翌日の昼下がりの事である。
張府では、張将軍が私室の寝台に横たわり、妻女の介抱を受けていた。
珍しく、重い二日酔いである。
昨夜、成都の主にして長兄である彼を招いて小宴を催し、したたかに酔ったのである。
「……歳はとりたくねぇナ……あれしきの酒、三年前はど~ってことなかったってのにだゼ……兄者よりも先に潰れちまうとは……」
寝台に腰かけている張飛夫人は、ぼやく良人に笑窪を作って見せ
「閬中で、お酒も控えて励んでいらしたのでしょ? それででしょうよ」
取りなすように慰めた。
張将軍は我が意を得て
「そうサ! さすが俺様のカミサン、よくぞ言って……!」
つい普段の大声で叫び、いててて、と自らの大声のために痛みを増した二日酔いのこめかみを押さえながら寝台に体重を預けなおすので、夫人はその背をさすってやる。
侍女の梨梨は、張将軍が臥せっているなど初めて見る光景のため、食事の盆を捧げて夫人の後ろに控えながら、二人のやりとりをオロオロと見守るばかりである。
「はいはい。ほら、あーん」
張将軍は、素直に大口をあけると、夫人が差し出すれんげから、生姜味の瓜の羹を啜った。
張府の、二日酔いの日の定番なのである。
「食べてまた眠れば、お前さんのことです。夕方には随分よくなりましょうよ。また夕餉も、さっぱりしたのを用意しますからね」
「……面目ねェ……」
などと悄気つつ、糟糠の妻が世話を焼いてくれることが満更でもない張将軍である。
同時に、張将軍が心の中で強く思ったことといえば
(武芸も酒も同じだ。遠ざかると弱くなる)
だったことは誰も知らない。
良人の介抱を終えて廊に出てくると、張飛夫人は、ふっと大きなため息をついてから、空になった食器を捧げ持って続く侍女の名を呼んだ。
「梨梨」
「はい。奥様」
「昨日の首尾はどうだった」
「はい。お言いつけの通りに」
「よろしい」
「はい」
梨梨は、知恵が回らないかわりに小狡いところがなく、いつでも張飛夫人の言いつけを言いつけの通りに実行する堅実さが美点なので、数十年来重用している。
夫人は張将軍が臥せっている部屋の扉を一度振り返ると
(……ごめんよ、お前さん。これも張府と成都の平安のためだ。もう少し辛抱して)
と、心の中で呟き、梨梨を従えて普段と同じに見える足取りで厨の方へと歩いてゆく。
(にしても)
夫人は歩きながら、どこか上の空である。
(……ゆうべはいろいろありすぎて、ちょっと疲れちゃったわ……。でも、軍師様のおおせの通りにしていれば、きっと大丈夫だ。しっかりしなきゃ)
張府の庭の四阿では、関平と苞が茶を飲みながら黙然と腰かけている。
昨夜、張将軍が酔いつぶれた後、成都の主であり義伯父である彼から、関平は張将軍の目付けを命じられた。
関平と一緒に居たい苞は、必然的に邸に缶詰めにならざるを得ない。
「……あのさ、平大哥」
「ん?」
苞は、花生の殻を山と築きながら、重い口を開いた。
「……きのうまで、平和ボケしてたのが恥ずかしいゼ……俺」
またひとつ、花生の殻を剥いては実を咀嚼して飲み込み、黙り込むとまた訥々と語りだす。
「なんかサ、急に……。俺の知らない頃、今みたいじゃなかった世で、若かった親父たちが、死に物狂いでここまでやってきたっての、見せつけられた気がする……。知ってるつもりだったけど、違った……。今後、俺も同じようにできるとは、到底思えなくてサ……、凹む……」
「……初平の頃の洛陽の事など、俺も知らん。お前と同感さ」
若者が雁首そろえて、父親の凄さに改めて感じ入るとともに、劣等感に苛まれて怖じ気ついている。
かと思えば張府の奥では、令嬢の玲兒が呆としている。
「小姐」
と、侍女たちに何度か呼ばれてハッと顔を上げ
「え……? ごめん。何の話だったかしら」
