「と、なればじゃ」
彼の吐息の余韻に茫としていた龍は、それを隠して徐に視線をあげた。
絹布を畳んで懐にしながら
「平は、あと三日は成都に足止めとなったわけじゃな」
彼は喜色を隠しもしない。
「左様にございまする」
「儂がこれから返書を仕上げたとしても、じゃ」
念押しをするところが年甲斐もなく、つい龍は珍しく短く笑って
「はい」
と明快に応じた。
「好し、平のことは好し。ゆえに、腰痛も取り止めじゃ」
仮病を使わずに済むことに安心したのか、彼は背を正してから、急に龍の耳元へ唇を寄せた。
「……そして儂は今宵、張府へ行かねばならぬ」
龍の白い耳元で、いまの成都の最高機密の一つを彼は囁いた。
彼が今日外出することになる予見がやはり的中した事実を受け止めるよりも先に、聴覚を彼に全て奪われた形の龍は、泣きそうな表情を浮かべたが、彼の視界には入らない。
更に彼は龍の両手を袖の上から握り締め
「そののちあと三日、儂は如何様にすべきじゃ、……孔明」
密談をしているのか、密会をしているのか、いずれもなのか 彼ら自身にも判然としなくなる。
「……されば、で、ございます……」
再び空回りしそうになる頭脳を励まし、頽れそうな膝を叱咤し、先ほどの計算の卦を必死に浮かべて、龍は唇に神降ろしをしたように勝手に良策を紡ぎ出させる。
空回りする頭脳とは裏腹に、心の方は、耳元に感じる彼の聲と吐息と口髭の毛先の硬さと、袖の布越しに伝わる彼の手の温もりと感触とを鮮明に感じ取り、もっと側にという望みすら胸を掠めて遣るかたない。
時おりに降って湧く無理難題は、いつでも結局はこの君臣の心の距離を縮めるばかりなのである。
同じ青空のもと、張府では。
朝から青空が広がってきたので、玲兒は足取りもかろく廊を巡っていた。
客房に活ける花を選ぶために、裏庭の花苑に向かっているのだ。
母にねだって与えられた役目なので、玲兒は真剣そのものである。
当初は
「平兄様のご滞在中のお世話は、玲兒がします! ……ねえ、母上~、玲兒にお任せください。ね~いいでしょ~?」
と、客房の用意から餐の計画まで取り仕切る意気込みだった。
そこは、さすがは張飛夫人
「そうね、玲兒も最近すっかり大人びて。平ちゃんが旅遊でお越しならば、任せちゃうわよ?」
玲兒が「旅遊」の意味を考える暇を与えてから、優しい調子で続けた。
「ただ、今回は関二伯のお使者としてお見えですよ? やはり、母が差配するのが穏当だと思うのですよ」
「母上。粗相がないように万事ご相談していたします。だから……」
玲兒はなかなか引き下がらなかった。
張飛夫人は辛抱強く
「玲兒の、平兄さま思いは、よく分かっていますよ」
と、玲兒が最も大事に考えている点をやんわりと口にした。
娘らしく、玲兒がはにかんで俯いたところで
「たとえば……。苞が父上の御用で荊州に行ったとしましょう。苞の滞在中の世話を、伯母様ではなく、そなたの堂妹の関小妹が差配することであったなら、玲兒や周囲の者の目にはどう映るでしょうか」
張飛夫人は、玲兒が他者の意見にではなく、自分自身が思い至った回答に納得することを待った。
「……母上。玲兒が愚かでした。平兄さまのお立場を思えば……出すぎた事を申しました」
ここで我を通しては、まるで自分こそ関二伯の長子の正妻にふさわしいと名乗りをあげ、張府もそのつもりだと荊州に圧力をかけるに似ている。
関二伯は駆け引きが好きではない。
縁組を望むなら、義弟から直接の申し入れを受けたいであろうし、おそらくそうなれば快諾する。
その日が来るまえに、小賢しきことをしては、心証はよくなかろう。
あるいは、蓋世の名将の長子の世話を、養子と見くびって小娘の差配ごときで軽くあしらったと見る向きも出てこよう。
いずれにしても、誰かから顰蹙を買う上に、関平が長子であっても養子であるがゆえに、関平の身の回りに無用な小波が立つであろう。
玲兒は、はにかんで俯いたはずが、今はしょんぼりとしている。
張飛夫人は
「愚かなものですか。玲兒のよいところは、よく気がつくところですよ?」
少し頑ななところがある娘に優しく微笑んで、長所を褒めてから
「平ちゃんの滞在中は、母を助けて、客房の花の差配をなさい。どう? このお役目を受けますか?」
わざと厳かな口調で、任務を与える改まった雰囲気を漂わせ、娘を見守った。
てっきり
「母上! 大好き!」
などと甘えて抱きついてくると思った予想は外れた。
玲兒はハッと顔をあげると
「どうかそのお役目、この玲兒にお命じください!」
両袖を揃えて畏まって低頭するので、夫人はその大袈裟さと娘心の一途さを受け止めかねて
「確かに命じましたよ。頼りにしていますよ、玲兒」
と、声をかけて礼を受けるのみだった。
娘は本当にいつか、荊州に嫁入りするのかもしれず、だとしたらその日は遠くないのかも知れない。
愛娘が巣立つ日を夢見たことはあったが、それが俄かに近い将来に迫っている現実味が、張飛夫人の心に動揺を走らせたのだった。
そんな経緯で帯びた役目であるため、玲兒は毎日まるで兵事の如き緊張感と厳格さを以て、その日張府で最も美しい花を選んでいる。
侍女どもにもその意気込みは伝わり、玲兒の下知をひとつも聞き洩らすまいと耳を澄まして付き従い、客房に活けている。
(きのうは雨が降っちゃったけど……。今日は晴れたから、たぶん)
昨日の開花状況を思い浮かべ、今日いちばん美しいであろう花を、頭のなかで既に探し始めている。
裏庭の小亭が遠目に見えた瞬間、玲兒は足を止めて三歩下がり、太い柱の陰に隠れた。
「小姐? いかがあそばしました」
「誰? あれ」
玲兒が、小亭の後ろ姿に対して、人見知りに似た行動をとるので、侍女たちは初顔が来ていると察して小亭を望み
「どなたでしょう……? 側に居るのは、奥方さま付きの梨梨ですよね?」
「奥方さまのお客様のお連れさまでは?」
と噂した。
侍女たちの反応は鈍かったが、玲兒は招かれざる客が張府に来たことを直感していた。
(十八)につづく