白い耳の奥に松籟が渡っている。
夢うつつの先生は
(昨日、久しぶりに飛行機に……)
ジャンボジェットの機内音が耳に残っているせいだと気づくと、壁際から微かな金属音が気まぐれに聴こえてくる。
邸よりも糊が強く効いたリネンの固さを感じながら、寝室では耳が冴えてしまう性質の先生は白い耳をそばたてて金属音を追い
(オイルヒーターの)
と直ちに得心した瞬間
(すると恐らくは)
眸をひらいて閃きのままに跳ね起きようとして、隣に躺る人を気遣った。
昨日、用務先から国際線の乗継で先生と合流した彼は、足しあげたなら先生の何倍の時間を飛行していたことになるのか、ぐっすりと眠っていた。
それでも彼は長い腕を羽毛布団の上に伸べて先生を護るように寝入っていたので、先生はまず素足の爪先だけで器用に絨毯を探し、あとはシルクの寝衣の滑らかさを利用して、起き上がることもせず羽毛布団とベッドとの隙間をつるりと降りてしまった。
彼を起こさずに先に起きいでるために工夫を重ねて会得した、ちょっとした技である。
彼を起こさずに先に起きいでるために工夫を重ねて会得した、ちょっとした技である。
寝衣の長い裾を翻して白いタオル地の部屋履きに素足を入れて先生はリビングの窓辺に寄った。
ジュニアスイートの客室のリビングとベッドルームとは、胡桃材の飾り格子が間仕切りしているだけの軽やかな造りであったため、先生は一級遮光の分厚いカーテンをほんの数センチだけ捲って外を窺った。
日の出の時間と、ここが島国の西側であることと、高地であることと、そしていまの外の状況を考え合わせて、急な明るさが枕もとに届かぬようにと気を配ったのだ。
日の出の時間と、ここが島国の西側であることと、高地であることと、そしていまの外の状況を考え合わせて、急な明るさが枕もとに届かぬようにと気を配ったのだ。
視界は雪も欺く眩しい白だった。
すぐ傍のテラスの手摺も、ウッドデッキも霞むほどで、視程は一メートル未満であろう。
オイルヒーターの長所は、換気の必要がないことに加え、作動音がほとんどないという点にあろう。稀に、金属的な連鎖音を発することがあるが、それは運転開始後や運転終了時など、本体の温度変化に伴って構造上やむを得ない作動音である。
補足するならば、オイルヒーターの欠点は電気代が嵩むという一点に尽きる。
もしも節電のために室温に応じての運転に設定してあったのならば、いま寒暖の差が発していたと推測するべきで、お天気マニアの先生の頭脳は寝起きというのに局地的な濃霧の発生を予測して、居てもたってもいられなかったのだ。
予測は見事に的中したのだが、先生はすぐにそれを忘れてしまった。
真っ白の一隅に、水墨画の描き始めのように崖がぽつんと見え、まだ見えもせぬ奈落へ身投げを図らんとする風情の松の姿が現れた。
断崖は徐徐に黒黒と存在感を増して、霧は瀧を思わせるうねりを伴い、崖から音もなく流れ落ちてゆく。
まだ見えもせぬいずこかの木立から鳥が一羽、また一羽と飛び立ち、視界のよいところを探しているのか、霧のなかを見えつ隠れつしながら旋回している。
崖はだんだんと横幅と奥行きを呈して、遠景には古式ゆかしく軒が反り返った小さな楼もあらわれ、甍ばかりが朝陽を受けて輝きを点じる。
流れ落ちた白い瀧が海を作ろうとしている様子に心奪われていると、テラスの手摺に鳥が飛来して休んだので、目に見えぬ筆で描きだされる水墨画のなかにおのれの意思で動くものを見いだし、この景色を迂闊に独占していたことを思い出した。
一年に何度でもあることではない。ここへは忙しい観光に来たわけではないのだから、いくらでも午睡を勧めることもできる。
窓辺を離れようとしたとき、冷えた軆を抱きすくめる温もりに包まれた。
「おはよう。早起きじゃのう」
彼は長い腕で先生を抱きしめ、残る片手で無造作にカーテンをひらいた。
高い天井付けのカーテンボックスからたっぷりと重たげだったカーテンは、彼の手にかかって易易と二人分の視界を譲り渡した。
「おはようございます」
先生が彼の腕の中で俯いた理由は、耳敏いはずであるのに、彼が起き上がってくる物音が聴こえていなかったからであろうか。
何かに心を奪われると、全ての注意がそちらへ向いてしまいがちなのだ。
これが短所に出ると例えば思い詰めるタイプという一面になり、長所に出ると一道を極めんという、または一人の人間を恋い慕う一途さに通じもする。先生は、この世の理が素直に生まれいでた好例ともいえよう。
「あの、お疲れと存じて……」
結果的に今まで絶景を独り占めしていた先生は決まりが悪くて小聲で口ごもってしまった。
「そなたこそ」
彼らには無関心に、次次と描きいだされる自然の水墨画の筆致を憚って彼は囁く。
「昨日は移動に四、五時間ほどは要して疲れたであろうに。それでもそなたが気になるものとは。これであったか。運がよい」
寝起きだというのに機嫌ななめならず彼はそう応じて
「見逃すまいぞ、佳境ではないか。儲けた」
むしろ寝起きにいきなり山場を見るタイミングに間に合ったのは先生の功だと言いたげに窓の外へ視線を移して促した。
とはいいながら、彼は先生が起きいでたのを知っていた。
天才・伏龍先生ができないことのひとつは、彼の狸寝入りを見破ることなのである。
