつなく返った。

 大暑もすぎ、彼ら君臣は楼の上で満月を待ちながら夕涼みをしていた。
 来月はいよいよ漢中の王に進むためもあって昼間は雑事に取り紛れているので、彼は忙中に閑を捻出した。

 彼は南面し龍は差し向かい、蚊が寄らぬように四隅で香を焚かせている。
 井戸水で冷やして切り分けた果物を卓に並べ、薄荷を浮かべた熱い茶を服し、満月と共に秋も待つという風情である。
「虫の音が、待ち遠しいのう」
「はい」
 日ごろから気を付けてやってはいるものの、どうにも夏痩せは避け得ぬ我が龍の佇まいを見れば、黒い羅の羽織の向こうに淡い翠色の着物を透かせて、夜目にも髪は洗いたてのように黒く、音もない瀧を思わせた。
 月さえ我が龍を慕って昇り来たる気がして、彼は経年の疲れ目が癒える心地がする。

「思えば去りし年の今ごろ、そなたは来月の事を予見しておったのだろう」
「……いいえ、来月である、とまでは」
 龍は、予見してはいたことを謙遜して答える。
 しかも、予見したのは去年の今ではない。

 忘れ得ぬあの草堂に春睡足る日に彼と差し向かい、その日まで毎夜つぶさに観つづけた天文の象を考え合わせ、彼は必ず大王になると確信したのだ。
 彼を大王たらしむるのではない。
 今思い返せば、大王たる彼に龍は傅くべくして傅いたともいえる。
 ついでに加えるならば、彼のような君主など先の世にもなく来たる世にも現れないと断じていたのに、あの日に眸と眸をかわしただけで、その君が実在するこの僅かな時に辛くも間に合った喜びか畏れかが、頭ではなく懐のあたりを激しく揺さぶったことを、龍は今しがたのように覚えている。

「よしよし、今宵は難しい話はぬきじゃ。さあ」
 彼は梨の乗った皿を我が龍にすすめながら、まるで毒見のようにまずおのれが手を伸ばす。
 梨は彼らの好物であるというよりは、食養生のために摂るように努めている品である。

 シャリシャリとした爽やかな食感を音にもあらわして
「うむ。甜い。そちも賞してみよ」
 食の細い性質の龍に、再び勧めた。
「頂戴いたします」
 遠慮がちに、一番小さく切り分けられた梨を択ぶ風もなく択びとって、ようやくその端を口に含んだ。
「梨に限ってはのう」
 つられて龍の食欲が進むよう期待しながら、彼はまた一切れに手を伸ばしてみせる。
「こうして生を食うのが一番じゃな。林檎のように焼いたり餡にしたりも、たまにはよいが」

 このあいだ、三の将軍の恋女房から届いた菓子のことを言っている。
 虎髭をたくわえた強面のくせに、いくつになっても愛嬌がある三の将軍の妻女の趣味は料理である。
 若いころは、とにかく廉くて嵩が張って腹にたまるものを作ることで大わらわだったが、国力に余裕ができ戦いが減るにしたがって、製菓にも精を出すようになったらしい。
 
『俺らの水の軍師サマは、夏は梨が欠かせねえらしいんだが、飽きたりしねぇのかねェ?』
 粗忽でがさつ者のはずが、じつは優しいことをいう夫の噂話を忘れもせず、夏は梨の菓子、冬は生姜の菓子と、妻女は折折に工夫しては届けてくるのである。

「しかしながら、このあいだの焼菓子は趣向が面白うございました」
 いままで数えるほどしか顔をあわせていないあの姐御肌の妻女がこうして心にかけてくれる所以がなぜかと考えれば、菓子の出来栄えは龍にとっていつでも問題ではなかった。
 むしろ、一道を磨き上げる凝り性なところが、黄月英に似通っていて好感が持てる。
「そうであったか?」
 彼が首を捻るので
「左様でございます。梨は柔らかく焼き上げた生地は香ばしく、取り合わせの妙味がございました」
 どの菓子も忘れ得ぬ龍は、いつぞやの名月のおりの月餅の話題に転じた。干した杏や葡萄を刻んで餡に含めた香味ゆたかな味わいを覚えている。
「葡萄のが旨かったな。杏は忘れた」

 遠くで、狗の遠吠えがした。
 蜀犬日に吠ゆという俗諺は半分本当のことで、しかも満月の夜に鳴く狗もいる。
「……鉄竜は、達者にしておるかのう」
「はい。おそらく」
「何がどう働いたのかはこの際よくわからん。だが、鉄竜のおかげだったのかもしれぬ」
(いいえ、我が君の)
 と、龍は言いたかったが、これを言っては後で恥ずかしくなるほど彼を褒めてしまい、続いて彼に対する真情をうっかり口にするであろうことが分かり切っていたので、その想いを慎むように白い扇の先を口許に寄せて微かに俯き、同意を示した。

 彼らふたりは
「めでたし、めでたし」
 となった一件を胸にえがいて、言葉もなくただ暮れゆく天の下に並んでいる。

 他愛ない話をしていると、いまが戦乱の世であることを忘れかける。
 北面する龍は、煌煌と月の光に霞みもせぬ我が王の星を彼の温雅な姿の上に見、辺りの暑気が払われ常春のような錯覚さえ覚える。
 彼はといえば、のぼりはじめた満月に磨かれてなお皓いかおばせが眩しく
(ああ。儂の望月)
 と、空になった茶碗を手にしたまま、相も変わらずに見惚れるのみである。


