再び月が天府を照らし、龍はまた月影を遮って星空を仰ぐために、扇を翳そうとその柄を握り直してから、翳すのをやめた。
微かに眸を見開いて、目の前の主君に見入っている。
(……何ゆえに、今まで気づかなかったのか)
いかに曇りがちな成都であろうとも、わが王とともに夜の楼台にのぼれば、些かの星空に恵まれようという事に、である。
わが王はいつでも、晴天の気をまとうている。
生まれついた運といってもよい。
……いや、どこかで気づいていたのに、考えるまでもなく選択肢に入れていなかったのだ。
心のどこかで気づいていたというのに、彼を誘うて星空を仰ごうなど、露ほども思わなかったのにはいくつも訳がある中で、最も大きな一事が龍の胸の隅を鋭く穿つ。
彼の齢は、既に百の半ばを越えた。
このような秋の宵はよかろうが、厳寒の候の夜風などに、彼の身を晒すことなどできようか。
彼とともに生きる日が一日増えるごとに、彼ら二人に許された歳月が一日減ることに思い至れば、龍は人智というものの限りを儚まずにはいられない。
彼が生まれながらにして備えている明朗さとともにあると、この憂いをすっかり忘れがちなのであるが、ふとした時に龍の胸を掠め、如何ともしがたき事であるがゆえに遣るかたもない。
龍にとって、彼のかおばせや聲音や考え方などが、いつでも辺りを照らすかのような風情なので、落ちる影はいよいよ色濃い。
彼がこの思いに気づかぬよう、龍は黙然と扇を翳して星空を見る様子を装ったが、その実、天文は目に入ってはいても、全く観ることができていない。
「......こうしておると、のう」
そんな龍の心の中を知ってか知らずか、彼は低く語りかける。
観てもいない天文から目を離し、龍は彼の姿を双眸に宿してから低頭して両袖を揃え拱手した。
「乱世であることを、つい、忘れそうじゃの」
仰ぎ見た星空から視線を落とし、眩しげに龍のかおばせを見、彼は明るい微笑を含んで、倚りかかっていた磚の上から長い片腕を下ろした。
天文の邪魔をするまいと、彼が立ち去ろうとする気配を察して、龍は内心で慌てながら
「わが君」
と呼びかけて、彼を引き止めた。
「何じゃな」
磚の壁を傍らにしたまま、彼は当代一の賢者に問いかける。
果たして彼に、今後も天文は必要なのだろうか。
結局のところ、龍自身が誤らぬよう、確信を持ちたいがために、己の都合でたびたび天意を問うているだけのことではないのか。
彼のために、最善で最短の道を択りたいがためにである。
もしかしたら、龍があれこれと策を巡らさずとも、全く別な過程を経て、彼は天下取りに王手をかける日を得られるのかもしれない。
とはいえ、あの忘れ得ぬ春の隆中で出廬を請われて諾なった以上は、力を尽くすばかりである。
「珍しき成都の月を......。一人で見るは惜しゅうございます......」
彼がここに居てくれるからこそ、今にわかに星空が覗きはじめているのだという、龍にとっては事実である仮説を明かすことは躊躇われ、苦し紛れの会話を続ける。
「これ孔明、そなた、酔うておるのか」
明朗な笑い聲をたてて、彼は機嫌斜めならず揶揄って応じ、磚の壁に倚りかかりなおした。
(いま少しここに居れと、言いさえすれば良いものを)
と思うと、彼は笑わずにはいられない。
慎み深いがゆえのか、頑固なためか、いずれもであるのか、長く起居を共にしている彼だからこそ、龍の言葉の意味が分かる。
「酔わねば申し上げられぬのであれば……残念至極でございます」
天文を観る利便のために彼が必要だというよりも、彼と共にこの楼台に居るということが、実に心地よいことにこそ、龍は酔いを覚えそうである。
乱世であることを忘れそうなどころか、彼と己が君臣であることすらも忘れそうな程に、なのだ。
「素面で、何を莫迦なことを」
「……莫迦でございます」
これ以上話しては、本当のことを言わねばならぬかもしれず、龍は眸を伏せて磚の石畳を見るともなく見、微かに視線を泳がせた。
いかに龍自身が望もうとも、彼がここへ来ることを習慣にしてはならない。じきに冬が来る。
