「あ! 召單姐(ねえさん)、お目覚め?」
「盥、ご用意してあります。ご案内します。どうぞ」
「……あ、どうも……」
「盥、ご用意してあります。ご案内します。どうぞ」
「……あ、どうも……」
宴の後、召單は、張飛夫人の侍女の梨梨の部屋に厄介になっており、気が付くと梨梨の姿は無かった。
貸し与えられた寝衣から普段着に着替え、どうしたものかと扉を開いてみると、それとなく待ちながら掃除をしていた風情の数名の若い侍女が駆け寄って来、召單を賑やかに囲んだ。
「朝ごはん、運んできますね。あたしたちと同じ賄いですけど……」
召單は、身繕いをしながら、昨夜の宴を思い出していた。
(まさしく、劉......玄徳。)
これまで会った者の風貌の中で忘れ得ぬ、異様に耳が巨きな男……老王府の主の彼が自分に対して何も言わなかったことに落胆していたことを心の中に見つけた。
何かを期待して「あのころ」毎日のように奏でた『新調関雎』を歌ってみたら、案の定、彼の眸の奥に感情の揺れがあらわれた。
思い切って、自分のために作り上げてきた歌絵巻を、初めて世に披露して歌い上げてみたが、結局、何も起こらなかった。
(かと言って。わたしを覚えていたなら、劉将軍に何をお願いするつもりだったのか……)
それさえも分かっていなかった自分を、どう考えたらよいのか分からず、混乱していた。
それさえも分かっていなかった自分を、どう考えたらよいのか分からず、混乱していた。
盥を前に、一度洗った顔をもう一度洗い、侍女が差し出してくれる手拭いを受け取った。
そうこうしながらも、昨日から最も気にかかっていたのは、自分が起居している竹林の寒舎である。
(でも、もしもの時は、楼主がよきに計らってくれる約束だ。信じよう)
そうこうしながらも、昨日から最も気にかかっていたのは、自分が起居している竹林の寒舎である。
(でも、もしもの時は、楼主がよきに計らってくれる約束だ。信じよう)
張府の賄いの朝餉は、記憶の底の母の味に似た、温かいふかふかの饅頭と、生姜味の野菜湯と泡菜だった。
昨夜の夕餉は、宴の余りとはいえ肉が豊富で、春節に次ぐほどの御馳走だったため、あっさりとした朝餉の内容に、召單はほっとした。
長らく縁がなかった上品な器で供されるので、召單は初めは気後れしたが、朝餉の味わいは質素で優しく、一口ごとに心はほぐれていった。
(張将軍のお屋敷では、このような朝餉をお召し上がりなのか……)
若き日に、朝から晩まで贅沢な食事で賄われ、食傷しては、こっそり巷へと抜け出して、屋台の小吃を食べに走ったものだった。
長らく縁がなかった上品な器で供されるので、召單は初めは気後れしたが、朝餉の味わいは質素で優しく、一口ごとに心はほぐれていった。
(張将軍のお屋敷では、このような朝餉をお召し上がりなのか……)
若き日に、朝から晩まで贅沢な食事で賄われ、食傷しては、こっそり巷へと抜け出して、屋台の小吃を食べに走ったものだった。
いままで見聞きしてきた高官の邸の様子と、張府は全く違った。
侍女たちも取り澄ましたところがなく、話しかけやすい。
侍女たちも取り澄ましたところがなく、話しかけやすい。
召單の朝餉の世話をしながら、若い侍女たちはに賑やかに話しかける。
「召單姐、今日帰っちゃうってホントなんですかぁ~」
「ええ、奥方様が御放免くださり次第」
「え~。もうちょっと居てほしいのにな……」
感動屋とみえて、昨夜の廊で号泣していた侍女が赤い目のまま呟いた。
「ゆうべ、廊でお歌を小耳に挟んだ子たち全員、感動して泣いてましたもん」
「ちょっと。お歌も琵琶も、値がつくお方なのよ。居てほしいの理由なら、厚かましいわよ」
「てへ、ごめんなさーい」
皆、芸人を蔑視する風もなく、茶目っけがあり、話していると気楽だ。
「おはよう、召單さん」
もう打ち解けた笑顔を見せて、外套を手にした梨梨が侍女たちの茶卓にちかづいてくる。
「召單姐、今日帰っちゃうってホントなんですかぁ~」
「ええ、奥方様が御放免くださり次第」
「え~。もうちょっと居てほしいのにな……」
感動屋とみえて、昨夜の廊で号泣していた侍女が赤い目のまま呟いた。
「ゆうべ、廊でお歌を小耳に挟んだ子たち全員、感動して泣いてましたもん」
「ちょっと。お歌も琵琶も、値がつくお方なのよ。居てほしいの理由なら、厚かましいわよ」
「てへ、ごめんなさーい」
皆、芸人を蔑視する風もなく、茶目っけがあり、話していると気楽だ。
「おはよう、召單さん」
もう打ち解けた笑顔を見せて、外套を手にした梨梨が侍女たちの茶卓にちかづいてくる。
「あ。梨梨さま……」
召單の食後の世話をしながら茶を勧めて、自分達も役得で菓子など摘まんでいた若い侍女たちは畏まって立ち上がり、咎められはしないかと淡く低頭した。
「奥方様のお言いつけで、一旦茶楼に参ります。帰ってきたらすぐ、車で茶楼にお送りしますのでね」
「お車だなんて、勿体無いです」
「いえいえ。奥方様のお気持ちですから。ねえ皆?」
梨梨は、張飛夫人の気っ風の良さを知っている若い侍女たちに水を向けた。
「そうですよぉ、召單姐」
「間違いなく送り届けなさりたい、というお気持ちなのですわよ」