 成都の南、楽山の麓で、二人の老爺が酒を飲んでいる。
 二人の足元では茶色い狗が丸くなり平和にまどろんで、時時思い出したように耳の先を機敏に動かして小虫の類を振り払っている。

「いいお月さんだなあ……」
 聞剣の翁は久方ぶりに若やいだ表情を浮かべている。
 それはおそらく弟というものの顔で、年上の頼れる者の傍に居られる安心感が醸し出すものかもしれない。
 それに対して、白髪の翁は無言で満月を見上げてから杯を傾けた。
 どちらかといえば無口だ。
 若い日のあの頃と全く変わらず、あの頃の大哥が年を取って白髪になっただけの姿であるので、これがまた聞剣の翁にとっては嬉しい。

「大哥の耳は、衰えを知らねえやね」
「またその話か。もうやめろ」
 口調はぶっきらぼうなのだが、このような時の大哥は照れているだけなので、聞剣の翁は笑顔を浮かべて続ける。
「見たこともない青釭剣が分かるなんてなー。おれは倚天剣と間違えたのに」
 趙子龍や余の者と話すときは「わし」だったくせに、大哥と一緒にいるだけで時が巻き戻ったかのようだ。
「石が一緒だ。倚天剣は知ってた。それだけだ」
「一生忘れられっこない」
「一生って……。あと何十年生きるつもりだ」
「もう残りが少なくっても、それでも一生だよ。大哥」
 ふたりはしんみりと笑いあう。

  いまが建安も廿四年だと知りもせず、趙子龍を夏侯恩と思い込んで斬りつけた日のことを言っている。
 鐡の大哥は雌剣に救われたのだ。
 
 何かと世話を焼いてくれる肖を通じて趙子龍に連絡し、剣を返却するとりなしを請おうとは思ったが、實はその前に、老剣匠は冥途のみやげにと雌剣の鞘をこっそりと払ってみていた。
(細い。本当にこんなので戦えるってのか?)
 鞘を見れば、三日月に似た断面をしていて、雄剣の鞘に寄り添うような珍しい拵えだった。 
(ふむぅ。いよいよ、後から、ってことか)
 呆けた哥との行く末も忘れて、剣と話しはじめようとすると、背後に気配を感じた。
 振り返ろうとしたところで
「ご老人。ご在宅か。拙者でござる」
 と、微風と共に趙子龍の訪いを受けたので応じようとすると、卓上の雄剣を鷲掴みにして飛び出てゆく人影があった。
 その俊敏さは呆けた哥とは夢にも思えず、視界の隅に残った白髪のたなびきと翻った袖の色を何度も頭の中で繰り返して、ようやく見たものに対する判断が伴うや、驚いてまろび出ようとしたところで、脛を椅子の角にしたたかにぶつけて蹲った。

 あのとき闇に光が差し込み、東の空からようよう満月がのぼるように、闇が隠れ得るところなど己の落とす影にしかないほど辺りを照らしだしたと大哥はあとで言った。
「あいつは俺が作りたい剣に似ていた。あいつは一度も血を見たことがない。おそらくこれからも見ない」
 雌剣のことを「あいつ」などと呼び、眼光にはこの道の達人の風格が宿っている。
 この鐡鉱石狂いの翁は、ちょっと見ただけで彼が雌剣で一度も人を斬っていないという誰にも言ったことがない事実を見破っていた。
 戈を止めるための護国の剣を作るのが宿願の大哥は、戦場にあってなお血を見ようとしない剣の実在に救われたのかもしれない。

「あいつと、そのヤべぇ剣はいわば……。曦暉両把の剣」
「……ちょっと、そいつは難しすぎやしないか大哥」
「そうか? それなら、日と月ってところか」
「そのほうがいいなー」
 聞剣の翁は大哥の杯に酒を足した。
「今夜はあのヤッベぇ剣の話もさせてくれよ。……妙な鐺がくっついてたんだよ。大哥はどう見るか」
「拵えの事はわからねえ」
「そう言わずにさ」

 一対として生まれいでたはずの剣は、だんだんと縁が淡くなってゆく。
 巡りあって一対として生きる剣は、互いに護り護られ、ますます絆が強くなってゆく。
 倚天剣と青釭剣、そして益州の主が佩いている双剣はこの先どのような運命を辿るのだろうか。
 老剣匠は、その先を望月に問うた。


 それからほどなく、漢中王が八把の剣を鋳造させたという風のうわさが巷を通り過ぎていった。
 うち三把は王太子、梁王、魯王に与え、また三把は義弟と趙子龍にそれぞれ授け、のこる二把のうち一把は龍の軍師に贈ったという。


 あの鐺の部品が、老剣匠の茶目っ気で趙子龍の剣の飾りに紛れて加わっており、あの玉剣飾一式もまた日の目を見たであろうと願うことは、いずれの世に経る者だれもが、つつがなき世にいずる望月をただ仰ぎ見たいと思うこころに似ていよう。



日月兩把劍(了)