彼は
(どうやら孔明は、また何ぞ、取り越し苦労をしておるな)
と見破りながら、普段とかわらぬ慈父のような聲音で龍のあざなを呼んだ。
「孔明」
「はい」
「……近う」
そんな龍に、彼は長い腕を伸べて、大きな掌を差し出した。
「……はい……」
龍は、その手を取る以外にない。
彼の手は大きく厚く、乾いていて温かい。
龍の手は細長く薄く 、きめ細やかでひんやりとしている。
彼に手を取られると、父と共にあるような頼もしさ同時に、その温もりが忽ちに伝わり、突然に指先にまで脈が通うように感ぜられ、龍はいつも当惑を禁じ得ない。
二人の心の揺れを察したが如く、風は緩急をはらんで起こり、薄雲が月に紗をかけ、辺りには曖昧な明るさと暗さが交互に訪れる。
至宝の璧に似た龍の佇まいとその聲とに、眸を洗い耳の谺を鎮めたはずの彼であったが、どこかに樂女・召單の歌の余韻がまだ漂っていたのかもしれなかった。
昨夜、成都の主の心に漣をたてた歌曲を披露した召單にとっても、「昨日はいろいろありすぎ」だった。
昨日の裏庭の小亭に召單の姿を認め、何か事が起こる気配を感じ取った玲兒も、世間知らずの若い娘にしてはなかなか敏いものがある。
張府に小さな騒動をもたらした召單は、茶を馳走になりながら、はじめのうちは梨梨と当たり障りのない話をしていたが、梨梨にも張飛夫人の一の侍女としての務めがある。
若い侍女たちが足しげく、梨梨の指示を仰ぎにやって来る。
そうこうしているうちに、また若い侍女が注進にやってきた。
「梨梨さま。あの。水府からお使いが参りました。どうしても梨梨さまにお取次ぎを、と……」
「あらまあ……」
水府とは、軍師が執務する建物を指している。
張府のあるじである張将軍が龍の軍師を「水の軍師サマ」と呼んでいることに因んでの、張府でのみ通用する愛称である。
水府から張府に使者が来ることは極めて稀だが、一旦使者が来たなら、その用件は重大であることが多い。
さすがの梨梨も
(……地獄耳。うちの将軍様が帰ってきちゃったこと、軍師様に絶対もうバレちゃったんだわ……張府、どうなっちゃうの……)
と、背筋が冷たくなった。
しかしすぐに、疑問がわいた。
(でも。なんでわたしなんかに? 将軍様とか奥方様じゃなくて?)
とにかくこの使者に直ちに会うことは、張飛夫人に意向を伺うまでもない最優先のことと考え至り
「ちょっと失礼しますね。じきに奥方様もお越しでしょうから、もう少しお待ちくださいね。……お前たち、奥方様が見えるまで、こちらの客人に粗相のないように。奥方様が見えてお尋ねになったら、梨梨は水府のお使いに会っていると申し上げて」
「はい」
梨梨は水府からの使者に会い、菓子盒を袖に隠して、直ちに張飛夫人に報告するために裏庭の亭子へ小走りに戻っていったが、そこには大人しく待つ召単と侍女たちの姿しかない。
邸のなかで、張飛夫人が一番滞在する時間が長い厨のあたりを探してみると、果たして、夫人はまだ厨に居た。
夫人は、水井坊のなじみの酒屋の番頭と立ち話をしていた。
「それは済まなかったねぇ……。お困りだったろう」
「いえいえ、困るだなんて滅相もない。驚いただけですんで」
「いやいや。うちの呑み助が、本当に申し訳ない」
「それこそ困ります、奥方様にそんな、詫びなんて言われた日にゃ。上得意様なんでやんすから」
「とにかく、酒代のことは承知したから、帳面にしっかりつけといておくれ。月末に必ずお支払いすると老板にお伝えして」
「へい。どうも、こちらこそ、なんだかややこしい手違いで、お騒がせしまして」
張飛将軍が不意に戻った以上は、とりあえず日頃の三倍の酒が必要になったのかもしれない。そのための談合とも見えた。
梨梨は、厨の戸口で様子を伺い、会話が途切れるところを見計らって
「奥方様、水府からお使者でございます」
張府に何事もないかのように、平静を装って夫人に声をかけた。
こんな時、張府の隠語は役に立つが、酒屋の番頭に張将軍の帰還が知られてはいないかと、冷や汗が出る。
「おや、お珍しいこと。すぐ行きます。……じゃあ、よろしく頼みましたよ」
