秋風飄一葉

2016/10/01

3世紀被害譚SS

 益州の夏は蒸し暑く、秋の到来が待ち遠しい。

 荊州の夏も暑かったが、朝晩が涼しくなり始めるのが益州よりも早かったように記憶している。
 当時はわたしも今よりは若く、なんとか凌げていられたのかもしれないが。

 ところで、あの三顧の礼の前からこのかた、もう十有余年のあいだ、わたしは折々に臥龍先生についての陛下のおのろけを聞かされてきておるので多少のことには動じもしないし、もしかしたら文官としてかなりズレてきてはいないかと不安にもなる程なのだが。
 
 多少のことに動じなくなったというのは、荊州の頃か。車酔いした臥龍先生を公主抱(お姫様だっこ)して車を降りてきた主公の姿を目の当たりにして以来といえよう。

 あれを見て以来、お二人が何やら眸と眸で会話なさっていたり、主公が無言で臥龍先生の手をひいたり、礼を免じるついでのどさくさに紛れて群臣の面前で軽く抱擁なさったり、いまだに同衾なさっていたりという、日常に漂うあれこれについて、息をするように受け入れることができてしまう。

 今日は、新たな事実を知って驚いている。
 だが誰に言うのも憚られるので、こうして秋の夜空に久々に覗いた月に呟いているというわけだ。


 関将軍があのようなことになった上に、あのような形で先帝が御位を追われるとは漢室もこれまでかと瞑目する以外になかったのに、臥龍先生は主公をどう説き伏せ奮い立たせたのか、いまや主公は堂堂たる萬乗の君であらせられる。

 だが陛下というものは、何でもできるように見えて実はご不便が多いもののようだ。

 このあいだの名月だが、臥龍先生の予見のとおり生憎の雨だった。
 秋だというのに昼は真夏日で、夜から三日の雨続きというおかしな気候だった。

 空が明るさを加えてきた夕方の小雨の中、わたしは廊で下官に呼び止められた。見れば新野のころから仕えている老僕だった。
「孫将軍、陛下がお召しでございます」
「どうした。何ぞ起きたか」

 陛下がお召しとあらば何であろうと御前に駆けつけてご用件を承るものだが、わたしは新野以来の習慣と気安さで老僕に尋ねた。

「それが……その、実は。三日ほど前から丞相のお加減が……」
 そこまで聞いて、わたしにはピンときた。
「すぐに参上しよう」
 低頭して歩く老僕を先にたてて、玉座へ向かった。

「孫将軍が参上いたしました」
 との声に応じてややあって、孫公祐に目通りを許す旨の取り次ぎの声が廊の向こうまで事務的に響き渡る。

「陛下に拝礼いたします」
「挨拶はよい。近う」
「ありがとうございます」
 跪こうとしたわたしは、なかば膝を折りかけていたので不安定によろけそうになったが、陛下の心のなかをお察しして笑顔をうかべて両袖を揃えた。

 顔をあげると、渋い黄色の龍袍を纏い巨きな耳を左右にした陛下が、眉を下げておいでです。ご心配事があるときのご表情ですな。
 
「公祐。わざわざ呼び立ててすまぬが、丞相府へ行ってくれぬか」

 臥龍先生のお加減芳しからぬは珍しくない。年に三度か四度、季節の変わり目にあることで、陛下もよくご存じで慣れておいでのはずだ。

 丞相がお気に掛かるなら、見舞いの使者をゆかせたらよい。陛下が直直に臣をお見舞いになるなど畏れ多いのだから。
 というのは確かに正論です。

 だが考えてみてご覧じよ。
 ご自身が親しく見舞いにお運びになり、あの白い智者の手を取り、大きな掌で直直に発熱をお測りになり、お具合をお確かめになれぬとあらば。
 陛下は誰を遣わすかお考えになり、十年以上もの間おのろけを聞かせ続けていらっしゃるわたしに白羽の矢をおたてになったというわけでしょう。

「いと易きことでございます。して御用の趣は」
「ここ数日、孔明の具合が優れぬと聞いた。見舞いに行ってくれぬか」
「かしこまりました」
「ついてはな」

 さてちょっと困った。
 陛下は侍従に目配せをなさった。
 その盆に捧げているものは何だろうか。お見舞いの品々の目録ではあるまいな。……いや、大いにありうる。
 目立たぬように単身で行ってこられるだろうか。
 侍従は階を降りてこちらに近づいてくる。

 もしも目録であったなら、使者には御医を随行させなさるうえ、それだけでは足りずにあれこれ考えなさって、こういうときに白湯と薬しか摂れなくなる丞相のために、高価な茶が入った壺が書き付けてあったりするだろう。魔除けの意味も含めて、玉器も下賜なさるかもしれない。もちろん一個や二個ではあるまいから、結果的に「ぞろぞろ」となり得る。

 あたかも命旦夕と見紛うほどの破格のお見舞いが予測されるためか、どうやら臥龍先生は平素から陛下のお見舞いを固辞なさっていると思われますな。
 そうでなければ、お気にかかって仕方ないのに陛下ともあろう御方がただ手を拱き、わたしをお召しになる道理がないでしょう。

 陛下は相当にキておいであそばすようだ、という他はない。天下の名水欠乏症とでもいうべきか。どんな風にどれぐらい召し上がっているのかなどは与り知りませんがな。
 
 などと、ぐるぐる考えていると、侍従が目の前にもう来ていました。
 差し出された盆を見ると、載っていたのは絹布の上に青い銀杏の葉が一枚です。
「今朝、庭で拾うたと伝えてくれ」

 お供をぞろぞろと連れて丞相府へゆき、後日に臥龍先生から
「公祐ほどの者が何ゆえお諌めしなかったのか」
と苦言を呈される懸念がなくなり、わたしは少し安心しました。
 臥龍先生はこの十年来ずっと陛下がわたしにおのろけを仰せになっていることをご存じないのですし無理からぬことです。ご存じならなおのことかもしれませんがな。

 それにしても意外な見舞いのお品物です。
 まるで艶書をお預りするような気分で銀杏の葉を恭しく盆ごとおしいただきました。

「十二夜の頃か。気象について孔明と物語っておったらな」

 最近の寝物語をわたしごときにお明かしになります。
 何の変哲もありません。
 仁君と謀臣らしい内容ですが、それを陛下があの深いまなざしとお優しくおっとりとした口調でおおせで、臥龍先生が囁くようにお応えになっているというひとときを思うと、別のことを語り合っているも同様に思えます。

 この青い銀杏の葉一枚をお渡しするだけで、お二人にしか分からない何事かが伝わるらしきことを思うと、盆が俄に重くなって参りました。

 そんなわたしの内心をよそに、陛下はサラッと仰せになりました。

「ゆえに、そろそろ頃合いと思うのでな。行って様子を見てきてくれ。あれは、病み上がりが一番肝要なのじゃ。儂の側で寝かせてやらねば、どういうわけかすっきり治りきらぬ。本人が弁えておるかどうかは知らんがの。しかと頼んだぞ」