先生がつるりと寝台を降りたとき
(毎度、器用なものじゃのう)
と感心しながら、先生が窓辺に向かう足取りや、カーテンの隙間にピタリと張り付いて微動だにしない様子を、枕に頬杖をついて
(乗りもの酔いや疲れは、ないようじゃな)
と、観察半分、見惚れ半分で見詰めていたのだった。
薄着が心配になって徐に起きいでて、静かなスライドドアのクロークを開けて棚から毛布を取り出してきたというわけである。
とはいいながら、彼は先生が起きいでたのを知っていた。
天才・伏龍先生ができないことのひとつは、彼の狸寝入りを見破ることなのである。
先生がつるりと寝台を降りたとき
(毎度、器用なものじゃのう)
と感心しながら、先生が窓辺に向かう足取りや、カーテンの隙間にピタリと張り付いて微動だにしない様子を、枕に頬杖をついて
(乗りもの酔いや疲れは、ないようじゃな)
と、観察半分、見惚れ半分で見詰めていたのだった。
薄着が心配になって徐に起きいでて、静かなスライドドアのクロークを開けて棚から毛布を取り出してきたというわけである。
詩竹大飯店のホームページは、周辺の自然景観の写真が高解像度でスライドする仕様である。いま彼らが見ている景観のベストショットも
<天上雲濤>
と題して
<天上雲濤>
と題して
※一定の気象条件が整った早朝に、山側客室からご覧になれます
という但し書き付きで掲載されており、観光客の憧れを惹く眺めなのである。
(今日のこの景観も、あなた様が)
事前に天上雲濤に合わせて旅行を計画できる者はまず居ないといってよいにも関わらず恵まれたこの幸運は、まぎれもなく彼の強運が引き寄せたものだという確信をともなって、先生は彼のあたたかな腕にそっと指を添わせた。
豪放に見えて細心を併せ持つ彼は、毛布と先生が離れぬようにと先生を毛布ごと抱きしめて、当然の役目を果たしているだけのようであったのに、先生の手が柔らかに添うただけで、このままベッドへ運んで二度寝を極めこもうという誘惑と早速に戦わねばならぬのだった。
しかしさすがに歳の功でおくびにも出さない。
しかしさすがに歳の功でおくびにも出さない。
音もなく描き出される水墨画は完成に近づき、続いてだんだんと彩度を増してくる。
鳥たちも視界が開けて警戒を解き始めたのか、彼方で歌いはじめる。
都会では耳にできるよしもない、のどけく息の長い高音の囀りで、彼らを育む物言わぬ水や樹木がまたひとしお清らに感ぜられる。
「何やら、仙人にでもなった気分じゃ」
「まことに」
「だがの、似非仙人は腹が減った」
「あ……。お茶も召し上がらず」
「茶か。……まずは、この甘露をな」
彼は先生のほそい頤をとらえて数日ぶりに唇をかわして渇きを潤した。
先生はたちまち、重力がどう働いているのかさえもわからなくなる。
今は霧散しつつあるあの白い雲霧の海の上に逍遙する心地で、溺れながらも酸素は絶え間なく口移しに与えられて、ただ彼の背にすがる。
毛布はシルクの寝衣を音もなく滑り落ちて彼らの距離をその厚さのぶんだけ縮めようとした。
シルクの向こう側とこちら側とで温もりをかわして、朝からこのようなことをという不道徳感を、薄いシルク一枚のみ隔てることを無言の言い訳にして、互いにシルク越しに求めあう。
もどかしく隈無く撫で磨かれ、そこかしこに甘咬みを与えられて、先生は身の外も内も濡れている錯覚にさえ陥る。
彼は先生の薬指の指環が回らなくなったことに気づいたのだろうか。回らなくなったなら久しく途絶えたその続きをと、彼は一年前にそう言った。
先生の心に幾重にも折り重なる期待と不安を知ってか知らずか
「甜いのう」
と呟いて唇をまた名残惜しげに嘗めては吸い、ようやく腕をほどいた。
人を戀うと、その感情は炎のように燃え上がるのだと思いがちだが、どうやら彼は違う。
戀の多くが障壁という名の燃料と、燃え上がるために煽られることさえ必要として、戀のための炎なのか炎のための戀なのか判然としなくなるほどの危うさを含み、急に燃え尽きる儚さと裏腹であるに対して、彼の戀の炎は炭火のようで、いつまでも穏やかに熱源を持ち続け、醒めることなどない安心感がある。
だのに時々は爆ぜたりもするので、秘めたる熱情は烈しいのだ。ぼやく年齢ほどには枯れてもいない。「待てる」という特異な才能に恵まれているゆえんかもしれない。
画家の姿のない水墨画を見おえて、朝の挨拶の濃やかさに乱れた髪を理してようやく身支度を整えても、プラス一時間の時差が幸いして、全く健康的な尋常な時間である。
エレベーターで下階へ降り、大飯店ご自慢のオープンカフェに朝食を摂りにゆく。
リゾートホテルに似つかわしくゆっくりと昇降するエレベーターは到着階で古風なベル音を鳴らして扉を開いた。
平日の朝の閑散としたフロントには小柄な老紳士の後ろ姿が見えた。
鮮やかに目立つ赤色の表紙に金色の菊の紋章をプリントしたパスポートを受け取っている姿が目を引き、到着した旅行客にしては早い時間なので、両替でも済ませたところだったのであろうか。昨夕のペットボトルの女の事件は、もしかしたら悪い夢だったのかもしれないとさえ思える、のどかで静かな佇まいの朝の風景に、先生はなんだか気が楽になってくるのだった。