いつもの玲兒らしくない。
「小姐、……きょうの客間の......平公子のお部屋のお花は、いかがいたしましょうか」
侍女たちがおずおずと声をかけると
「あ……もう、そんな刻限だったの……」
玲兒は座ったまま応じた。
侍女たちは困惑の表情を並べている。
昨日まで、この刻限に玲兒が座っていたことなどなかった。
侍女たちが花籠や花鋏を持って集まるのを、待ち構えて立っていたので、彼女らは、毎日この刻限の前に用意を万端整えて参上せねばと、相当に心理的な負担を感じていた。
負担がなくなるのは歓迎すべきことだが、「昨日と違う」状況には、たちまち不安を覚えずにはいられない。
「……西側の花壇の山茶花が、今日はきれいだと思うのよ……」
昨日までの、玲兒の気の入れようを知っている侍女たちは、顔を見合わせて、一向に立ち上がろうとしない玲兒の様子を窺った。
皆、何色を何輪、七分咲きを何輪、蕾を何輪、あしらいには何をいくつ、どの花瓶にどのように、と、細かい指示が続くと考え、全身を耳にして身構えていたのだ。
「傷のない山茶花を選んで。他は、お前たちに任せます」
と、視線も肩も落ちて元気がないので、侍女たちは頷き合いながら
「かしこまりました……」
行儀よく声と足並みを揃えて退出する以外になかった。
張府が似つかわしくない静寂に包まれているのには当然訳がある。
まず、最も賑やかでしかるべき張将軍が臥せっていることが静寂の理由の半分以上を占める。
昨晩、張将軍が彼よりも先に酔いつぶれた所以は、龍の謀であることは言うまでもない。
昨日の昼間に、龍は動悸を抑えながら
「つきましては……。張将軍を無事に閬中へお返しするために、張府の菓子を賜りたく存じます」
と、彼に菓子をねだった。
彼は、この時すでに龍が何かを謀りおおせたのだと悟ったが
「あの大酒飲みと菓子と閬中の三題とは、はて。……臥龍先生の神算は常人には測りかねるのぅ。……よしよし、来よ」
と、軽口をたたきながら、龍の手を親しく引いて室内へ誘った。
人払いをしているので、辺りに用人は居ない。
居ようと居るまいと同じなのだが、彼は長い腕を卓の上に伸べて、菓子の盒を鷲掴むと龍に向き直り、盒を掴んだ力の半ば以下の柔らかさでそっと龍の手を取ると、その白い掌に盒を乗せて手づから与えながら、菓子よりも甜い色を眸に刷いて、蜜が流れるかのような聲音で囁いた。
「......次の夜の寝物語に、この神算妙計の謎解きを所望じゃ」
張将軍を密かに閬中へ帰す、という難題に直面しているというのに、この白い賢者が謀った形跡を認めた途端に、彼はすっかり安堵してしまった様子で、近日の同衾をさえ誘うのだった。
君前を辞去した龍は、動悸がおさまったのちに書僮を呼び
「必ず梨梨殿に手渡し、すぐに夫人にお届けせよ。......直ちに中を検めるよう伝えよ」
と言い含めて盒を預け、張府へ使いにやった。
この盒は張家のものであるし、この中の菓子は張飛夫人が彼ら君臣のために特に丹精した干菓子であるので、この盒が手元に返ってきてしかも中に何かが入っていたとなれば、当然、君命または軍師の命であることが自明である。
梨梨は直ちに張飛夫人に盒を届け、書僮の口上を忘れずに伝言した。
夫人が蓋を開けると、薄く削られ半円状に巻いた形の乾いた竹の皮が、小さな錦の袋に寄り添っていた。
竹の皮には文字が書きつけてあった。
彼女は初めて見るが、おそらく龍の軍師の手であろうと察した。
「......梨梨」
「はい」
「これに……糯米を入れて。軍師様の書房へお届けして。夕刻までに」
「かしこまりました」
さすがに戦乱をかいくぐってきた張飛夫人である。
「諾」と音が通ずる「糯」に返答を託して、盒の往来のみで何も語らずに伝える方法を即座に選んで、スクと立ち上がった。