皆、口々に、女主人の器量を誇るように言葉を重ねて、遠慮には及ばぬことを召單が受け入れるよう努めるのだった。
「では、お言葉に甘えまして….」
「よかった。じゃ、ちょっと行ってきます。……お前たち、ご心配のないように、お世話をお願いね」
「畏まりました」
若い侍女たちが、珍客の世話に事寄せて、茶菓を前にはしゃいでいても、目こぼしするおおらかさが、梨梨にもある。
梨梨がそんな余裕を持てるのは、張飛夫人の真似をしているからではなく、張府には常に手の空いている者が居る状態にするよう心がけている張飛夫人の采配があるためである。
戦乱をかいくぐってきた賢夫人は、有事の際にこそ全力を投入できることが肝要と考えている。
召單の食後の世話をしながら茶を勧めて、自分達も役得で菓子など摘まんでいた若い侍女たちは畏まって立ち上がり、咎められはしないかと淡く低頭した。
「奥方様のお言いつけで、一旦茶楼に参ります。帰ってきたらすぐ、車で茶楼にお送りしますのでね」
「お車だなんて、勿体無いです」
「いえいえ。奥方様のお気持ちですから。ねえ皆?」
梨梨は、張飛夫人の気っ風の良さを知っている若い侍女たちに水を向けた。
「そうですよぉ、召單姐」
「間違いなく送り届けなさりたい、というお気持ちなのですわよ」
皆、口々に、女主人の器量を誇るように言葉を重ねて、遠慮には及ばぬことを召單が受け入れるよう努めるのだった。
「では、お言葉に甘えまして….」
「よかった。じゃ、ちょっと行ってきます。……お前たち、ご心配のないように、お世話をお願いね」
「畏まりました」
若い侍女たちが、珍客の世話に事寄せて、茶菓を前にはしゃいでいても、目こぼしするおおらかさが、梨梨にもある。
梨梨がそんな余裕を持てるのは、張飛夫人の真似をしているからではなく、張府には常に手の空いている者が居る状態にするよう心がけている張飛夫人の采配があるためである。
戦乱をかいくぐってきた賢夫人は、有事の際にこそ全力を投入できることが肝要と考えている。
普段は七~八割の人数が七~八分目の力で張府が回せるようにと、いつも気を配り、おりおりに見直しをするまめさも持っている。
そんなほのぼのとした明るい平穏の蔭で、張府のぬしは龍に一服盛られ、二日酔いの症状で寝込んでいるという体たらくである。
そんなほのぼのとした明るい平穏の蔭で、張府のぬしは龍に一服盛られ、二日酔いの症状で寝込んでいるという体たらくである。
張府のぬし……張飛将軍は、二日酔いの定番の朝餉に「生姜味の瓜の羹」を啜った後、這うようにして厠へ向かった。
頭は割れるように痛いが
(この俺様が、二日酔いごときで、溺器の世話になどなろうものなら、末代までの物笑いだ……それだけは御免だッ!)
という見栄で、壁に縋りながら歩を進めていた。
(おいおい……厠って、こんなに遠かったかよ……)
心の中で泣きべそをかいて、壁に額を付けて耐えていると、誰かの声が聞こえてきた。
張将軍は、壁に縋った姿勢のまま、痛む頭をほんの少しめぐらせ、足りない分は横目を使って、声のぬしを探した。
(平と、苞か)
植栽の茂りの先の、向こうの庭の四阿に、可愛い甥と息子の姿をみとめ、
ほんの一瞬、頭痛が和らぐ。
関平の後ろ姿には、二哥……関将軍のおもかげを彷彿とさせるものがあり
(二哥……翼徳はまた、呑みすぎてしまいまシた。面目ねえでス)
と、懐かしさの余り涙ぐむほどの心地に至った刹那、張将軍の脳裏に、流れ星のような感覚が走った。
(何だ?)
関将軍のおもかげを思い描いた瞬間のことだったので、何かの虫の知らせかと考え始めたが、すぐに諦めた。
(ダメだ。今は何か考えるって調子じゃねえや。ムリムリ)
再び、壁に縋りながら厠を目指し、黙然と前進していった。
豪傑・張翼徳が、壁に縋りながら厠へ向かうという滑稽な場面も知らずに、若者ふたりは意気消沈している。
二人に元気がないのは、昨夜の宴で耳にした、樂女・召單の歌のせいだ。
苞は、途中から宴席に戻ってきたが、召單が、どうやら丗年前からの出来事を歌っていることを悟るに充分間に合った。
平は、最初から最後まで聴いていた。
宴のはじめに召單が披露したのは『新調関雎』であったため、平は召單が歌も歌えることに驚くよりも
(成都でも、新調関雎が流行していたのか?)
と、襄陽の楽姐妹の歌の伝播の力に驚いていた。
しかし、召單の歌には、襄陽で聞いた歌にはない何物かを感じた。
(……もしや。召單こそが『新調関雎』の原作者なのか?)
この予感をいだきながら、啼春沁で、召單の琵琶の音が卓越して優れて感じた、自分の耳は確かだったと密かに満足でもあった。
次いで、いまだ聞いたこともない一大叙事詩の歌曲である。
平は聴き入り、たちまち歌が語る歴史の世界へ引き込まれた。
まるで、おのれの知らぬ丗年を、歌姫たちの境遇と共に生きたようだった。
歌が終わった後、二人の若者は魂が抜けたような表情をしていた。
「好!」
などと、お決まりの掛け声など発しては、かえって無粋ではないかとさえ思え、憚られる雰囲気だった。
そんな中で、宴の客である彼だけは、普段と全く変わらずに、おっとりと構えていたように見えた。
(廿二につづく)