天府南門橋(十六)

2020/12/24

3世紀長編 天府南門橋

「......斯様な次第でな。明朝早々に立ち去らせようとは思うが、先ずは臥龍先生のお考えを承りたい」


  一服の上質な茶に似た風情で現れた我が龍に、彼は張将軍の秘密の帰還を包まずに話した。


「あれは、何度言い聞かせてもこれじゃ。......そちには苦労をかける」


  眉尻を下げてから袖口を揃え、彼は廿も年若い龍に軽く会釈し、軍律違反を言外で詫びた。

  このような面倒事について居丈高に「何とかせよ」と、彼は命じたことがない。


  龍も袖を揃えて彼へ頭を垂れ

「滅相もないことでございます」

と応じながら、彼が張将軍の勝手な帰還を独断のもとに一人で隠蔽しないことに、安堵を感じている。


  もしも知らされずにいれば、万一露見した時に彼らを庇いきれないがゆえのほかに、義兄弟の情義のうえの秘密を龍は知り得る立場に有ることを確信できるゆえであるかも知れない。


  誰も耳をてることができぬように扉を開け放ち、互いに二歩の距離で小声で内密の話をしていると、廊に雀が二羽舞い降りた。


  二羽のうち一羽は小さく、親子であるのかもしれなかった。


  龍は雀に眸を移し

「......しばし、算じまする」

  と彼に断りを入れて、袖の中で指を様々に折り、計算を始めた。


  この計算はすぐに終わってしまうのだが、彼は計算の卜いをしている時の龍を視ることを好むので、喫緊の問題も忘れて龍のかおばせに見蕩れた。


   計算に専心している時、龍の目には誰も映っておらず、まるで龍が一人で居るところをすぐ隣で偷み見ているような心地になるのである。


  彼の頬が緩みそうになる前に

「お発ちになるのはむしろ、三日後の朝が宜しいようでございます」

  龍は卜いの結果を涼しく告げた。


「三日とな。......三弟が大人しくして居られようかのぅ」

  三日であろうと、十日であろうと、龍の考えに既に従うつもりの彼は、新たな心配を口にした。


「そこは、御髯殿譲りのお人なりの関平どのに」

  このような時は、関将軍の面影以外に有効なものはない。

「む。......げにも、それより他あるまいの」


  今宵の酒宴に彼は行くとしても、たびたび張府へ行っては怪しまれる。

  益州の古参の者共に知れては、不都合である。

  古参の中には、あの醒めた劉子初も含まれる以上、張将軍との確執を深めては、これも得策ではない。


「詳しくは、今宵、天文を観...」

  いつも書き言葉のように整然と話す龍の聲が不自然に途切れたので、彼がその白皙を見ると、龍は俯いて、袖口を右目に寄せるところであった。


「待て待て、そのまま。瞬きも堪えよ」

  彼はそう言いながら、懐中から絹布をさっと取り出すと、龍の眸を覗き込み、抜け落ちた黒黒とした睫が半分下瞼に残り、毛先は眸に引き込まれそうであるところを、絹布の隅で巧みに拾い上げた。

「よしよし、召し取ったぞ」

  事もなげに言い、微笑をたたえる。

  ときどきにある事で、手慣れたものである。


  睫が落ち込んでしまうと、何日も出てこず違和感が続く所を、彼はたびたび器用に防いでくれる。


   睫を拾うとき、彼は息を止めているので、拾い上げた後で大きく息をつく癖がある。


  その息は白い額の辺りにまで届くので、龍はいつも眉間の周りに感覚が集まった後で呆として、耳の奥では血の巡りが速まり、平静とはいえぬ事になる。

それを押し隠し

「勿体無き事でございます......」

   頭脳から明瞭さが欠けてゆく状態をありありと感じながら辛くも応じるものの、彼が

「何の。造作もない」

と笑んだ様子も聲さえも、既に朧である。


   雀を見た後に睫が落ちたことは幸いであった、と頭を巡らすのがやっとである。



(17に続く)