「へい奥方様」
いつもの張府の厨の風景のなか、梨梨の心は不穏な予感でざわざわとする。
そこへいくと張飛夫人はさすがである。胆が据わっている。
梨梨から菓子の盒を受け取り、龍の軍師が張将軍の軍律違反を既に知りながらも、君命により丸くおさめる意向を受けると、その指示に従うため肚をくくった。
良人の張将軍にさえ知らせず、全く取り乱したりしない。
このような経緯があり、結局のところ召単は、日が落ちる頃にようやく、夫人の尋問を受けることになった。
尋問と言っても、至極簡単なものだった。
「……待たせたね。すまなかった」
「いえ、奥様」
「立ちなさい。……これ、それをこの者に」
召単に渡されたのは、一面の琵琶だった。
「楽女といったね。一曲弾いておくれ。お座り」
予想外の展開に驚き、一瞬立ち尽くした召単だったが
「それでは失礼いたしまして……。奥方様、お好みの曲がありましたら……」
と言いながら、借り物の琵琶の弦の具合を確かめ、弾く用意を始めた。
「召単と言ったね」
「はい」
「今朝、何を食べてきたの?」
「……焼餅と、泡菜です……」
曲目や好みの歌の名を聞くことになると思い込んでいたので、召単は意表を衝かれて動作を止め、反射的に朝餉をありのままに答えた。
(何とつつましい)
張飛夫人は朝餉の内容に好感を持った。
質素で、年相応の生活感がある。
嘘で塗り固めた生き方をしている者は、朝陽が微笑むような食卓の様子を咄嗟に答えることなどできるものではない。
朝から酒を呷っていたり、朝餉を摂っていないことすらある。
それが長年にわたると「普通の朝餉」とはどのようなものだったか、さえ忘れ去り、答えに窮する。
「そりゃ、おなかがすいてきたことだろう。……相済まなかったねぇ」
張飛夫人が、まるで母親のような言葉を、労わる口調で発したので、何と答えるべきなのかわからず、召単は琵琶を膝に乗せてその上部を手で握ったまま、張飛夫人の意図を測りかねる表情をした。
「今宵はちょうど宴があるゆえ。おいしい賄いが余るほどできるから、あなたもお食べ。今日は、ここに泊まりなさい」
「えっ」
召単は二度驚いて、借り物の琵琶をただ抱くばかりである。
「さっきの、あなたの仕草ね。うちの娘に楽器を教えに来ている老師とよく似ています。弾ける者の仕草ですから、あなたが啼春沁の楽女だと信じます。……細かいことは明日でいいから。明日、楼主に使いをやりましょう」
張飛夫人はそう言って、召単から何の事情も聞かないばかりか、美味に違いない張府での食事と一泊とを誘ったのである。
召単は、夫人の思いもよらない寛大さに呆然として言葉もなかったが、はっと気付いて跪いて申し出た。
「奥方様、重ね重ねのご厚情もったいなく……。ご恩返しにもなりませんが、せめて、その宴に興を添えるべく、楽の音でご奉仕が叶いますれば幸いでございます。……是非に、お申し付け下さい」
実のところ、夫人はいま、軍師の指示で頭がいっぱいで、召単のことまで考える余裕は既になかった。
召単のことは先延ばしにしておこうと考えたので、いっそ泊めて保留にしようと思っただけだったのだが、召単の申し出は渡りに船だった。
「あら。そう? それは嬉しいわ。……とりあえずね、立ちなさい」
保留にするにしても、疑いはほぼ晴れている直感はあるので、夫人は寛容に応じる。
それに、明日にでも梨梨を茶楼へ使いにやり、召単を楽女として外へ呼んだ場合の値を尋ねさせて、銀を支払うつもりである。
その支払いについて楼主と話をさせた様子で、召単が本当に茶楼の楽女であるか否かや、事の経緯も分かろうというものである。
「今宵は高貴なおかたがお忍びで見えるのでね、ちょっと品のある曲を何曲かお願いするわ。頃合いに、梨梨を呼びに行かせますよ」
「畏まりました」
召単は琵琶を抱いたまま楚々とした風情で膝を曲げて礼をとる。
張飛夫人はといえば、龍の軍師からの指示が誰にも洩れぬよう、宴の席上で良人を含めて皆の目を逸らす機会が増えるのは、好都合でもあったのだった。