秋宵龍牀帳

2016/11/01

三世紀ss

 今上と呼ばれまだ日も浅き彼は、風の色もなき宵の寝所に我が龍を呼んだ。
 あいにく、龍の軆の具合が優れず、相見ぬこと数日、彼は千秋の思いで待っていた。


 我が龍は生まれつき、季節のかわり目に具合が芳しくなくなりがちだということは、新野以来このかた慣れてはいる。
 だが、さて、帝位についてしまうとどうであろうか。それを側で気遣ってやることが立場上かなり難しいというのが彼にとっては困ったことである。
 亡き義弟の仇討が、私闘であることを理由にいまだ更にままならぬことと同列の困りごとである。


 今朝ほど、衣冠正しく涼しき姿を朝議で階下に見はしたが、群臣らが
「丞相」
「丞相どの」
 と、あれこれと指示を仰ぐので碌に話もできず、午の餐に呼んでも席が温まる暇もなく辞去しようとする龍に
「今宵、昴がのぼる前に必ず儂のところへ立ち寄れ」
 と命じて頷かせ、この約束が果たされることを待ち焦がれていたのだった。


「丞相が参上いたしました」
 廊のほうから、かしこまった取次ぎの声が高らかに渡り、彼の巨きな両耳は微かに動いた。彼は耳を意図的に僅かに動かすことができるので、このような時に不随意に動くことがある。
 常日頃よりもやや早い刻限であったので、龍は本当に几帳面に星を観る前に足を向けたのであろう。この龍は謀るために必要な場合を除いて、寵を嵩に勝手気ままに振る舞うことなどできないのだ。
「早う早う。早う通せ」
 彼は長い右腕を伸べて頻りに手招きし、下官どもに催促した。
 帝王らしくもなく、もちろん既に漢中王でもなく、昔の劉豫州そのままの様子に、古参の者どもは嬉しさ半分の気分で洩れいでそうになった笑みを奥歯で噛みころすのに必死である。


「陛下。お召しにより罷り越しました」
「挨拶はよい。近う」
 彼は寝支度をととのえ、龍袍を羽織り龍牀に腰掛け、白髪交じりの髪を簪一本で楽にまとめて寛いだ姿で、すぐそばの腰掛を示して勧めた。長い腕は、取次の声を聞いた時から上げっぱなしである。
「ありがたき幸せに存じます」
 また一礼して、はっとするほどうるわしい所作で控えめに袖を捌いて座る我が龍の様子を瞬きもせずに見惚れる彼に対して低頭したまま
「一昨日は公祐をお遣わしくださり、勿体のうございました」
 病み上がりの衰えもみせずに仄明るい光を纏うたような姿で謝意を述べる龍に、彼は機嫌ななめならず
「うむ。公祐ならば差し支えなかろうと思うてな。……じゃが、食の進み具合は明朝この目で検分いたすぞ。覚悟しておけ」
「ご相伴に与ります」
 彼の冗談を受けて立ちながら、白い扇を横たえ折り目正しく礼を重ねる。
 もう十余年ともにあるのに全く狎れもせぬと見るよりも、少し話したらまた案に向かい政務を片付けるつもりだと見てよい。


「……ときに、孔明よ」
「はい」
「なにゆえ左様な成りのままでおるのだ」
 この世で一番の智者は、このような機微に疎いのだが、彼との起居が長いので彼がなぜそう問うたかを察して口を噤んだ。
 そして、午に何ゆえあのように命ぜられたのかを察して言葉もない。
 また謀られたことに気付いた。


「星を観にゆくつもりなら、ならんぞ。そして夜風の中、丞相府へ戻るというならば更に相ならん。……これ」
 我が龍が何か言おうとする前に、彼は視線を遠くへやり両手を打って下々を呼び
「愛相の更衣を助けよ。手早く、丁寧に、じゃ」
「かしこまりました」
「丞相、どうぞこちらへ」
 ここで彼に逆らうと、側の者どもに左右から柔らかに腕をとられて、まるで牢へ連行されるような具合になるであろう見苦しさを嫌ってか、龍は小さな聲で
「……では暫時、失礼いたします」
 と言うて一礼すると、しおらしく下官らに従って退出していった。
 このようにして幾度も、彼はこの世で一番の智者をまんまと謀り騙してきているのだ。


 彼は、不服そうな我が龍の細い後ろ姿を見送りながら忍び笑いをし、今朝がたのことを思い出す。


 今朝、朝陽を瞼に覚えて衾のうえの五指を動かしかけて
(そうじゃ。あれは加減がようないのであった)
と、即座に思い合わせてむくりと起き上がった。


 隣に臥しているはずの白き智者を無意識に撫でようとする癖を誰に見つかったわけでもないのに、彼は照れ隠しに巨きな耳の後ろを掻きながら、乱れのない寝台の半分を視界にうつしてから大きく伸びをした。


(一昨日、公祐を遣わしたのであったな)
勤勉実直な孫公祐のかおばせを思い浮かべると、白いものが混じった口髭の下でふっと笑みを含み
(何ゆえかの。あ奴には、つい)


 隆中と新野を三往復したあのころから、孫公祐に話すことといえばこのような具合である。
「それでのぅ、臥龍先生はな……」
「孔明の姿がみえぬが、いずこじゃ」
「すぐ丞相の見舞いに行く。伴をせい」
「愛相は儂の望月のようなものでな」


 つい口が滑ってこのように言うと、群臣はたいがい答えに窮して俯いて
(とりあえず拱手しておけば間違いあるまい)
 とばかりにぎこちなく手を組み目を泳がせ、彼がのろけ終えるのを待つ。


 義兄弟たちはといえば、五十を過ぎても舌打ちさえして片や
「兄者ぁ。勘弁でス。愛しの軍師サマのことはもう耳にタコでス。一緒になって誉めそやすとか、大人しく聞いとくとか。ぶっちゃけ、シラフの俺様にはどっちもムリでス」
 と、あきれ顔をするか、片や瞑目して長い美髯を黙然と撫でる姿で言外の含みを見せられるかのいずれかで全く会話が弾まないのだが、孫公祐だけは違った。


 彼が我が龍について一方的にのろけても、孫公祐は妙な表情も見せずに
「それはよろしゅうございました」
「主公がご存じないというのに、わたくしごときが存じましょうか」
「滅相もございません、お二人のお邪魔になってはいけませんので」
「まことに、言い得て妙でございます」
 世辞を言いごまを摺るというわけでもなく、雲が流れ鳥が歌い花が咲くことを賞するように、ごく自然に応ずるのだ。
 それでまた、彼の舌は我知らず滑らかになってしまい、一昨日に銀杏の葉も託したりしてしまったのだった。


 彼は還暦を過ぎ今も欠かさず劍の朝稽古に励む。
 劍技を磨くというよりも心身の鍛練という意味合いが大きい。
 年甲斐もないほどのことは控えながらも、まだ戦場に出ねばならぬであろう予感が怠惰を許さない。
 あれは、一昨日の朝稽古を終えた庭で拾うた銀杏の葉だった。


  
「今宵はまた、随分と静まり返っておるのぅ」
 僅か数日のあいだに季節は冬を待つ風情を色濃くし、虫の音もとんと聞こえなくなっていた。
 枯れ葉が舞う音でもすればよいのに、少し身じろいだだけで衣擦れの音がやけに耳につき、他愛もないことを語る彼の聲ばかりが低く渡る。


「まもなく、立冬でございますゆえ」
 龍は短く応じて、久しぶりに躺る龍牀の広く柔らかく、そして温かいことに注意を散じようとした。
 絹の褥は帝位に似ず真新しくはないが丁寧に熨をかけられて、からりと乾いて皺もない。
 
 昨日ようやく小康を得て湯浴みもしたので髪も洗いたてなので、龍はかえって気後れしている。
 ただ病後のむさ苦しさを誰にも見せぬよう気を配っただけなのではあるが、今宵、龍牀に召されることを予測して身支度したように思われぬかと考え至ると、甚だ落ち着かないのだ。


 思われるも思われぬも、予測はできていた。


 一昨日、彼の名代でやってきた孫公祐から色づく前の青い一葉の銀杏を受け取るや、病み上がりのはずの龍の頭脳は瞬時に回転した。


 宮殿のなかに銀杏はない。
 城内の廟のあたりの大銀杏が一番近かろうか。
 そのようなところから、まだ落ちようともせぬ青い葉が墻をこえて庭に落ちたとあらば、近く風が強い日があろうと予見した龍の明算を賞し伝えようとする意図で託されたことがすぐに分かった。


 そして、この予見は十二夜の寝物語の話題に窮して、彼の巨きな耳の傍で呟いたことなので、その夜のことを彼が覚えているという証でもあり、今更のようにうろたえ、また熱があがりそうだったのだ。


 狼狽をひた隠して躺っている龍の不器用さを心得ている彼は、額を寄せて熱を検めようと戯れることもせず、冷えがちな爪先を不意に脛で挟むこともしない。


 一癖も二癖もある旗下の豪の者どもを、あるいは江東の錚錚たる面々を向こうに回して、一歩も引かぬ日頃の鬼才ぶりはどこへやら、数日ぶりで君則に臥するというだけのことが、どうやらこの白い智者にとっては大事件であるらしいのである。


 いま、あの十二夜の夜と違うことといえば今宵あらたに下賜された寝衣と秋の深まりのみで、君寵になにも変わりはないのだった。
 あの十二夜といわず、彼は初めてまみえた日から今までずっと、いつでも底抜けに優しくそして甘い。
 滅多に、不用意に逼ったりはしないのだ。


 龍は安堵すると、急に眠気を催した。もう少し彼と話をすべきであることは分かっていたが、昨夜あまり寝付けぬままに、今日は積み上がった政務を執ったためであろうか
(眠気に対する必勝の兵法は……)
 と、気を取り直して頭脳を励まそうにも、「必勝」のあたりで怪しくなってゆくほど抗いがたい眠気だった。


 牀上は、まるで隆中で夜釣りをしているとき孤舟のうえに寝ころんで揺られながら満天の星をあおいでいたあの時の心地よさに似てきて
「孔明」
 遠くに彼の聲を聴き応じようとしたが、それは夢かうつつか既に曖昧であった。


「これ、寝たのか」
(今宵は静かじゃ、としか話しておらんぞ)
 そう咎めようとする言葉を呑みこむと、まなざしを深めて彼は白い寝顔を見守る。


 彼は枕に頬杖をついて白皙に落ちた睫の翳が揺れる風情を眺めてから、最も枕頭に近い灯火ひとつを吹き消して躺りなおした。
 深いため息をつくと見せかけてゆったりと息を吸い、昨夜の牀になかった香りを覚えて満足しながら
(儂は、いつから三日ほどの辛抱がならなくなったか)
 と、苦笑せざるを得ない。

 昨夜ひとりで臥していた龍は、目も耳も冴え冴えとしてしまい全く眠れていないであろうことを彼は既に察してはいるが、ここでこうしてころりと眠ってしまう理由が寝不足だけではないことを彼は望んでやまないのだった。